第4話 女一宮の結婚に対する仁寿殿女御の不安
さて、あちこちでは節会のために改めてあつらえた装束が仕上がりつつあった。
右大将家もまた然り。
「ほほう、これは素晴らしい」
「母上、とてもいい感じです」
「喜んでもらえて嬉しいわ」
北の方は微笑んだ。
彼女は彼女で気合いを入れて、夫と息子のために絹綾を沢山取り出して、染め物や裁縫を指示したのだ。
しかし。
「どうした仲忠、せっかくの母上の装束だぞ。そんな浮かぬ顔をしてどうした」
兼雅は息子に問いかける。
「いえ、何と言うか、東宮さまの所へ参上したいと思うのですが、どうも何となく行きかねて」
「何だ何だ。参上して藤壺の御方と話をすれば気分の悪さなど吹っ飛ぶだろう?」
「父上は単純でいいですね」
あっさりと言う息子の言葉に、う、と兼雅は押し黙った。
「ああすみません父上。でもちょっと今考えているのはそういう類のことではないので」
「まあ、お前は私よりずっと賢くて、何考えているか判らないところがあるからなあ。それだからこそ、藤壺の御方が入内する前にも懸想人の中では良く返事をもらったのだろうなあ。私など全くもらえなかった様なものだし」
「父上……」
北の方の前だったことに気づき、兼雅は思わずぱっと口を手で押さえた。
*
その様に左右近衛府が大騒ぎしている間にも、帝は帝で悩みがあった。
ぱちん。
石を打ち、仁寿殿女御は顔を上げる。
「どうなさいました?」
帝は囲碁が大層好きだ。宮中でも強い方である。
そしてまた、仁寿殿女御もなかなか強い。二人はいい勝負相手となることが多かった。
「え?」
「碁のあいだに考えこまれるなど、お珍しいですわ」
「うん、まあ」
帝は言葉を濁す。
「心配ごとなら、私にもどうぞ分けて下さいまし」
「うん、そうは思うのだがな……」
ぱちん、と帝も石を置く。
女御は帝の様子を伺う。確かに最近、帝は何かと考え事ばかりしている様だった。
ぱちん。
「私のことより―――」
盤上に目をやりながら、帝は口にする。
「あなたこそ最近身体の調子がいまひとつの様だが、大丈夫か?」
「暑さのせいでしょう」
「そうかな? 誰か通う者が居るのではないか?」
ぱちん。
「何をおっしゃいます」
「昨夜蔵人をそちらに使いにやったけど、来なかったね、いや、最近よくそういうことがあるじゃないか。何か私に恨み言でもあるのかね?」
「そんな。本当に暑さのせいですわ」
ぱちん。
「まあそれならそういうことにしておこう。けどそんなに気分が悪いというのも何だね、もしかして、おめでたかな」
ぱちん。
「今はそういうことはございませんわ」
「さあ、今は無くてもね」
「『夏虫の……』ということもありましょうに」
ぱちん。
そんなことは今は無いこともご存知でしょうに、と女御は帝の間男のほのめかしに対し、古歌にぼかして言う。
だがこの日の帝はややしつこかった。
「実際この頃はあなたを思う人が大勢居るらしいよ。熱心に言い寄られればいくらあなたが堅いひとだったとしてと、とろけてしまうのではないかな」
ぱちん。
「まあ、誰に濡れ衣を着せようと仰られるのですか、全く…… 昔ならともかく、今のこの私にそんなことがあるとお思いになるのでしょうか」
ぱちん。
「ああ、何という相盗人達でしょうねえ」
帝は嘆息する。
「全く何方のことを仰るのですか」
「右大将はいい男だね」
ぱちん。
「まあ。そんな昔のことを今でも仰られるなんて!」
「昔のことかな。今でも文を交わしてはいるのではないかな」
「冗談でも、そんなこと仰らないで下さいな」
ぱちん。
「冗談じゃあないね。兼雅は色好みではあるけど、そのあたりを差し引いてもいい男だと思うから私もつい疑ってしまうのだよ。……そうそう、弟の兵部卿宮もそうだな。別に身内だから誉める訳じゃあないよ。彼もまたいい男だから言ってるんだ…… そうだね、私が女だったら間違いなく落とされているだろうね」
ぱちん。
「まあ確かに宮は素晴らしい方ですが」
「そうだろう。だから私も心配になるのではないか。少し心ある女だったら、あの兵部卿宮がここぞ、と狙いを定めて口説きにかかったら、まず逆らうことなんてできやしないだろうね。そう思ってみれば、もしあなたがそうであったとしても無理もないだろうなと思うので、私は何も見て見ない振りをするんだよ。兼雅もそうだな。何かあっても、何となく許したくなってしまう」
盤面を見ながら帝はつぶやく様に言う。
戯れ言だ、と女御は気付いている。
言葉遊びに過ぎない。こちらの手を狂わそうとする目論見かもしれない、と女御は思う。
帝は自分にそんなことがあるなどと、全く信じてはいない。周囲の女房達は微妙にはらはらしている様子が伺えるが、子を沢山為した、夫婦としての付き合いも長い。冗談と本気の区別くらいはできる。
「それで?」
ぱちん。戯れ言の続きをうながす。
「兵部卿宮にしても同じだね。彼は自分を見る女に、自分を恋させる様な魅力があって、そうそう、吉祥天女であってもそれには負けてしまうだろうなあ」
ふふ、と女御は笑う。
「あなたの凄いところは、そんな宮にも兼雅にも深入りしなかったところだね。ただし今どうなっているかは判らないが」
ぱちん。
「嫌ですこと。最近の宮は、妹の方に懸想している様でしたわ。私のことなどすっかりお忘れになった様子で、母宮にもずいぶんとくどくどと仰っていたご様子。私など全く全く」
「藤壺の――― あて宮か」
成る程、と帝はうなづく。それまでと微妙に声の調子が変わる。
「あて宮なら仕方がなかろうな。およそ男と名のつく者、あて宮に恋しない者は居なかっただろう。何せあの滋野の
ぱちん。さすがにその折りのことを思いだし、女御は苦笑する。
「その一方で、私は不思議に思うことがあるのだよ」
帝は腕組みをして盤面をにらむ。
「どうやら私の負けの様だな」
ふふ、と女御は笑う。
「まあ仕方なかろう。心が千々に乱れている時に勝てる訳がない。あなたのことといい、仲忠のことといい」
「まあ、不思議なのは仲忠どののことですの?」
「仲忠が、というよりあて宮が、だな」
「妹が?」
盤と石を片づけさせ、二人は改めて差し向かいになる。
「どんな天下に珍しいしっかりした女でも、仲忠の方にさえ気持ちがあれば、女の方でも心は動かされないという様な男だ」
確かに、と女御は思う。
孫王の君などいい例だ。
女御はあて宮の使いで度々やって来る彼女と話をするたびに、しっかりした女性だと感じる。殿上人達のからかいにもさらりと返して負けることが無い。それでいて嫌味も残さない。
そんな彼女も、仲忠には落ちた。
身分がどうという問題ではない。続いていることが問題なのだ。
彼女は仲忠との仲を続けさせている。彼女自身が仲忠のことをとても好きなのだ、と女御は思う。
「そんな仲忠に、よくもまああて宮は心を動かされなかったと思う。感心するよ。よほどゆかしい心持ちなのだな」
「そうですね」
違う、と女御は心の端でつぶやく。妹はそういうものではないのだ、と。
他の妹より出来の良いとされている美しい妹。今でも東宮が側に置いて、端から見苦しいまでに寵愛されているという。
だがその気持ちはどうだろう。
奥ゆかしい。外側から見ればそうかもしれない。
父母が言うには、誰が示唆した訳でもないが、東宮以外には冷淡な返事しかしなかったらしいという。
だがそれは東宮に気持ちが靡いていたからという訳ではないと彼女は思う。
例えば自分。
何も知らない少女の頃に、正頼の大君ということで入内が既に予定されていた。父も母もそのつもりで彼女に教育を施した。それが当然だと思っていた。
だが妹は違う。
確かに東宮のもとに入内させるに相応しい歳ではあったが、そうと決まっていた訳でもない。
選択肢は色々あったはずだ。実忠あたりなど、本気を出せば正頼とて許さなかったことはないだろう。
だがあて宮はそうしなかった。させなかった。
東宮に、という意志がそこには存在した。
それは「ゆかしい」とは違う。
違うと女御は思う。逆だ、と。
彼女は東宮妃に、という強烈な意志をそこに持っていたのではないか、と。
ただ少しだけ、女御には気になることはあったが―――
「それでも仲忠どののことは嫌いでは無かった様ですわ。他の方より沢山返事はしたということですし。とは言え、二人とも本気で思い合うというところまでは行かなかった様ですが」
「うーん。二人の間に交わされた文はどんなに趣深いものだろう。見てみたいものだな。そう、仲忠か……」
ふう、と帝はため息をつく。
「やはり物思いがございますね」
「仲忠。そう、仲忠なのだよ。それに涼だ」
「涼どの」
突然出てきた名に、女御は驚く。
「神泉苑の宴の時、二人に約束しただろう。素晴らしい二人の琴の腕に、あて宮を涼に、そして私達の女一宮を仲忠に、と」
確かにそういうことがあった、と女御は思い出す。
「あて宮のことでずいぶんとばたばたしておりましたから、すっかり忘れておりましたわ」
「薄情な方だ」
帝は笑う。
「そろそろそっちも何とかしなくてはならないと思うのだ。で、涼にはあて宮の下の妹をあげたらどうかと思う」
「今宮ですか」
驚いた様子を女御は見せる。予想はしていた。実家からの知らせで、最近は今宮の元に何かと求婚者が文をよこしているというのだ。
ただ父母は何か考えることがあるのか、それらの文を全て今宮の目に触れさせることはなく捨てているという。
「今宮は構わないと思うのですが…… 女一宮はどうでしょう。降嫁させるには、仲忠はまだ位がやや低く、頼りないのではないでしょうか」
いやいや、と帝は手を振る。
「心配なさるな。天下の何処を探しても、現在の世の中で仲忠ほどの婿がねは居まい。見ただけでもこっちの気持ちが良くなる様な男だ。放っておいても出世もするだろう。婿にということで地位も上げてやることもできる。だからあなたが賛成してくれればもっと嬉しいのだが」
「涼どのに一宮、今宮を仲忠どのに、というのではいけないのですか?」
「ちょっと考えることがあってな。そのあたりで少し悩んでいたのだが……」
「私は」
母としての心がぬっと彼女の中から突きだして来る。
「仲忠どのは確かにいい方だと思うのです。だけど少しだけ気になって…… その」
「うつほ住まいのことかね」
黙って彼女はうなづいた。
確かに現在の仲忠は素晴らしい人物だ。疑うことない事実だ。
しかし彼がその昔、山のうつほで貧しい暮らしをしていたというのも事実だ。それが彼女の心を迷わせる。
普通の貴族の没落した貧しさとは比べものにならない程だったという。
兼雅に近しかったことで、彼女のもとには新しくやってきた妻と息子の情報は事細かに伝わってきていたのだ。
兼雅が流した奇跡の賜物の様な素性も、かなりが虚構だということを彼女は殆ど知っている。
つまりは、流れ者に近いものではないか。
流れ者の成り上がりじゃあないか?
素晴らしい公達だ、努力の賜物だ、と思う一方で、そう思ってしまう自分が居るのだ。
「ですから私には決められません。一宮が、あの子が可愛いからこそ、どうしても私にはそのあたりが決められないのです」
成る程、と帝は大きくうなづく。
「彼の素性を気にするあなたの気持ちは判る。だが大切なのは現在だろう。それに彼はこれからもどんどん素晴らしい人物になっていくだろう。心配は要らない。相応しい位を与えれば、彼の中身もきっとそれについてくるだろう。仲忠はそういう人物だ」
「……いま少し考えさせて下さい」
「左大将と相談かね? きっと正頼は嫌とは言わないだろうね。むしろ孫である一宮より、今宮に娶せたくて仕方ないのではないかな」
そうかもしれない、と女御は思う。
「本音を言えば、私は女一宮との間に、琴の名手の血を伝えさせたいのだよ。左大将とそのあたりも話したいものだ」
琴か。
それでは仕方があるまい、と女御は覚悟を決めた。
彼女とて、その点だけは何を置いても認めざるを得ないのだ。
「父上をお呼びなさい」
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