第49話 仕込み

 両手に大量の荷物を抱えて日本橋にっぽんばし駅まで帰ってきたシュウとクリスはなんとか店にたどり着いた。

 店の鍵を開けてシュウが扉を開いて先にクリスを中へ通すと、クリスは思い出したようにトイレへと駆け込んだ。

 シュウは店の前に貼っていた臨時休業のお知らせを剥がして店の中に入ると、荷物をすべて厨房内に運び込み、魚を取り出して冷蔵庫に入れる。

 そして、買ってきたタケノコを取り出すと早速灰汁抜き作業に入った。

 まずタケノコに包丁で切れ目を入れる。これは火が通りやすくするためと、あとで皮剥きが楽になるからだ。そして、鍋にタケノコをいれてからすべて浸る程度に水を入れると、鷹の爪を二本と、冷蔵庫から取り出した米糠を二握りほど入れて火にかけた。

 作業がそこまで進んだ頃、クリスがトイレから戻ってくる。


「わぁ! すごいね! ピッカピカじゃない!」


 初めて厨房の中を見るクリスは、その清潔さに驚いて思わず声を上げる。

 調理台、冷蔵庫、冷凍庫、シンクやコンロなどの器具、換気扇のフードもすべてステンレス製なので銀色に輝いているのだが、その全てに曇りや汚れなどが無くピカピカに磨き上げられている。


「仕事道具だからな。当然だろう」


 シュウにすれば、これらはすべて自分の仕事道具であり、無くてはならないものだ。であれば、その仕事道具を大切にするのは当然のことであり、少しでも気になることがあれば磨き上げることは日常の業務のひとつと言えた。

 調理師学校に入って最初に買った包丁の中でも、毎日のようにタマネギやジャガイモの皮を剥くために使うペティナイフなどは中学を出て一二年ほどの間で既に彫刻刀のような長さにまで研ぎ削られている。

 それでも、シュウはそのペティナイフは手に馴染んでいて手放せない。


「ふぅん……」


 クリスは感心したような声をだして、店の中を見回っている。

 クリスがいた世界は、少数の魔法が使える人々と、剣や槍などの武器を持って戦う人たち、商人や農民などがいた世界であった。そのような世界でも、仕事の道具は非常に大切なものであり、普段の手入れの良し悪しが生死をわかつことがある。

 だから、クリスもシュウが言っていることは感心し、理解したのだ。


 次に、シュウは買ってきた野菜を二つに分けて調理台の上に広げた。

 一つのグループはタラの芽、コシアブラ、行者ニンニク、シドケ、ホンナ、コゴミ……ずらりと並んだのは山菜と呼ばれる春の味。残りは根菜類のグループだ。

 シュウはタラの芽のハカマの部分を取り、コゴミの丸くなった部分についたゴミを掃除すると、並べた山菜と共に水洗いする。

 洗い上げた山菜をザルの上にあげると、タケノコを煮る鍋がぐつぐつと音を出し、シュウは落し蓋をのせて火を弱火に落とした。


 シュウがこれらの作業を終えて振り向くと、クリスが退屈そうにカウンターの椅子に座っていた。


「ふぅ……まずは一段落だな。まだ夕食には早い時間だし、店を手伝ってもらうんだから、もう少し店の中のことを教えないとな」

「あ、そうね……」


 シュウはクリスが座っているカウンター席の前に進んで、説明を始める。


「クリスにやってもらいたいのは、注文を受けること。あとは、料理を運ぶこと。最初はこの二つから始めよう。

 その日に出せる料理は日によって変わるから、メニューは毎日書いてるんだが、料理は番号をつけて、その番号で注文して貰う形にしよう」


 シュウの話を真剣な顔をして聞くクリスだが、途中にわからない単語があったのでクリスはシュウに確認する。


「メニューってなぁに?」


 ついつい普段から使いなれた言葉を使ってしまうシュウなのだが、クリスには英語は通じないのである。ほぼ日常的に使っている言葉も日本語に訳して話す必要があることを思い出すと、シュウは質問への回答を返す。


「お品書きといえばいいか? わかるか?」

「ええ、メニューとは品物の名前と値段が書いてあるものね。それで、お客さんにはそのメニューに書かれた番号を書いてもらうということね? わかったわ」


 クリスはシュウが言っていないことまで自分で想像して、勝手に納得しようとする。

 思わず頷きそうになったシュウではあるが、クリスの言葉を反芻してからそれを否定する。


「お客さんには……いや、お客さんが番号と数量を言う。クリスがこの注文伝票に番号と数量を下から順に書く。注文を全部承ったら、注文が書いてあるところまで紙を破って、この板の間に挟む。ここまでが一連の流れだな」


 シュウは注文伝票を挟んだクリップボードをクリスに手渡す。注文伝票は二枚の複写紙になっているものだ。


「この上から書くと、破ることができないから下から書くんだ。破るのは一枚目だけな」

「え? なにこれ、書いた字が勝手に下にも写るの?」


 基本的にクリスがいた世界では紙自体が貴重なものである。公式な契約や貴族間での連絡では羊皮紙を使うことが一般的で、亜麻や木綿を材料にした植物紙はあるが、表面が粗く何かを書くのにはあまり使われていなかった。

 それだけに、内心では昨日立ち寄った本屋で売られている本の種類と数に驚いたのだが、一度書くだけで、二枚同時に同じ文字が掛ける紙はクリスにはもう魔法にしか見えなかった。


「これは複写紙という紙を使ってるんだが……」


 シュウは紙の種類を答えておくものの、このままではいつまで経っても話が進まないと考え込んでしまう。

 その間のクリスはというと、「すごい、おもしろいわ。こんな紙が作れるなんて、本当に日本はすごい国ね」などと落書きをしたり、透かして見てみたりと少しはしゃいでいる。

 シュウはその姿を見て、クリスに与えられた試練のヒントを探すために近所でこの店の前に入っていた店の主人や、その前の店、更にその前の店の情報などを聞き込みに行くときに、他店のフロア係の応対などを見せるほうが手っ取り早いと考えた。

 だいたい、現時点でも、「いらっしゃいませ」、「ありがとうござました」、「少々お待ち下さい」などの基本挨拶も教えていないことを考えると、それが最適であると言えるかも知れない。


 ただ、残念ながらタケノコの灰汁抜きはまだしばらく時間がかかる。だが、芯まで茹で上がったら、コンロの火を切って自然冷却すればいいので、それまでの時間と考えればあと二〇分もあれば済む。


「なぁ、クリス。今日の晩ごはんなんだが、近所の聞き込みもあるし、鯛めしはあきらめよう」

「いいわ。でも、それで困ることはないの?」


 買ってきた鯛とヒラメは市場で活け締めにされているが、クリスの常識では冷蔵技術がないので、鮮度が落ちることを心配した。

 だが、それに対してシュウは意外な言葉を返す。


「鯛やヒラメは、死後硬直が解けたあとが一番美味しいんだ。だから、明日にした方が美味しく食べられるくらいで心配はないよ。あと、この山菜も冷蔵庫に入れておけば明日なら問題はないから」

「死後硬直? なんか難しい言葉ね」


 確かに王城暮らしのクリスにはあまり縁がない言葉であると思ったシュウは、簡単に説明をしておく。


「死んだ後、しばらくすると魚……牛や豚、人間もそうなんだが筋肉が硬くなってくるんだよ。死後硬直中は弾力があってコリコリとした食感があるけど、味がしないんだ」

「へぇ、そうなんだね。じゃあ、今日はどうするの?」

「左隣の割烹の店、右斜め向かいにあるイタリアという国の料理を出す店にしよう」


 シュウの返事に、イタリアに少し興味をもったようで、その瞳をまたキラキラと輝かせる。


「イタリアという国はどこにあるの?」

「ああ、ちょっと待って」


 シュウは慌てて手を洗うと、リンゴのマークのタブレットを取り出し、地図アプリを開くとイタリアの場所を指す。


「この長靴のような形をしたところがイタリア。あとは周辺の島の一部がそうだ。

 日本からは約一万キロメートル離れた場所で、飛行機だと半日は掛かるみたいだな」

「すごいね、一万キロメートルってどれくらい?」


 一つのことを答えると新しい質問が飛んでくる。地球に来て、文字もわからないのだから仕方がないことだ。

 だから、シュウはそれを承知で、丁寧に答えていく。


「地球一周で約四万キロメートルだから、約四分の一ってところだな」

「うわぁ、結構遠いのね……」


 リンゴのマークのタブレットを渡されたクリスはイタリアの観光地を写真で見て眺めている。

 どこか、似たような文化があるのか、特に建築物などを見ては「うーん」などと声を出して呻いている。

 そんなクリスを見つめていると、サロンを巻いた男が映っている写真が出ているのを見て、シュウは思い出す。


「そういえば、メイド服云々は一旦おいておいて……店を手伝ってもらうための服を買ったほうがいいかな?」

「え? メイド服がいいんだけど?」


 仕事着については、昨夜の会話の中で決定していたことである。


「お駄賃を貯めて買うんだろう? それまでは業務用のものを用意するから、それを着て欲しい。といってもエプロン一枚でもいいんだが……」


 シュウはクリスとの会話を思い出してメイド服を否定すると、カットソー程度であればエプロンでも充分つかえると思った。だが、それにしても一度店を出て買いに行かないといけないのは確かだ。


「すぐそこの商店街に業務用の専門店があるから、タケノコが煮えたら買いに行こう」

「そんなのがあるの? そこに業務用のメイド服があれば万事解決ね!」


 シュウはクリスのメイド服に対する情熱が簡単には冷めないことを痛感し、肩を落とした。

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