第52話 可純の応対
クリスの困り果てたような顔を見たあと、そのメモを見たシュウはすぐに原因を理解し、日本語を読めないことを伝えるのを忘れていたことに後悔する。
だが、まだ客が入ってくる時間帯まで少しあるので、慌てて読み方をクリスに教えようとする。ただ、その前に文字そのものの説明が必要だ。
「日本の文字には大きく三種類ある。漢字、ひらがな、カタカナの三種類がある。難しい話になるが、漢字は隣の大国――中国を起源とする文字に日本独自の変化を遂げたものなんだ。その漢字を簡素化して生まれたのがひらがな。漢字の一部をとって生まれたのがカタカナ」
シュウが説明を始めるのだが、その内容が難しいのでクリスは眉を顰める。
「まぁ、最初のこの八文字は題名だな。最初のひとぽち目は『いらっしゃいませ』と読む、客が入ってきた時に使う言葉だ」
「あ、さっき可純さんが言ってたわ」
「そうそう。お客さんが来た時に最初に掛ける言葉だ」
実際にこの店に入った時に聞いた言葉なのだから、クリスにもすぐに理解できる。
クリスは自分が引き戸を開いてシュウの店に入った時もシュウが最初に放った言葉も同じなのだが、何故か語尾が消え入るような感じであったことも思い出すのだが、なぜそんな語尾だったのか考えつつシュウの言葉に耳を傾ける。
「ふたぽち目は『かしこまりました』と読む。意味はわかるよな?」
シュウが尋ねると、クリスは無言で頷く。
屋敷の使用人がよく使う言葉なので、日本語で書いた場合はこうなるのかと理解を深める。ただ、こうして教わるだけでは覚えづらい。
「わかるけど、わたしの国の文字と比べて覚えられるようにしたいな」
「ああ、なるほど。書くものが欲しいのか――可純さん、ペンを貸してもらえませんか?」
クリス言葉の意味を理解したシュウは、レジのところに移動してまた何か書いている可純に声をかけた。
「いいわよ。はいこれ」
「ありがとうございます」
急ぎ足でシュウの下に消せるボールペンを持ってくると、可純はちらりとクリスの横顔を見る。
丸くきれいな頭の形に凹凸がなく真っ直ぐに伸びた鼻、ぷくりと膨れた下唇とほっそりとした顎のライン――非の打ち所が無いというのはこういうことかと思わせるその顔にまた少し見惚れた時、クリスが先ほどの基本挨拶のメモに見たこともない文字で何かを書き込んでいた。
「変わった文字ね?」
とは言いつつ、北欧だとアルファベット以外にも用いる文字があるだろうと勝手に納得してまたレジの方に戻る。
実は、客の入店からすべきことを順に説明できるマニュアルのようなものをメモ用紙に書いているのだ。だが、その前に実践することになった。
カランカランと乾いた音を立て、扉が開いたところで可純の声が店内に響く。
クリスはピクリと動き、身体を起こして入り口の方を見る。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
扉の向こうに客がいるのか、店内にまでは声が聞こえてこない。
「ではこちらにどうぞ」
可純の声に続いて、男二人組の客が入ってきた。
クリスは可純の言葉を拾うため、入口の方を向いて可純を見つめていた。
困ったことに、入ってきた二人の男性客も店の中を覗き込もうとするので、クリスの顔が目に入る。その視線が合うことはないのだが、男というものは何故かこういう時に勘違いするもので、二人はしばらくクリスを見つめていた。だが、先を行く可純の動きに応じてクリスの視線が動くことに気がつくと、気恥ずかしそうに歩き出す。
一方、先に進む可純は、クリスの隣の席を空けるように椅子を引いて二人を招き、その二人が座ったところで浩一がカウンター越しにおしぼりを手渡した。
「はい、こちらがメニューです。今日のオススメはアスパラガスの肉巻きフライ、焼きそら豆のみょうが和え、あとお造りはトリ貝にアオリイカ、アジとイワシ。煮魚は赤メバルがオススメかな。
でも、先ずはお飲み物のご注文をお願いできますか?」
「生!」
「オレも生で!」
可純が尋ねると、二人で同じものを注文する。
「生をお二つですね。かしこまりました」
クリスに近い側の男は早々に手を拭き終えると、おしぼりで顔を拭き始める。
奥にいる男の動きは、手前の男のせいで見えないがゆっくりと手を拭いて、同じように顔も拭き始めた。
だが、クリスは二人のことは気にせず、可純の動きを眺めていた。
可純はビアサーバーのところで冷蔵庫からピルスナーグラスを二つ取り出すと、ビールを注ぎ込む。適度な量になったところで一度表面の泡を捨てて、レバーを押し込むと泡だけが出て表面を覆う。その作業を実にテキパキと進めると、浩一が先付けを男性客二人の前に差し出した。
そして、注ぎ終わったグラスを持ってきた可純はカウンター越しにビールを出すと、上からクリップボードを取り出してビールから注文を書いている。
可純がオススメ料理をつらつらと説明し、実際に「いらっしゃいませ」と「かしこまりました」の基本挨拶をするところを見て、クリスはその使い方をよく理解した。
「シュウさん、飲み物は?」
気がつけばシュウのグラスは空である。
クリスはいつの間に飲み干したのだろうという目でシュウを見上げると、シュウはそんなクリスの視線を気にせず次の飲み物を注文する。
「純米の辛口、しっかり目のオススメを
「クリスちゃんはまだしばらく暇かかりそうやから、あとで聞くね」
某宗教の敬虔な信者のような名前になってしまっているが、クリスはそれがわからない。地球の宗教についてはまだ教わっていないからだ。
「一応、二十歳の女子なんだから『ちゃん』はないかなぁ?」
「せやね、ごめんねぇ。あまりにも綺麗で可愛いからつい……」
咎めるシュウの言葉に特に悪びれる様子も無く素直に可純が謝ると、クリスも自分が地球では二十歳ということになっていることを思い出し、宥めるように可純に話しかける。
「いえ、気にしないでください……」
普段から旧王城で暮らしていれば、侍女たちからも似たように「今日もお綺麗ですわ」などと声を掛けられるものの、初めて会った人からここまで言われることがなかったので、クリスは遠慮した言葉を返すのだが、ついつい頬を赤らめて俯いてしまう。
「あかん、ほんま可愛いわ。あーほんまに可愛いっ!」
「何をアホなことゆーとんねん。はよ酒、
少し暴走気味の可純をドウドウと宥めながら、浩一が出来上がった料理を可純の前に差し出した。
「おまたせしました、ノレソレと、イワシのお造りです」
にやけた顔が戻らないまま、可純はシュウとクリスの間に料理をそっと並べると、シュウの酒を選ぶため、背を向けて冷蔵庫の中にある日本酒を選び始めた。
クリスはお勉強タイムが終わったと思ったのか、ビールをコクコクと喉の音を立てて流し込んだ。
すると、シュウが先ほどの箇条書きメモの四番目を指す。
「なにか注文の品を持ってきたときに最初に言うのが、さっきの言葉な」
「おまたせしました?」
お
クリスは慌てて先ほど借りたボールペンを使って自国の文字で読みを書き込んだ。
シュウも見たことが無いような文字だが、表音文字らしく文字数が揃っているのがわかる。
五十音や「いろはにほへと」のような覚えやすいルールのようなものはあるのだろうかとシュウが考えていると、奥に座った男二人組から声があがる。
「すみませーん」
「はーい、少々お待ち下さい」
二人組はまだ料理の注文は入れていなかったので、それで可純に声を掛けたのだろう。可純はすぐに返事をするのだが、今のところ余裕があるのは浩一なので、目線で可純を制すると、浩一が男性客から注文をとることになったようだ。
そして、ようやく可純が一升瓶を抱えてシュウの前に立つ。
「えっと、今日は而今、十四代……」
「それ、高いやつ!」
可純が入手困難でプレミアのついた日本酒を最初に並べ出すと、即シュウがツッコミを入れる。下手すると共にコップ一杯で千円から二千円はする酒だ。
「せっかく隣に絶世の美女がおるのに、格好つけんとどないするん?」
「だから、はとこだから。ね?」
「しゃーないなぁ……あとこれ、天狗舞の山廃仕込純米」
「それで!」
少し面倒臭そうに高級な日本酒を冷蔵庫に仕舞うと、可純は枡に切子のグラスを入れて、溢れるまで酒を注いでシュウに差し出した。
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