風子

堀切政人

第1話 出会い

 あの時はそれが当たり前だった。

 朝の食卓は味噌の匂いがして、商店街ではパンの匂いがする。

 昼の教室では汗の匂いが漂い、公園ではわずかな緑の匂いを感じて、川原では水の匂いが漂う。

 夕方に友達の家に行くと印刷屋の倅の家は工場からインクの匂い。銭湯の倅の家は風呂上りの女性からシャンプーの匂い。

 夜は近所の赤提灯から酒の匂いがすると、帰宅する父親からも同じ匂いがした。

 あの時はいつも当たり前のようにそこにあるものだと思っていたが、今は風が僕の所へ運んできてくれた匂いのように思える……


 踏切の音が連呼すると僕はその音で目を覚ました。そもそもこの物件を選んだ時、駅近の格安物件だと不動産屋に勧められたのだが、いざ住んでみると踏切が目の前にある建物は煩く、コンクリートの壁を伝って『カンカン』と音が響く。

 特に朝の通勤時間は列車の往復が多くて、鳴り止まぬ音が目覚ましとなる。体を上半身だけ起こして呆然としていると、窓の向こうからは列車が発車する時に鳴るインバータの音が聞こえた。その音階を奏でるような音色が聞こえると、被さるように携帯電話から陽気なメロディが鳴り出した。


「晴男、忘れてないだろうな。今日、夕方四時、堀切の駅前だぞ」

「ああ、そうだっけ」

「ああ、そうだっけじゃなくて。風子来るから、タケシも呼んで飯でも食おう」


『風子……』


 風子は名前の通り風のような子だった。

 桜の花びらが靡くそよ風のように優しい時や、青葉を駆け巡る緑風のように元気な時。芒を揺らす秋風のように淋しそうな顔をしている時もあれば、からっ風のように冷たい態度の時もあった。

 喜怒哀楽な風も、その流れに逆らわずに向き合えば、それは心地良く安らぎを感じることができた。


 風子と僕の出会いは高校の入学式。誠、武、風子の幼馴染み三人組に僕が割り込んだ。


 僕は父の転勤がきっかけで愛媛から東京に引っ越してきた。

 柑橘畑に囲まれ、緑の香りとせせらぎの音を聞きながら育った僕には、この町の工場の油の匂いや、排気ガスの匂い、ドンカン、ドンカンと鉄を叩く騒がしい音や、気短な人々の鳴らす車のクラクションの音が聞こえる街の雰囲気には馴染めずにいた。


 教室の窓際の席で外を眺めながら耳を傾けると、愛媛の中学校では風が草木に当たる音や、鳥のさえずりが聞こえたものだが、こちらではガンガンと鉄筋の当たる音や車のエンジン音しか聞こえない。


 東京にしては背の高い建物の少ないこの土地で目立つのは高速道路であり、その上を走る車を見ると、幼い頃に読んだ未来を描いた漫画のようにも見えるが、地上を見下ろせば古い一軒家ばかりが建ち並び、その絵面はとても滑稽で不格好だ。


 外で鳴り響く騒音を聞くくらいなら音楽でも聴いていたほうがマシだと思い、鞄からiPodを取り出しイヤホンを付ける。再び外を眺めていると、隣の席に座る風子が僕の肩を叩いた。


「ねぇ、音、凄く漏れているよ」

 イヤホンを外して、そこから漏れている音に気が付いた僕は慌てて音を止めた。


「Mr.Children?」

「えっ、ああ、そうだけど……」

 別に趣味の悪い音楽を聴いているわけではないが、なんだか自分の恥部でも見られたように恥ずかしい。


「私も、ミスチル大好きなの」

「ああ、そうなんだ」

 それが、風子との初めての会話だった。


 誠と武は、いつも風子を取り巻くように三人で登校していた。校内でも休み時間になれば、いつも風子の席に集まり、三人でケラケラと笑いながら話をしている。

 その隣で僕が音楽を聴いていると、その姿が一人ぼっちで寂しそうに見えたのか、風子が僕に話しかけてきた。


「ねぇ、また、ミスチル聴いてるの?」

 僕はこの三人と親しくなりたいわけでもないから風子の話を無視していると、その態度を気に食わないと思った誠と武は、僕に因縁をつけてきた。


「前から気に食わなかったけど、おまえ、何だ、その態度」

「風子が話しかけているだろ」

 窓の風景から目を背けると、目の前に誠と武の姿。愛媛の中学校では少しばかりやんちゃだった僕は、二人に絡まれると面倒くさそうに溜息をつきながら、イヤホンを外して席を立ち上がった。


「だから何だ、おまえたちをシカトしたわけじゃないだろ」

「何だと、お前ちょっと来い」

「ちょっと、やめなよ!」


 風子が誠と武の頭を教科書で叩くと、二人はしつけられた犬のように大人しくなる。誠と武は『ギロッ』と僕を睨みつけると、すっきりしない顔つきで自分の席へ戻った。


「おい、おまえら、そっちから喧嘩売ってきたんだろ」

「ごめん、高杉君。あの二人も私のためにしたことなの。本当にごめんなさい」


 女に丸め込まれたようで腹の虫が治まらないのは僕の方であり、放課後になると校門で誠と武を待ち伏せた。

 駐輪場からキャッキャキャッキャと女子の笑い声が聞こえたと思うと、誠と武は自転車を押しながら風子を連れて歩いてきた。


「あれ、高杉君。どうしたの?」

「よお、誰か待っているのか」


 さっきまでのことを忘れてしまったように笑いながら話す誠に、僕はどうも調子が狂った。おまけに風子がいれば、自分だけ大人気なく怒っているように見られるのも癪な話だ。


「お前、もんじゃ焼食い行くけど、行くか」

 武は僕を、食事に誘った。


「もんじゃ焼?」

「なんだ?お前、食ったことないのか?」

「店があっても、入ったことがない」

「そうか。じゃあ、食いに行こう」


 その日から僕も一緒に連むようになると、三人組が四人組に変わって毎日を供に過ごした。


 春の木漏れ日に蒲公英が咲く川原を共に駈けずりまわり、夏の向日葵が咲く頃、河川敷に流れる川の向こうで打ち上がる錦冠菊を見上げ、秋の楓が紅色に染まり夕焼け空が色深くなる頃、豊年満作を祝う神社に連なる屋台を眺めながら祭囃子に耳を傾る。


 冬の凍てつく風が吹く川原にハコベが育ち、花屋にはシクラメンが並ぶ頃、除夜の鐘を聞きながら赤いダッフルコートに毛糸の手袋をつけた風子の姿を見ると、僕は彼女が可愛らしく思えた。


 一年生の三学期が始まった頃、校舎裏の焼却炉で拾い集めた枯葉を燃やしながら、僕は武と誠に訊いた。


「おまえら、風子と幼稚園からの幼馴染だろ。やっぱり、そんなガキの頃から一緒だと、風子は女に見えないのか?」

「風子が女?ああ、そう言えば、そうか」

 冗談と言うよりも、そんなことは初めて考えたように応える誠。


「でも、誠、風子とキスしたことあるぞ」

 ニヤニヤと誠を見ながら話す武。


「キス……」

 僕はその言葉を聞いて、戸惑った。


「アホか。幼稚園の時の話だろ」

「風子を彼女にしたって仕方がないだろ。毎日一緒にいるものを何で二人きりになる必要がある」


 武の話しを誤魔化すに誠が話すと、「そうだな。風子は俺らの犬コロみたいな存在だからな」と武も疑念を持つ様子なく、箒で落ち葉を掻き集めていた。


 きっと、この二人にとって僕の質問は『何故、一日は朝で始まり、夜で終わるの?』と問われたくらいに、考えたこともない話なのだろう。


 僕がこんな質問をしたのにも訳がある。年も明けて一月二日のこと、誠と武が風邪で寝込んだから、四人で行くはずだった初詣へ僕と風子は二人で出掛けた。

 着物姿の風子は可愛らしく、僕の視線があまりにも強かったのか、風子は照れくさそうにして目を逸らした。


「ねぇ、どうした? 私が着物なんて、やっぱり可笑しい」

「いや、違う、違う。似合っているよ」

 賽銭を投げると目を閉じて願い事をする風子の姿に見とれてしまい、僕は何も願わずに済ませてしまった。


「ねぇ、何をお願いしたの?」

「え、いゃ、何も願わなかった」

「え、何で?私はお願いしたよ」

「何て?」

「晴男が、私のことを好きでありますようにって……」

 風子を一人の女性として好意を抱いてた僕にとって、嬉しさも、戸惑いもある言葉であった。

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