第14話 北方、とうとう琴に手を触れる――そして気付いたこと

 帝は南廂の御座所から二人を出迎えてくれる。そして北の方の姿が他に知られない様に、殿上の燈台の火を消させる。

 そのまま北の方は、御座所へと通される。

 帝は、直接彼女に声を掛ける。


「案内しよう」


 そのまま局の中へと迎え入れる。

 仲忠はそれを見届けると、元の場所へと戻った。


「おいおい仲忠、一体今まで何処へ行っていたんだ?」


 ずいぶんと長く席を外していた息子に、兼雅は問いかける。


「帝からのちょっとした御用が。でももう済みましたので」

「そうか。ではそうそう抜け出すものではないぞ」


 はいはい、とにこやかに仲忠は笑った。兼雅は妻がやって来ていることなど、まるで知らない。

 一方、帝は北の方の几帳の側に置いた茵に座ると、彼女に向かって語りかける。


「急なことで驚かれたろう」


 北の方は黙ってうなづく。


「いや…… 賭碁で仲忠が負けたので、私はあれに琴を弾くことを望んだのだが、全く言うことを聞かない。そこで『代わりを』ということで誰か、と思っていたところ、かねがね望んでいた貴女の弾奏を、と私自身切に望んだのだ」

「そういうことでしたか」


 北の方はおそるおそるつぶやく。


「どうもいつもとあの子の様子が違いましたので、おかしいとは思いました」

「あれはそなたには何も言わなかったのか?」


 北の方は再びうなづく。


「座ってもいられない位に急かされましたので、何のことやら判らずに……

 誠に奇妙な心持ちでございます」

「別に奇妙なことも無いだろう。私はいつも、噂で聞くだけではなく、実際のそなたとこの様に向き合ってみたいと思っていたのだ。そう、趣のある夕暮れなどに、参内してくれたなら、色々と話をしたいと思っていたものだが、さすがに人妻ということで遠慮していたのだ」


 それは当然だ、と彼女は思う。何せ今頃、外には自分の夫が居るはずだ。


「しかしこの様に、会えて話すことができる。こんなに嬉しいことはない」


 そう言って帝は、年頃ずっと思っていた、ということを話し出す。


「昔、治部卿じぶきょうの朝臣――― そなたの父君が存命中に、琴を弾いて聴かせて欲しい、そなたを宮中に迎えたいものだ、と考えていたのだが、父君はまた、古風な人だったからな。入内を快く思わなかったのだろう」


 その話は聞いたことが無い訳ではない。


「本気にされていないのかと、きちんと言葉を尽くしてそなたの入内を勧めたこともあった。それでも父君は承知しなかった。そうするうちに、館に引きこもってしまい――― 亡くなられた後は、そなたの行方も判らなくなってしまった。私のそなたへの思いも伝えられなくなってしまったということだ」


 北の方は目を伏せる。そうは言われたところで、それはもう過去のことなのだ。


「しかし今、そなたはここに居る。心配していた姫君が無事だったことに私がどれだけ喜んでいるか」

「私は」


 北の方は口を開く。


「この十数年というもの、世の中らしい世の中には住んでいませんでした。その以前と今日とが、私にとっては世の中なのでございます」

「その間はどの様な所にいらしたのか。昔から何の隔てもなく容易く会うことができているより、こうやって辛うじて会えた今の方が、なおいっそうそなたへの思いが募るというものだが」


 困ったことを仰る、と北の方は内心思う。


「そう思って見ると、『昔ながら』では目慣れて、ないがしろにする時もあるかもしれない」

「どういうことでございましょう。心が迷ってしまいそうなことを」

「覚えてはおらぬか。言わなくとも自然、はっきりと判るものだとは思うが。私の思いを口にし始めたら、私もそなたも、きりが無いと思う。まあそれはそれとして」


 帝は一度息をつく。


「今夜は仲忠の代わりとして、そなたには参内してもらったのだから、かの俊蔭から伝授された琴をぜひ早く聴かせてもらいたいものだ」

「伝授してくれた人など……」


 北の方は言葉を濁す。


「そなたまで仲忠と同じ様なことを言うのか。さあ早く」

「何のことでしょう。琴のことなど…… 一向に仲忠はその様なことは」

「あれはそなたには言わなかったのか」

「少しも。ただ近衛の陣で見物するように、と言っただけです。御前に伺わせることすら私は知りませんでした。ですのでこの様に普段着のままで急いで参ったのでございます。『御垣のそばに隠れて見物するのにいいむぐらの陰があります。車からお降りなさい』と言われてやってきたのに、ましてや琴など……」 


 北の方は言葉を並べながらも、この先のことを必死で考え始めていた。

 全くあの子は。内心ため息をつく。


「普段は正直な子だけに、それをそのまま信じてこの玉のうてなの様な御殿まで参上した次第でございます」

「ここは『よそ』であって、目的だった葎の下ではなくて悪かったね」


 古歌を引用し、そう言って帝は笑う。北の方もまた、それに応える。


「いえ、もうその『葎の辺りも閉めていた』様ですから」

「心変わりをする人もあるものだ。ところで本当なのか? 仲忠がそなたには何も話していなかったというのは」 


 はい、と北の方は小さく答える。


「成る程な。そもそも今夜、仲忠が私との賭碁に負けたのがいけない」


 それは先ほど聞いた、と彼女は思う。それで自分をここに連れて来たのだ、と。


「琴が、ということではなく、元々は私の言うことを叶えること。それが今夜の賭物だったのだ。私はずっとあれに琴を弾かせたかった。もう長いこと同じ調子だ。今日もまだ、あれは何かと言い立てて、どうしても弾こうとしない。仕方なく、この様なやり方を取ったのだが、そうしたら『自分は一向に覚えていないから、物忘れをしないひとを連れて来る』と言ったのだ」


 そう言って北の方をじっと見る。

 外は灯りで明るいとは言え、御簾と几帳に囲まれた中に居る彼女の姿は、暗い中ゆえ、はっきりと見える訳ではない。

 だがその気配は感じ取れる。それを帝はもっと強く、と願う。


「一族の中に居たのだな」

「私は―――」

「仲忠にはこの『せいひん』の琴を胡茄こかの調べに整えて出したのだ。そのままの調子で、そなたにこの曲の手を知るだけありったけ弾いてもらいたいのだ」

「……」


 どうしよう、と北の方は思う。

 うつほ時代ならともかく、今、三条で兼雅の北の方としてのんびりしている彼女には、やんごとない方からの申し出にどうしていいのか、それすらなかなか判らない。

 それが琴のことなら尚更だ。

 帝はそんな彼女の気持ちに気付いてか気付かずか、続ける。


「琴には色々調子があるが、胡茄がやはり最もしみじみとしたものに感じられるのだ」

「それでは全くお人違いでございます。琴とは一体何の名でしょう。それすら知らない私でございますのに、仲忠はどういう風に申し上げたのでしょう。……困ります」


 途切れ途切れに北の方は抵抗する。

 無論それがいつまでも続くとは思わない。だが言われてすぐに弾いてしまうというのも。


「そなたまでそんなことを言う。嫌な気持ちのままずっと居るなぞ、辛いことではないか。そのままずっとこうしているつもりか? さあ気を変えてはくれまいか。そなたの家が琴で有名なのは、誰でも知っていることではないか」

「知っているならば、どうして申し上げないことがありましょう。本当に琴は遠くからでも見たことは無いのでございます。父や昔は確かに有名だったのかもしれませんが、私の代になりましては、間近に見ることもございません。本当に琴のことは考えられないのでございます」


 一方帝は、いつまでこの抗弁が続くかな、と少し楽しくなってくる。全く頑固な似た者親子――― いや、三代だ、と。


「ことに胡茄などというのものは、一向に。誠におこがましゅうございますが、仲忠なら、昔の名高い弾き手達よりも上手に弾くと思われます」


 そう言って彼女は差し出された琴には一向に手も触れようとしない。


「これまた辛いことだな。長く弾き慣れているものを、そんなに忘れてしまうということがあるのだろううか? 琴の才というものは、若い頃に身につけるものだから、歳を取ったからと言って忘れるものではない。仲忠は自分より琴を良く知るそなたに、私の前で弾かせようと思ったのだろう。しかし」


 帝は少し言葉を切る。


「もしそなたが本当に忘れてしまったと言うなら、それは何とも残念なことだ。しかしそなたが名手であることは、世間の者達も良く知っていることだ。それを弾けないなどと、ひたすらに強情に言い張らない方がいい」


 そう、それは判っているのだ。彼女にしても、いずれは弾かなくてはならないと思ってはいる。

 ただ彼女は怖いのだ。

 兼雅のところに引き取られて以来、琴には手も触れずにきた。それはそれで事実なのだ。

 正直、自分が今どれだけ弾けるのか怪しい。

 弦を押さえた左の指は、今でも力を込めることができるだろうか。上下左右に自由に琴の上を行き来することができるだろうか。

 帝は言う。


「俊蔭はその昔、天下一と言われたが、伝授したのはそなたにだけだ。そういう世に二つと無い手を受けた以上は、誰にでも少しづつでも聞かせることが受けた者の努めではないか? 正直、そなたが真顔で知らない知らない、と言い張るのを聞くのは、私個人として、とても辛いのだ」


 本気なのだ、と北の方は思う。

 だがもう少し。


「『かきなす琴の』と言うではないか。辛いものだ。

 ―――よそよそしく琴を弾こうともしないうちに、夜は更けてしまって、私は泣くにも泣けない―――

『君がつらさに』とはこのことだろう」


 北の方は返す。


「『秋の調べは弾くものことあれ』と言います。

 ―――秋風が調べる松の音色は竜田姫が弾くことになっていますが、今度のは誰の手でしょうか―――

 私を竜田姫とでもお思いなのでしょうか?」

「いやいや、この琴には誰も手を触れてくれないので、すっかり塵が積もってしまったよ。

 ―――水が浅いので、弾く人もいない山の小川は塵が調べているようだ―――

 その誰も弾かない琴を、そなたが弾くというならば、そこには深い因縁というもがあるのではなかろうか」

「もし目で見なかったら如何致しましょう?

 ―――水が『浅い』ために細かい砂まで見える山川が音を立てないように、経験の『浅い』私は秋の調べ/律の調子などはとても弾けないでしょう―――」

「そう言っていないで、さあ。

 ―――田の水の番をする『水守』さえ弾き始めれば、山川の底から水は絶えず湧き出るだろう。そなたの琴の才は泉の様に湧いて尽きないから―――

 私の愛情も、その泉にも増して限りなく深いだろうしね」


 北の方は少しばかり胸が騒ぐのを感じる。夫以外の男からその様なことを言われたのは初めてである。しかも――― 帝が。やんごとなき方が。


「弾かずに居ようとする気持ちは判るが、それでは退出もできまい。いや、私がさせまい。さあ」


 帝はそう言って勧める。

 ああもう、これが限界だろう、と思い、北の方は琴を自分の元に引き寄せた。

 ほんの微かな音で「胡蝶」などの小さく儚い曲を奏で始める。

 指慣らしのつもりだった。ずっとずっと触れていない琴。上手く動いておくれ、と彼女は祈る。

 幾つかの小曲を弾いたところで、帝がもういいだろう、と推し量る。


「その様におそるおそる弾くのでは、却って心が滅入るというものだ。これは、という曲をぜひ弾いてはくれまいか」


 これは、という曲。

 北の方は指が覚えていることを祈る。

 左の指で弦を押さえる。右の指を動かす。奏でる。ゆったりと。

 指に集中するうちに、彼女は次第にここが何処であるのか忘れかけていく。

 この琴が、かつて弾いた「なん風」にも劣らない名器であることに次第に気付く。


 ああ何て素晴らしい音。それに何て響き。


 彼女は自分の出す、その音に次第に酔って行く。


 ああ御免なさいね。もっと素晴らしい音が出せるというのに私がこんな、練習などもとうに忘れ果てた様な腕で。

 外では何やら面白い調べが聞こえてくる。そう、それに合わせてみましょう。


 帝はその様子をゆったりと見守る。

 次第に北の方は自分の世界に没頭し始める。

 音は彼女に昔を思い出させる。

 うつほから出て以来、触れてはいなかった琴。何年ぶりだろう。夫の兼雅にすら、聞かせることはなかった。


 ―――そう言えば、どうして自分は兼雅には聞かせなかったのだろう。


 ふと思う。

 兼雅は琴を彼女に求めたことはなかった。いや、妻がこれほどの名手だということも知らないだろう。

 彼はただ、最初に出逢った女に愛しさを覚えただけなのだ。

 あの「若小君」は確かに少女の琴の音に惹かれて立ち寄ったのだろう。

 だが大人の「右大将兼雅」にとって、それは大して重要ではなかった。そこに居て、自分と向き合う彼女を再び愛したのだ。


 ああそうだ。


 仲忠が時々自分に問うことの答えがおぼろげに見えた気がする。


 何故兼雅を、と。


 普段、仲忠は父のことをさほどに尊敬していない様に彼女には見える。からかっている様な時もある。自分が俊蔭を尊敬した様な、そんな姿はあの父と子の中には無い。

 何故だろう、と思うこともあるし、確かに、と思うこともある。

 そして時々仲忠は言うのだ。

 母上はどうしてあの様な父上を好きになったのですか、と。

 もしかしたら、自分の代わりに琴を弾かせた裏には、兼雅より帝の方が自分に似合いだ、という目論見があったのかもしれない。畏れ多いし、邪推だろうが。

 だがそれでも。

 もしどちらかを選べ、と言われたら、自分は兼雅を選ぶだろう、と彼女は思う。

 琴を弾くうちに、目の前の人物が「やんごとない方」から、ただの男に見えてくる。

 ではこの「ただの男」の方は、自分から琴を取っても執心してくれるだろうか。


 否。


 即座に彼女は否定する。

 ここでもし話すことによって帝が自分を見直したとしても、まず「俊蔭の娘」「琴の伝授者」ということが頭にある以上、ただの女である彼女を見ていることにはならない。どれだけそこで熱情が深まったとしても。

 だが兼雅は違う。

 彼は彼女の素性も知らずに恋した。

 そして今も何処の誰であったにせよ、琴などまるで弾けなかったとしても、ただただ愛してくれる。誰よりも大事な女として扱ってくれる。

 大らかな人の良さが、息子には物足りないのかもしれないが、自分には安らぎである。

 そうなのだ。 

 琴は大切だ。だがそれと同時に彼女にとっては重いものだった。

 兼雅はそこから彼女を解放してくれたのだ。



「……おや、何処からか琴の音が」


 誰が最初に気付いただろう。


「美しい音だ」


 外で管弦の遊びをしていた者達も、次第に北の方の琴の音に、手を止める。耳を澄ませる。部下の手を止めさせる。


「誰だろう? 今の世の中で、これほどの音を出す者が居ただろうか?」


 音の主に皆が頭を悩ませ始める。


「仲忠の中将くらいではないか? こんな素晴らしい音は」

「でも仲忠どのはあそこに居るし」

「藤壺の御方ではないか?」

「いや、藤壺の御方は今日はいらっしゃらない。いらしたなら、東宮さまがここぞとばかりに披露させるだろう」

「もしや……」


 ふと誰かが兼雅を見た。


「いや、まさか」

「しかし」

「大将殿の三条の北の方は、かの俊蔭が手を伝えられているはず」


 そうだ、きっとそうに違いない、と噂する声が次第に高くなる。

 兼雅はそれを耳にすると、何のことだ、とばかりに首を傾げる。


「仲忠、あれはそなたの母上だと皆が言っているぞ。そんなことがあるか?」

「さあ」


 仲忠は落ち着き払って返す。


「不思議な程に素晴らしい琴の音ですね、父上。僕も誰なのか知りたいな」


 そのやりとりを聞いていた周囲の者達は、それでは違うのか、では誰、とばかりにしきりに訝しむのだった。

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