第57話 イタリア料理(2)

 テイスティングの目的と手順のようなものをシュウが説明していると、千怜がカウンター奥に出てきた料理をシュウとクリスの間に差し出した。


「お待たせしました。そら豆とペコリーノ・ロマーノの小皿です」

「あ、千怜さん。チェイサーを二つください。あと、少し訊きたいことがあるんですよ」

「ちょっと待って。いま忙しい――」


 見ればわかるだろうと言わんばかりに皿を何枚も持って運んでいく姿はとても頼もしい。年齢も加味すると肝っ玉母さんを地で行っているといった感じだ。

 そして、給仕を終えると急いで戻ってきて、次の皿をまとめて運んでいく。


「すごいわ。いちにいさん……片手に四皿持って運んでる」

「真似するなよ、うちの店じゃ普通にトレイを使って運べばいいからな?」


 クリスは千怜の後ろ姿に何かを感じたのか、少し憧れのようなものが籠もった熱い視線で追いかける。

 シュウはクリスが真似をしないように釘を刺すと、砕いたペコリーノ・ロマーノとそら豆を投げ込むように口に入れてむしゃむしゃと噛んでいる。


 そしてパタパタと戻ってきた千怜は、シュウの前にまでやってくるとクリスの顔をまじまじと見つめて溜息を吐く。


「はぁーっ、本当に綺麗な子ね……。ところで、訊きたいことって?」

「ああ、うちの店の場所なんですけどね。中華料理屋の前は何の店だったんです?」

「えーっと……確か小料理屋さん。夫婦でやってはって、店の名前は確か「おくむら」っていう名前やったと思うけど?

 なあ、あんた。シュウさんの店のところ、昔は「おくむら」って名前やったやんな?」


 突然、千怜は厨房に向かって大声で尋ねた。

 慌てて何のことかと奥の厨房からこの店の店主、裏田和翔うらたかずとが顔を出す。


「おう、シュウさんまいど」

「裏田さん、こんばんは」

「ものすっごい美人さんと一緒やん、どないしたん?」

「この子はオレのはとこなんですよ」


 どこかで聞いたような会話がまた始まるかと思ったそのとき、千怜が割って入る。


「あんた、手ぇ動かしながらできひんのか?

 まあええわ……シュウさんの店のところって、前は「おくむら」って名前の小料理屋やったやろ?」

「せやったかな……うん、せやな。奥村さん、つまりシュウさんとこのオーナーさんや」


 思わぬところで大家に話が戻ってきたことで、シュウも驚きを隠せない。

 店の入っている建物自体は築三五年程度の建物だが、複数階の立派な賃貸ビルなのだ。まさか、そこのオーナー自ら一階で店を出していたとはシュウは考えたこともなかった。


「バブルの頃に株やら何やらで儲けて雑居ビルにしたらしいで。儂が知ってんのはそれくらいやなぁ……ほなまた」


 和翔は他の注文が溜まっているらしく、厨房の奥へと姿を消していく。厨房の中には他にも二人は働いているのが見えて、本当に忙しそうだ。


「ありがとうございました」


 その後姿にシュウは礼を言うと、クリスに向き直る。

 既にクリスもシュウの方に向いて座っていて、目をキラキラとさせている。


「一歩進んだね」

「ああ、これで今日も一歩進んだ。あとは、いつオーナーに話を聞きに行くかだな」


 シュウとクリスは言葉に出すこともなく、互いにワイングラスを掲げた。






 前菜代わりのそら豆とペコリーノ・ロマーノ、ブロッコリーとカリフラワーのアンチョビ炒めはあっという間に二人の胃袋の中へと消えていった。

 特に、アンチョビはクリスの世界でも似たものがあるそうで、遠くの漁港で作ったものが街に届くまでに売れてしまうらしく、とても稀少なものだそうだ。

 料理そのものは弱火にかけたフライパンに入れたオリーブオイルでじっくりと火を通したニンニクと唐辛子にアンチョビを混ぜ、茹でたてのブロッコリーとカリフラワーを炒めて塩で味を調えただけのものだが、クリスは殊の外喜んだ。


 そして、ニョッコフリット、生ハム盛り合わせが千怜の手で二人の前に差し出される。


「お待たせしました。ニョッコフリットと生ハム盛り合わせね」

「よっ! 待ってました!」

「――ッ!」


 オーダーした最後の料理が運ばれてくると、シュウは歓声をあげた。

 そのあまりに大きな声にクリスは驚いたのか、ビクリと背筋を伸ばしてシュウを見上げた。


「ご、ごめん……」


 シュウは少し大人気なかったと反省した素振りを見せ、クリスに謝罪する。

 だが、クリスはじとりと見つめるばかりで、不機嫌そうだ。

 その雰囲気を和らげようと、千怜がクリスに耳打ちする。


「シュウさんは、ほんまに揚げパンがすっきゃから……覚えときや、シュウさんの好物は揚げパン」


 とはいえ、店内の喧騒であればある程度大きな声で言わざるを得ず、結局それはシュウの耳に届くことになる。


「いや、揚げパンというか――このひし形の揚げパンが好きなだけです。もっちりと柔らかくて、ふんわりと粉の香りがして甘じょっぱくて」

「じゃ、最初はわたしが食べます」


 そう宣言すると、クリスはシュウが静止する間もなくニョッコフリットをその白く細い指で摘みあげると、口に運ぶ。

 歯を立てるとポフッと最初に中の空気が抜け、もっちりとした食感が歯を押し返してくる。中の空気は小麦やラードの香りを伴い、鼻腔へと抜けていく。そしてそのまま顎に力を入れるとむちりと噛み切れる。

 ニョッコフリットは程よい塩気と生地の弾力が心地よく、クリスはつい噛み続けてしまうのだが、それも唾液に混ざり合うと喉の奥へ消えていってしまう。


「おいしい! わたしもこれ好き!」


 この食べ物と出会えた喜びを顔いっぱいに表すかのような笑顔でクリスが声をあげた。

 そうして一気に機嫌がよくなったクリスに、シュウは更に美味しく食べる方法を提案する。


「このプロシュートっていう生ハムを巻いて一緒に食べるともっと美味しいぞ」

「そうなの? じゃぁ、試してみる」


 早速クリスはプロシュートを一枚手でつまみ上げると、ニョッコフリットを包むように巻いて齧りつく。

 ポフッとニョッコフリットが潰れると、プロシュートの薫製香と小麦の香りが一気に口の中に広がり、鼻に抜けていく。ねっとりとしたプロシュートの舌触りと、もっちりとした食感が対照的で楽しいのだが、噛んでいるとじわじわとプロシュートから旨味が滲み出て、ニョッコフリットからは甘みを感じるようになる。

 それは噛んでる間ずっと続き、飲み込むことで儚く消えてしまう。


「おいしい! 本当に生ハムと合うわ」

「そうだな、相性抜群って感じだな」


 自分もプロシュートで包んだニョッコフリットを食べながら、シュウがまたワイングラスを掲げると、クリスもそれに合わせてグラスを掲げ、塩気で乾いた口を潤す。


「仲いいわね。料理はこれで終わりやけど、どうする?」


 千怜が二人に声をかけた。

 そろそろ腹も膨れそうなタイミングなので、シュウはメニューを開いてデザートを選ぶか悩む。

 すると、そのメニューを横から覗き込んだクリスが、指して尋ねる。


「この写真はなぁに?」

「ティラミスだな。口溶けが良くてとても人気がある定番ケーキだ。他にもケーキはあるけど、一度は食べる価値があると思うぞ。

 パンナコッタは牛乳に砂糖を溶かして固めたもの、カンノーロは筒状の揚げパンにチーズクリームを入れた甘いお菓子だな。他にもあるけど、どうする?」


 クリスは迷うこと無く、ティラミスを指す。

 シュウが勧めるものならば外れることはないとクリスは知らず識らずのうちに判断を委ねてしまっていた。


「これがいい。飲み物は葡萄酒?」

「いや、カプチーノがいいぞ。それにするか?」

「うん、それでいいわ」

「じゃあ、ティラミスをひとつ。カプチーノを一杯に――オレはアフォガートで」


 アフォガートはアイスクリームやジェラートにエスプレッソコーヒーをかけたドルチェだ。バニラ系のアイスクリームかジェラートを使うのが一般的だが、店によっては違うものを指定することもできる。

 シュウは何もいわなかったので、バニラ系ということだ。


「はい、ティラミスとカプチーノ、アフォガートね」


 千怜はカウンター向こうにある厨房に聞こえるような声でオーダーを通した。


「オレは少しトイレに……クリスは大丈夫か?」

「うん、さっき可純さんのところで行ったから大丈夫」


 シュウが席を立つと、少し酔いが回ったようでフラフラとトイレに向かって行った。

 店内は料理が一通り出終わったタイミングで、しばらく余裕がある状態だ。この隙きを千怜や菜乃花が逃すはずもない。


「ふたりはほんまに仲がいい感じやけど、ただの親戚なん?」

「はとこやったら結婚できるけど、そんな感じとはちゃうん?」


 ふたりは詰め寄るようにクリスへと質問を浴びせた。

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