第56話 イタリア料理(1)

 注文した料理をすべて堪能したシュウとクリスは、会計を済ませて店を出た。

 ほぼ料理を食べ終わるという頃になって、あと一組の客が入ってきたが、当初の目的の一つでもあった「接客を教わる」ということはクリスの頭の中から消え失せてしまっていて、酒盗チーズと日本酒を味わいだけで一切見向きもしなかった。

 可純にお願いしたのだから、それはどうかとシュウも思ったのだが、基本的な接客の流れを書いた紙を別にもらっていた。だが、その紙には可純が書いた漢字やひらがなで書かれたものなので、クリスは読むことができることもなく、実際の可純の動きを見てその内容を理解するのも難しい。

 ただ、その紙をシュウが読んでクリスが母国語でよみがなを書き上げれば、それと可純の動きを確認できるようになるという理由をつけると、クリスはその確認のためにまた連れてくるようシュウにお願いした。またクリスが酒盗チーズを食べに来ることを目的にしていることまではシュウも気づいていないようだ。


「さて、次はそっちの角にある店に行くよ」

「イタリアとか言う国の料理ね?」

「そうそう。素材を生かした調理をするから、好きな日本人も多いね」


 そんな話をしながらシュウは扉を開く。


「カランコロン」


 扉を開くとドアベルが鳴るが、一気に聞こえてくるたくさんの客の声が騒がしい。

 それでも店員らしき女性がドアベルの音を聞き分けて、入り口までやってくる。


「いらっしゃいませ…っ…て、シュウさん。一人やんね?」

「こんばんは、千怜ちさとさん。いや、二人だけど?」


 千怜と呼ばれた女性はシュウがいつも一人で来るのでその後ろに張り付いたクリスが別のお客さんだと思ってしまったようだ。そして早速、シュウを揶揄おうとクリスを見るなり、動揺して目をパチクリさせる。そして、明らかにわざとらしく疲れた表情をつくると、頭を抱え込んで呟く。


「え? どういうこと? シュウさんがこんな美人の女の子と一緒とか……あかん、今日は疲れてるみたいや、これは夢や……世間が連休やっちゅーのに働いてるからや……」

「なんでやねん!」


 いちいちボケてくるのが面倒くさいと、シュウは最も汎用的なツッコミ用語で済ませる。

 店のオーナー夫婦なのだから、休みを決めるのも自分達なのに社畜のようなことまで言い出すので、シュウも一瞬不機嫌な顔になるのだが、シュウの店の界隈では古参にあたる店なのであまりきつくも言えないのがもどかしい。

 すると、またチラリとクリスの容姿を確認して、千怜は奥へと二人を案内する。


「カウンター席しかないけどええかな?」

「もちろん」


 テーブル席が左右に並ぶ店内は満席で、カウンターも奥の三席しか空いていない。

 とてもリーズナブルな値段で食べられるうえ、スタンプカードなどを発行してリピート客を確保しているのも大きな理由だろう。とても繁盛しているようにみえる。

 だが、銀髪ロングの髪を靡かせながらそのテーブル席の間をクリスが通り抜けると、ピタリと喧騒が収まり、視線が一斉に彼女に向かう。そして、しばらくしてまた会話が始まると、徐々に店内では様々な話し声が混ざってざわざわとした喧騒へと変わっていく。


 カウンター席まで案内されると、シュウは一番奥側にクリスを座らせ、隣に座った。

 その明らかに他の誰かと接触しないように女性を守ろうとするシュウの姿を見ながら、千怜はタオルウォーマーからおしぼりを二本取り出し、冷水が入ったグラスをトレイに乗せて二人の前に差し出した。


「なんか、すごい紳士っぽいっ……」

「いや、オレは元々紳士ですよ?」

「ふーん……」


 ちょうど料理ができたのか、カウンター席の後ろにある台に料理が二つ出てくると、千怜はその二皿を見てオーダーを確認し、テーブル席へと給仕しに向かった。


「シュウさんって、いつも一人だったの?」


 クリスが何となく憐れみや哀しみの籠もった声で尋ねた。

 だが、シュウも好きで一人でいるわけではない。今の店を持つに至るまでの経緯というのもあるし、店を持ってまだ期間が短いというのが大きい。


「まぁ、こっちに店を出して半年だし、今までは一人で店まわしてたからな……」


 明日からはクリスと一緒だということを含みに持たせ、シュウは呟く。

 好き好んで一人でやってきたわけではない。オープン当初は知り合いが手伝いに来てくれたし、そういう意味ではずっと一人で店を切り盛りしていたわけでもない。カウンターに八席、奥に四人用のテーブル席がある程度なので、なんとか一人でやれている。

 ただ、一人でもホール係がいれば客に飲み物を待たせることもなくなるのは嬉しい限りだ。


「シュウさん、シュウさん。そちらの女の人、カノジョさんなんですか?」


 突然背後から声が掛かり、シュウはビクリと身体を動かした。

 振り返るとそこにはサロンを巻いた女性店員が注文伝票を片手に立っていた。


「菜乃花ちゃん、びっくりしたよ。えっと、この子はクリスティーヌ・アスカ。はとこなんだ」

「はとこって、従姉妹みたいなもん? ちごたっけ?」

「オレの祖父の妹の娘の子だよ。クリス、この子は和気菜乃花わけなのかちゃん。調理師学校を卒業してこの店で修行中なんだ」


 シュウは慌てて互いの紹介をした。


「クリスティーヌ・アスカ、二十歳です。クリスと呼んでくださいね」

「うわっ、日本語すごいやん! わたしは菜乃花って呼んでね。歳は……似たような感じやね」


 菜乃花は歳をごまかした。一応は二四歳なので似た感じといえばそうだが、クリスは実年齢は一七歳なので七歳も差がある。

 シュウはそれを思うとツッコミたくなるのだが、これ以上はボロがでるので我慢した。


「それで、飲み物はどうしましょ?」

「キャンティをボトルで。そら豆とペコリーノ、ブロッコリーとカリフラワー、揚げパン、生ハム盛り合わせ……とりあえずそれで」


 パラパラとメニューを見て、シュウが次々に注文していく。

 といっても前菜が中心で、揚げパンと生ハム盛り合わせ以外はそんなにボリュームのあるものではない。


「はい、キャンティボトル一本、そら豆とペコリーノ・ロマーノの小皿、ブロッコリーとカリフラワーのアンチョビ炒め、ニョッコフリット揚げパン、生ハム盛り合わせを各一人前でいいですか?」

「ああ、お願いします」


 注文を受けると、菜乃花はカウンター内に戻って同じ内容を読み上げる。

 それを見ていてクリスは先ほどまでいた可純の店との違いに気づいた。


「さっきの店と、少し違うね」

「まあ、こっちはイタリア料理だからな」


 などと話している間に菜乃花がワイングラスとボトルを持ってやってくると、ポケットからソムリエナイフを取り出してテキパキとコルクを抜き、その匂いを嗅ぐと先ずシュウのグラスにワインを注ぎ差し出した。


「どうぞ」


 菜乃花からグラスを受け取ったシュウは、先ず香りを確認し、軽くソワリングした後にグラスを脚で持ちワインの足を見て、次に白いおしぼりの上で色を確認する。そして、最後にまた香りを嗅いで一口だけ口に含む。

 クリスはその飲み方をじっと見つめていて、シュウが何をしているのか理解しようとしているのだが、さっぱり想像さえつかない。


 シュウが黙って菜乃花に頷くと、菜乃花はクリスの分のワインを注いで差し出す。


「ごゆっくりどうそ」


 最後に一言残すと、菜乃花はまたカウンター奥の台に出た料理を確認して、他の客へと運んでいった。


「今のはなに? 儀式かなにかなの?」


 クリスはすぐにでも酒が出てくるものだと思っていたのだが、しばらくお預けを食らった気分になっていた。

 だが、とても厳粛な雰囲気がそこに漂っていたので、我慢していたのだ。


「ちょっと端折ってるけれど、テイスティング。簡単に言うと、もてなす側の人が飲む前の味見をして確認する……まあ、儀式みたいなもんだな。

 このワインはイタリアでは一般的なワインだから、少し大袈裟な気もオレはしてたんだけど、菜乃花はソムリエールの試験前だから見てほしかったんだろう」

「ワイン……この葡萄酒のことね?」

「そのとおり」


 シュウはテイスティング用に注がれたワインを飲み干して、今度は多めに注いだ。

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