神喰いのアルテ
よしふみ
序章 『神に喰われた子』 その1
バルトゥ・ルディアは痛む体を引きずりながら、雪深い北の土地を歩いていた。疲れ果てたその体から吐き出される息は白く、多い。ヒゲは凍りついている。北の土地の吹雪は残酷だった。
愛馬の脚も凍りつき、放置した。妻よりも長い期間のパートナーであった黒馬アインシュナは雪原に残して来てしまっている……慈悲深さがあれば、そして余力があれば、『風』の魔術でその首を刎ねるべきだったのだが……バルトゥにはその余裕はない。
可愛そうだが、愛馬にはゆっくりと凍りつく死を歩んでもらうことになる。騎兵であることを何よりも誇りに思うカイナスの騎士としては、愛馬に残酷な仕打ちをすることは何よりも恥ずべき裏切りであった。
それでも、しょうがない。
歩き続けるしかないのだ。
「……オレは、姫さまの騎士なのだから……ッ」
ディリア姫が子供の頃から、バルトゥは仕えて来た。侯爵領が滅ぼされ、彼女と共にルドアン6世の元に逃げ延びたあの日も……いつだって、彼女の騎士であり、カイナスの騎士だった。
……だが。カイナスは滅びた。大陸掌握を目指したルドアン6世は、野心半ばに八大国の連合軍の前に敗北した―――いいや、ジュゲンさえ裏切らなければ……っ。
「くそッ!!……ジュゲンめ……あの裏切り者の騎士だけは……ゆるさんぞおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
吹雪の轟音を打ち破るような怒声をバルドゥは放つ。一瞬だけ、寒さも疲労も屈辱も遠ざけられる。感情のほとばしりが生む熱は、この極寒の地獄でも安らぎを与えてくれる。やはり……『歌』とはいいものだ。光神アミシュラがヒトに与えた力……世界に始まりを与えた力は、素晴らしい。
しかし。
『歌』の力は長くは続かない。しばらくすれば、寒さは戻って来てしまう―――そして、任務を思い出させる『歌』も聞こえる。弱々しい、命が放つ小さなものであるが……。
「あううう……ううう……」
「……っ!!こ、これは、皇子殿下、申し訳ございません……っ」
主君も姫君も亡くした騎士ではあるが、忠誠は尽きない。いや、むしろその二つの喪失はバルトゥに対してより強い忠誠心を呼び覚ましていた。
バルトゥは大きな体をゆっくりと揺らし、腕のなかに抱えている未来の主君にやさしさを使う。
「皇子……大丈夫ですよ。すぐに……聖域に着きますから。そこでならば、貴方は……生きていけるのです……聖域ならば、ご両親の罪も、清められる……貴方は、そこでならば生きられるのです」
魔獣の毛皮の内側にいる、小さな赤子。それこそが主君と姫の忘れ形見であった。三日前に生まれたばかりだ……本来は、こんな強行軍をするべきではないのだが、それをしなければならない理由がある。
「……聖神たちの加護は、貴方にはありません。貴方への加護は、闇の仔らを呼ぶために消費されてしまった……しかし、それは……決して、ご両親が望んだことではありません。そうだ……そのはずなのです……だからこそ、姫は、この地まで、逃げ延びた……」
三日前。その姫もこの赤子を産み落とすと同時に死んでしまった。炎のように強い生命力を持った、烈女であったが―――追っ手から逃げながらの出産は、あまりにも過酷なものであったか。
奥歯を割る音が、バルトゥの大きな唇の間から漏れる。
「……オレは、あまりにも愚かだ。オレが、姫を守るべきだった。陛下の代わりに、オレが……クソっ。ヴァンの出産のときも、戦ばかりで……妻のことなど気にかけなかったせいか」
女の体など。とくに妊婦の体など、戦士であるバルトゥには理解が及ばぬところが多すぎた。出産も子育ても、妻に任せきりだった。娶り、孕ませただけだ。それでいいと思っていた。だが、人生は……それほど単純なものではない。
烈火の姫君も、妊婦だった。妊婦とは、それほど強い生き物ではないのだ。
「そんなことさえも分からず、ディリアさまの強がりを、真に受けるとは……オレは、何と愚かな男なのだろう……」
国を守れず。主君も、姫も。何も守れなかった。絶望がバルトゥの体を冷たい雪原目掛けて引きずり込もうとしてくれる。その重さに体を任せれば、白い終わりが来るだろう。雪に包まれて、それほど苦しむこともなく……おそらく、すぐに終われる。
……それもいいのかもしれない。
一瞬だけ生まれた気の迷いを、バルトゥは大きく首を横に振り、断ち斬った。そして歩き始めるのだ。脚に絡みついてくる雪を蹴散らすようにして、疲れた身体を引きずるように前に進める。
「まだだ、まだ終わりなどではない。カイナスは、まだ終わってないぞ。陛下と姫さまの血を引く、貴方がおられるのだから……っ」
呪われた子……祝福を奪われた子ではあるが、腕のなかに命の温もりと重さがある。儚く、軽い……彼に未来はあるのだろうか?……理性がそれを否定するが、知ったことか!バルトゥは歌うのだ。体から力を出しきるために。
「聖神どもよッッ!!我が主に、祝福を授けなかった敵どもよッッッ!!!我々は終わらんぞッッッ!!!いつも、我々から、奪い続けた貴様らには、分かるまいッッ!!皇子殿下の献身がッッ!!……慈悲深い、光神アミシュラよッッッ!!!貴方ならば、分かるはずだッッ!!苦しみにあえいでいた我らの悲願とッ!!我々の皇子殿下の……罪の無さがッッ!!」
正しさなど、バルトゥは考えていない。カイナスが魔王の国と呼ばれていたことも、邪神ザリスオールを崇拝していたことも、間違いではない。敵兵を殺し、敵の街を焼き払った略奪者でもある自分は、罪と返り血と怨嗟に穢れているだろう。
正義はあった。
こちらにも、敵にもだが。
誰が正しいのか?何が正しいのか?……戦乱に明け暮れる大陸の何処に、本当の正しさがあったのかなど、誰が証明することが出来るのか?
誰もが正当性を疑われる時代であり、それはバルトゥ自身も抱える問題だった……だが、知ったことか。信じられるのは、一つだった。
「この子は、誰よりも、無実である……」
吹雪から体と……いや命の全てを使ってまで守り続ける赤子に罪がないことだけが、バルトゥには信じられる。生まれる前に、神々に呪われる?……バカげている。ご両親の勝利と復讐のために、邪神の糧にされた?……それで、どうしてこの子が死なねばならない。
「このバルトゥ、騎士道とは正義と学んだ……正義を、そうだ……貫くのだ。我が父や、我が祖父……我が血を生み出した、ルディア家の勇者たちと同じように……正義だ。正義を貫くッ。この正義だけはな……ッ。負けんぞ……オレは、負けない……ッ」
バルトゥはただひたすらに歩き続けた。真白く暴れる吹雪のなかを、まっすぐに来たを目指すのみ。
意識も魂も凍りつく寒さは、バルトゥを容赦なく襲いつづけた。呼吸する程に冥府が近寄ってくるのが分かったが、それでも、負けることはない。騎士の脚は折れることはなく、ただまっすぐに北にある聖域を目指した……。
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