第32話 お好み焼き(1)

 シュウが店の臨時休業の張り紙をカレンダーの裏に書いている間、クリスは化粧直しをしていた。

 自分の軽率な行動が、自分の将来を左右することをシュウに教わり、泣いたのだが、俯いていたので主に目の周りだけ化粧がとれてしまったのだ。

 だが、憂鬱な雰囲気はなく、初めて取り出した自分専用の化粧道具を広げて嬉しそうに……いや、難しい顔をして目のアイライナーを手に取っている。

 なかなか左右対称にならないし、店員が描いたように少し垂れ目に見えるように描くのが難しい。


「ああもうっ、難しいなぁ……」


 二十分ほど格闘したようだが、結局無理に垂れ目メイクをするのは諦めたようで、音をあげてしまった。


「まあ、そればかりは慣れなんだろうな……」

「うん、そだね」


 ビューラーやマスカラも素がとても綺麗なクリスには必須ではない。それも省略するようだ。

 クリスがいた世界ではそこまでの化粧技術がなかったのだから仕方がないとも言え、これも慣れれば使いこなせるようになるだろう。


「じゃぁ、そろそろごはん食べにいくか?」

「ええ、もう大丈夫だと思うんだけど……どうかな?」


 クリスは立ち上がってシュウの方に身体を向ける。

 涙で大熊猫パンダのような顔になっていたのが、今では充分綺麗な顔に戻っていた。逆にマスカラは目の周りが強調されすぎる気がするので、よりナチュラルな感じという意味ではビューラーを使ってもいいかな……という程度の上々な仕上がりだと言えた。


「ああ、綺麗だ。その自然な感じがオレは好きだな。いいと思う」

「そ、そう? じゃ、このままで」


 少し口元を嬉しそうに綻ばせ、クリスの頬が赤くなった。







 ”四月三〇日 設備故障のため臨時休業いたします”


 四月のカレンダーの裏にそう書いた紙を入り口に貼ると、シュウとクリスはまだ明るい街へと舞い戻った。

 店から家の方向ではなく、繁華街のほうへと向けて歩き出す。


「なんか食べたいものあるかと聞きたいところだが……また任せてもらっていいかな?」

「ええ、シュウさんにお任せするしかないもの」


 シュウがクリスに要望を尋ねると、なんの屈託のない笑顔を添えてクリスが返事をした。

 先ほどのメイド服の女性の件でシュウが言ったことがよほど堪えたのだろう。シュウへの信頼度も上がっているように見える。


 シュウは店を思案する。

 いま、二人が立っている場所は大阪の笑いの聖地ともいえる場所――古元興業の本拠地である難波グランド劇場の裏手に繋がる南向きの一方通行道路で、既に立呑みの店なども営業を始めている。


「毎度!シュウさん」

「おお、毎度まいど!」


 知り合いから声を掛けられるシュウだが、知り合いの目はその左手に繋がる先に注がれており、シュウの返事があったことなど耳に入っていないようだ。


「知り合いの方?」

「ああ、同業者だけどうちの方が遅くまでやってるからたまに来てくれるんだよ」

「へぇー」


 クリスが恐る恐るシュウに尋ねると、相手の男は知り合いであり、客でもあるとの返事である。

 ただ、その目線が自分に向いていることを感じると、クリスの心にはシュウに言われた言葉――興味を持つ者、好意を持つ者――が流れる。


「これが興味を持たれるという意味なのね……」

「そういうことだ。でも、オレといれば大丈夫だろ?」


 刺さるような視線はあちこちから飛んできていて、それをクリスは充分に感じている。

 同じようにシュウも視線がクリスに集まっていることには気づいていて、わざとらしくクリスの左手の持ち方を変える。俗に言う、恋人結びである。


「シュウさん、この持ち方は少し痛いかも……」

「え? ごめん、緩く繋ぐようにしようか?」

「うん……」


 シュウの指が太いので、しっかりと握ろうとするとクリスは力いっぱい手を開くことになるので痛くなっていまう。

 左手の第一関節あたりで手を握るように持ち直すと、シュウは夕食の店を決めて歩き出す。


「晩ごはんなんだけどさ、この街の名物にしようと思うんだけどいいかな?」

「うん」


 クリスはとても素直に頷いた。







 シュウは、古元グランド劇場の裏を通り、居酒屋や古元芸人御用達の中華料理店、寿司屋などが並ぶ道をすぎると、信号機が設置された大きな通りに出た。

 目の前にある商店街のアーケードには「相合橋筋」と書かれている。


 手を引かれて歩いていたクリスは、ようやくシュウの横に立つことができ、話し掛ける余裕ができた。


「やはりすごい人の数ね。自動車っていうんだっけ……それもたくさん走ってるわね」

「ああ、この大阪でも有数の繁華街だからな。ただ、このあたりも百五十年くらい前は処刑場だったそうで、この中なんだが――」


 シュウはクリスの左後ろの方角を指す。


「――いまもお墓がずらりと並んでるんだ。近くには幽霊が出るって噂がある建物もあるぞ?」

「嫌だ! そんなところ行かないからねっ!」


 クリスはさり気なくシュウの右側に回り込んで身を縮めている。

 そういう系は苦手な女子のようだ。


「まぁ、そう言うな。このあたりは戦争で焼け野原になった場所なんだから、いちいち怖がっていられないよ」


 シュウがそう話して幽霊の噂を笑い飛ばすと、信号が変わった。

 一応、左右を確認して横断歩道を渡りはじめるとクリスが尋ねる。


「あれ? 頭の上にも道路があるの?」

「そうだよ。高速道路って言って、自動車とバイクしか走行できない道路があるんだ。信号機がなくて比較的短時間で目的地に辿り着けるから、便利だけど有料なんだよ」

「へぇ、そうなんだー」


 クリスは感心したように頭上の阪神高速道路を見上げた。

 まだ空は明るく、霞んだような青い空には雲ひとつ浮いていなかった。








 シュウとクリスは相合橋筋商店街に入って一つ目の交差点を左折し、少し歩いたところにある店の前に到着した。店の前には店名を記した大きな提灯がぶら下がっている。

 開店時間前ではあるが、既に何組かの客が中に並んで待っていて、急いでシュウとクリスも店の中に入り、待合席の空いた椅子に座る。


「順番に並んで座っているのね、すごいわ……」


 クリスが感心して小さく声を漏らす。

 彼女がいた街では、店に入った順番など関係のない椅子取りゲームが毎回繰り返されるのだ。


「ああ、でももっとすごい店もある。機会があれば行こうか」

「うん」


 クリスはキラキラと瞳を輝かせ、シュウのことを見上げる。

 この世界のことをもっと知りたいという意欲のようなものをシュウは感じ、少しは信頼されただろうかと安堵した。


 開店時間になると、並んでいた順番に席へと通される。

 木の板で区切られたテーブルの中央には、黒々としていて表面に油が染み込んだ鉄の板が組み込まれていて、その縁となる木の部分には冷水が入ったコップと小皿、おしぼりとコテが置かれるともう隙間もない。


「注文、何にしましょ?」


 店員らしき女性がシュウに声を掛ける。


 シュウはメニューを見ることもなく、ポンポンとオーダーする。


「生中を一つ、ウーロン茶一つ、スペシャル焼きそば一つに、豚玉と豚モダン一つずつで」

「はい、生中、ウーロン茶、スペシャル焼きそば、豚玉、豚モダンね。鉄板、火ぃつけますね」


 店員は復唱すると下がっていくが、クリスにはいまの言葉が呪文のようにしか聞こえない。普通の日本語も略されているし、外国語らしきものも混ざっているからだ。


「ねぇ、何を頼んだの?」

「生ビールというお酒と、お隣の国で作られるお茶だな。あとは……」


 シュウが壁際に置かれたメニューを取ってみせるのだが、クリスは真剣な顔でシュウに尋ねる。


「え? シュウさんだけお酒飲むの?」


 シュウが驚いてメニューから顔を上げると、クリスが鉄板の上に身体を乗り出していた。

 まだ鉄板はそこまで熱せられておらず、火傷するほどではないが服が焦げてしまう。


「おいおい、落ち着け。服が焦げてしまうだろ?

 それにこの国では一七歳は未成年だから酒は飲めないんだ。我慢してくれ」


 その一言に、クリスの瞳が輝きを失い、絶望の色に染まる。


「未成年に酒を飲ませると、オレも店の人も警察――憲兵とか衛兵とかそういうのに捕まってしまう。それでいいか?」


 なんとなく恨めしそうにシュウを睨みつけながらクリスは仕方ないと言葉を返す。


「じゃ、シュウさんも一杯だけだからね?」

「ああ、わかったよ……」


 ぷうと頬を膨らませてクリスはまだシュウを恨めしそうに見つめている。


「わたしの国では十五歳で成人だし、十歳くらいからはもう水で薄めた葡萄酒とか飲まされてたのよ? なのになんなのこの国は……」

「おいおい、わかったわかった。

 それで頼んだものなんだが、エビとイカ、豚肉などの具材を混ぜて焼いた麺。スペシャルというのは英語と言われる外国の言葉で特別という意味がある。焼きそばは、麺を炒める料理のことだ。あと、豚玉は豚肉が入ったお好み焼きという料理で、豚モダンはその豚肉のお好み焼きと麺を焼いたものだな」


 とシュウが説明しているうちに生ビールと烏龍茶を店員が持ってくる。

 シュウはビアジョッキの把手に手を差し込むと豪快にグラスを掴み、クリスの前に置かれたグラスにカツンと当てる。


「乾杯!」

「あ、乾杯!」


 クリスも慌ててグラスを手にするが、乾杯の目的がわからなない。思わず問い返してしまう。


「で、何に乾杯なの?」


 口元まで運んでいたビールを飲むのを急停止して、シュウも視線を宙に泳がせる。


「二人の出会いに? って感じじゃないし……今日一日、お疲れさまって感じかな?」

「なるほどねー」


 二人は改めてグラスを合わせると、同時に口をつけた。

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