第66話 大家への電話
クリスが突然日本にやってきて三日目の朝……というよりも昼である。
前日と同じように同じベッドで寝るかどうかということで揉めたりしたのだが、シュウは半分脱いだスウェットを背中側に持っていくことで身動きを取れないようにして寝たらしい。この方法なら自分の体重で肩から手首までロックされてしまう。
朝食と昼食を兼ねた食事を済ませ、二人は外出の準備を済ませる。
クリスは淡いグレーのカットソーにデニムの組み合わせ。ストレッチの効いたデニムは動きやすい上に、何にでも合わせられるのでさらりと着こなしている。化粧はまだアイラインを引くのが苦手のようで、今日も簡単に済ませているのだが群を抜いた美しさである。
一方のシュウも似たような格好で、長袖のTシャツにデニムパンツ。
下手をすればペアルックのように思われるかも知れないが、実は互いにそのことに気がついていなかったりする。
まだまだ開店までに時間があるが、今から追加の仕入れと不足する日用品を買うためにまた天満市場へと向かうところだ。
でも、シュウにはその前にやるべきことがあった。
「先に大家さんに電話しておくか。確か……」
シュウは小さな本棚に仕舞ってあった封筒を取り出すと、店の賃貸借契約書を取り出す。
そこに、ビルのオーナーである奥村氏の会社と住所、電話番号が書かれているからだ。シュウは、契約時にビルの最上階に住居があることや、同じビル内に事務所があることも知っていた。
「あった、これだ。少し待っててくれるかい?」
シュウの問いかけに、クリスは黙って頷いた。
そして、シュウがスマホを取り出して、電話をかける。
数回の呼び出し音の後、受話器を上げる音がして相手が電話口に出る。
『はい、奥村です』
いかにもよそ行きの女性の声が聞こえる。
「一階の店をお借りしている生田と申します。店のことでお伺いしたいことが――」
『うちは間に合ってますので――ガチャッ』
用件を切り出すまでもなく電話を一方的に切られ、シュウは眉を八の字にしたまま、側にいるクリスに顔を向けた。
スマホのスピーカー部分から声が聞こえていたクリスも、一体何があったのかわからない。とにかくシュウの表情を見ているだけだ。まだ電話の仕組も理解できていないので、クリスはシュウ以上に困惑している。
「もう一回かけてみるか……」
シュウは仕方なく、スマホの発信履歴から再度電話を掛ける。
先ほどと同じように数回の呼び出し音のあとで、今度は男性が電話口に出た。
『はい、奥村です』
「一階のお店をお借りしている生田と申します」
『ああ、いつもお世話になってます』
今度は話ができそうだとシュウの顔から緊張感が薄れていく。
だが、その男性の後ろから罵り、喚くような女性の声が聞こえてくる。
「あ、いつもお世話になっております。お店のことで少しお話を伺いたくてお電話させていただいたのですが、もしよろしければ今夜にも店にお越しいただくことはできますか?」
『うーん、それがなぁ……』
電話口に出ている男性は困ったような声を上げた。
『さっき電話してきたんは自分かいな?』
「ええ、そうですが……」
『そらえらいすまんことしたな。嫁はん、認知症になってしもてな……一人で家に置いとくわけにいかんのや。せやかて、あんたのとこ連れて行くとなっても嫌がりよる。一番安心できる家におりたいんはわかるんやけどなぁ……』
この状況では夫婦揃って店に来て貰うというのは難しく、電話口の男性もあまり外に出たくなさそうだ。
この状態では、こちらから大家のところに行くしかない――シュウはそう判断した。
「そうですか、じゃあこちらからお邪魔することはできますか?」
『ああ、あまり遅いと困るんやけど……夕方とかやったらええよ』
「では、今日の一六時くらいにお邪魔させていただきます」
『四時やね。待ってますわ』
「はい、よろしくおねがいします。失礼します」
シュウは電話を切ると深い溜め息を吐く。
大家のところでは恐らく一時間くらい話をしないといけないこと、これから店の仕込みがあることを考えると、急いで仕入れに向かわなければいけない。
「とりあえず、仕込み時間が一時間減ることになった。すぐにでも市場に行かないと」
「わかったわ」
クリスも話し声は聞こえていたのでだいたいの内容は理解していた。わからないのは「認知症」というキーワードくらいのものである。
だが、そのことを質問する余裕も与えず、シュウは外に出る準備を済ませてしまっていた。
クリスは慌てて玄関で靴を履き、シュウに続いて部屋を出た。
「ねぇ、シュウさん。認知症ってなに?」
急ぎ足で大阪メトロの日本橋駅に向かう途中、クリスはシュウに認知症のことを尋ねる。
シュウ自身は両親を早くに亡くしているし、そんなには詳しくないのだが一般的な知識として知っている範囲を答える。
「歳をとると、脳の細胞が死んでいく。その結果、記憶力が低下したり、忘れてしまったりする症状のこと……という認識なんだが、電車の中で調べるよ」
「うん、わかった。あとでね」
何も乗っていない折りたたみ式のカートを引きずりながら早足で歩いていると、すぐに日本橋の交差点に到着する。ホームが向かい合って作られている駅なので、天神橋筋六丁目に向かうには北向きのホーム――西側に渡ってから地下に降りたほうが都合がいい。
赤信号で立ち止まったシュウはポケットからスマホを取り出し、ブラウザを開いて「認知症」のことを検索した。
大まかに三つの認知症タイプがあることを確認し、それぞれの内容を読み込む。
クリスも興味深そうにその内容を覗き込んでいるが、まだひらがなとカタカナしか読めないはずだ。
「なるほど……認知症には三種類あるらしい。脳が萎縮して小さくなるアルツハイマー型認知症、脳細胞に特殊な物質が生成されて脳細胞が死んでしまうレビー小体型認知症、あとは脳梗塞や脳内出血で細胞が死んでしまう――」
「ご、ごめん。細胞ってなに?」
「そこからかぁ……」
シュウは一度空を仰ぎ見ると、細胞でまた検索をかける。
当然、中学で学習するレベルの内容であれば説明できる自信があるが、細胞の数や種類などを尋ねられると答えられないからだ。
だが、検索結果が表示されたタイミングで信号が青に変わった。
「とりあえず、急ごう」
「うん」
シュウはクリスの右手を取って、また早足で歩き始める。
長い階段を降りた先には改札口があり、その向こうはすぐに堺筋線のホームだ。
シュウとクリスはICカードを翳し、改札を抜けて最後尾の車両が止まるところまで歩いた。幸い、間もなく電車も到着する。
「ふぅ……とりあえず、細胞というのは動物や植物を構成する組織の単位というと難しいか……」
「うん、もうわけがわからないわ」
クリスは自国で学校にも通っていたような話をしているのだが、そこまで生物学などが発展している世界ではない。
顕微鏡なども発明されているのかさえシュウは知らない。
「えっと、植物も動物も細胞というものが集まってできているんだ。この細胞は最初は一つしかない。動物なら受精した卵、植物なら種かな。
その一つの細胞が二つ、四つ、八つと分裂し、役割ごとに違う成長をして木や草、人間などの動物になっていくんだ。例えばオレくらいの体格ならだいたい三七兆個の細胞でできているらしい」
「三七兆個ってすごいわ! 数えた人がいるの?」
「そうだな、たぶんいるんだろう。オレは数えたくないが……」
実際には組織単位で研究が行われており、それぞれが数えたものを合計すると、その数値になるらしい。
その時、警笛を鳴らし、マルーン色をした高槻市駅行きの車両が滑り込むように入ってきた。
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