第53話 海の幸(1)

 可純がクリスがおかわりをするかとグラスを見たところ、まだビールが残っていた。

 それどころか、先付けに箸もつけていないことに気がついた。


「あ、箸の使い方とか知らへんの?」

「大丈夫です。ただ、可純さんから教わらないといけないから目が離せなくて……」


 クリスが恐縮したように小さくなって遠慮気味に言葉を漏らすと、その会話を聞いたシュウがフォローする。


「明日は愛菜が来るだろう? 開店当初は手伝ってもらってたし、愛菜から教わってもいい。焦らず、ゆっくりでいいよ」

「うん、ありがとう」


 シュウがにこりと笑顔を見せると、クリスも緊張の糸が解れたのか肩の力が抜けたふわりとした笑顔に変わる。


「それに、せっかくの料理なんだから食べなきゃ二人に悪いだろう?」

「そうね、初めて見るものばかりでどうすればいいかわからないけど、食べてみるわ」


 シュウはクリスが海の幸を食べる機会がなかったことを失念していた。

 また、完全にカジュアル割烹とはいえ、日本料理を主にした店なので料理の説明もしなければならない。


「そうだな、簡単に説明すると最初にでてきた料理三品は先付けと言うんだけど、付き出しと言う店の方が多いかな。お通しという場合もある。付き出しやお通しと言うところはだいたい一品だけ出すところが多い気がするな……」


 細かなところまで説明する必要はないが、店で働いてもらう以上はクリスが覚えておいてもいいことだと思い、シュウは別の呼び方や違いなどを話した。

 ふと見るとクリスは真面目な顔をしてシュウの説明に聞き入っているので、次に出てきた料理の説明を始める。


「この料理は胡麻豆腐は胡麻をすり潰して固めてつくったもの。

 こちらはオカヒジキと芽ひじきの和え物。オカヒジキは野菜で、芽ひじきは海草――海辺の岩に生えるんだよ。

 そしてこれはバイという貝を味付けして煮たもの。ここの爪楊枝を使って、こうやって……」


 シュウは実際に爪楊枝を使って身を取り出して見せる。


「千切れないように中身を出して食べる。いいかな?」

「ええ、やってみるね」


 シュウはバイ貝の煮付けを口に放り込むと、むしゃむしゃと噛みながらクリスの様子を見る。

 真剣な顔をしてバイ貝に爪楊枝を刺して回す姿が小動物のようで、それを見ていた可純もまた興奮する。


「え、なに? 愛玩動物?」

「なんでやねん」


 つい普段は大阪弁など出すことがないシュウも、ツッコミ役になってしまう。

 だが、そんなことはどうでもいいとクリスはバイ貝をほじくり出すことに没頭している。といっても先付けなので二つほどしかない。どうも、一つ目は途中で切れてしまったようで、なんとか切れた部分を取り出そうと試行錯誤していたようだ。


「あーもうっ! 失敗しちゃったわ。こういうのって綺麗に取れると絶対に気持ちいいはずなのに……」


 一つ目のバイ貝の内臓部分を中に残してしまったクリスは、残念そうに呻いた。

 実はクリスのいた世界でもカタツムリ料理があり、それに似た食べ物だという認識でこのバイ貝の煮付けを食べようとしていたのだ。

 クリスは少し肩を落として途中で切れた内臓部分を諦め、爪楊枝に刺したバイ貝を口に入れる。

 今日、海辺で感じた潮の香りが口いっぱいに広がり鼻腔に抜けていくと、コリコリとした硬い食感が噛みしめる歯と歯茎に伝わってくる。硬い身と共に噛み潰した少ない内臓は苦味があるが、全体に染み込ませた砂糖の甘みと醤油の塩気、身からじわりじわりと出てくる旨味に舌が包み込まれる。


「美味しいっ! 家でも初夏になるとカタツムリを食べるんだけど、これは別物だわ。カタツムリはたまに泥臭いのがあるけど、これは優しい潮の香りがするっ」


 味付けが違うものの食べ方については概ね間違いではないと言えるだろう。ただ、やはり風味という意味では大きく異なる。


「そうだな、そこが住んでる場所……海と陸の違いなんだろうな」


 シュウは最初はカタツムリと比較されたことに驚いたが、内陸の地に住んでいたということも知っているので仕方がないと割り切って、クリスの話に合わせた言葉を選んだ。

 そのシュウの言葉に改めて海の幸との違いを理解したクリスも、納得する。


「あ、そっか……」


 クリスはビールをまたコクコクと喉を鳴らして飲む。すでに表面の泡は消えて無くなり、冷えていたのが微温くなってしまったので風味も変わっているのだろう。

 あまり美味しいといった顔をしていない。


「冷えてるうちに飲まないとビールは美味しくないだろう?」


 横で見ていたシュウがクリスに尋ねる。

 身を以て経験することも大切なことであるし、割烹と居酒屋という違いがあれど取り扱う品は似たところがあるので、自分の店で働くのだから、いろんなものを食べて経験しておくことは悪くないとシュウは思っていた。


「そうね、シュワシュワが減って苦味とか雑味が出てくる感じかな」

「そうだろ? だから、ビールは冷たいうちに飲むのが一番。で、次はどうする?」


 飲み慣れていないビールをゴクゴクと飲むよりも、ちびちびと飲むほうがクリスには何となく似合っているようにも見えるので、違う飲み物に変えるよう誘導するすためシュウはメニューを開いてみせる。


「どんな飲み物がオススメなの?」


 クリスは二個目のバイ貝に爪楊枝を突き刺して、格闘していたが、今度はきれいに取れたようだ。

 パクリとそのバイ貝を食べるのを見て、他に頼んだメニューを考えると日本酒がいいとは思うのだが、日本酒はその飲みやすさのせいで酔いがまわりやすい人も多いので、シュウは顎に手をやって思案する。

 チューハイ系でればこの店の場合、プレーンとレモン、ライム、カルピスが定番である。他にはワインや焼酎などもあるし、ウーロンハイやハイボールも用意されているので流石のシュウでも悩んでしまう。


「甘いのがいいならチューハイカルピスかな。甘くないのがいいのなら、ウーロンハイというのがいいと思う。ただ、頼んだ料理やこの先付けなら日本酒が合うよ」


 苦味のあるバイ貝の内臓部分まで食べて少し顔を顰めたクリスは、残ったビールで口の中を洗い流した。


「日本酒というのはどんなお酒なの?」

「オレがいま飲んでいるのがそうだ。お米を使って作る醸造酒なんだが、魚介類や醤油、味噌といった日本の調味料にもよく合う。ただ……」


 シュウが一瞬言い淀む。このあとクリスが酔っ払うと、イタリア料理の店に行けなくなってしまうからだ。

 しかし、それなら先に注意事項として言っておけばいい。


「飲みやすくて酔いやすい。飲み過ぎに注意しないといけない」

「じゃ、わたしも日本酒がいいな」


 クリスはさり気なく答えた。

 そうなると、シュウとしては、同じものよりも華やかで飲みやすいものを選んであげたいと思ってしまう。


「可純さん、純米吟醸でクリスに一杯見繕ってもらえます?」

「あ、はいはい。クリスちゃんにはねぇ……」


 シュウが声をかけると、可純は早速冷蔵庫前にやってきて背中を向けてたまま日本酒を選び始め、またネタのつもりなのか、十四代を取り出すとシュウの方をちらりと見る。

 シュウが両腕をクロスさせてダメだと首を横に振ると、今度は有名どころの酒を二つ前に並べた。


「月桂冠の鳳麟、獺祭の三割九分。どっちがいいかな?」


 どちらも純米大吟醸酒で、シュウが頼んだ天狗舞の山廃仕込み純米よりも高価な酒であるが、純米吟醸を頼んだ以上は仕方がないとシュウは諦める。

 フルーティでどっしりとした力強い味の鳳麟と、しっかりとした吟醸香にさらりとした辛口の獺祭であれば対極的な選択である。


 シュウは腕を組んで考えると、クリスに飲ませる酒を選んだ。


「鳳麟で」

「ほう、そうきたか。なんでなん?」


 可純が鳳麟を選んだ理由を尋ねた。可純は可純の考えがあってこの二つを選んでいるのだが、シュウが選んだ理由と同じとは限らない。


「初めて飲む日本酒が飲みやすいと危ないでしょ? 濃醇な酒にして、チェイサーをつけるほうがいいと思ったんですよ」

「なるほどぉ」


 可純はシュウの返答にシュウのクリスに対する思いやりを感じ、ニヤニヤとした笑みを見せて感心の声をあげた。

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