第10話
遠くから声が聞こえる。
うわぁん、うわぁん。
聞き慣れた子供の声に、あらあらと笑った。
どうしたの、何があったの?
お腹が空いた? どこか痛い? それとも、眠いの?
声のする方に歩く。
近くで水が流れている。
子供を一人にしておくのには、随分と危ない。
少し焦りを覚えながら、何処にいるのかときょろきょろする。
「 」
名前を呼んだが、返事はない。
うわぁん、うわぁん。
泣き声はどんどん大きくなって、胸がざわめく。
早く行ってあげないと。
でも、何処に居るのかしら。
さっぱり分からなくて、節が目立つ手を彷徨わせる。
もっと若ければ、すぐに分かったのでしょうに。
年を取ると色々と鈍くなって、もどかしい。
「 」
もう一度名前を呼んだ。
そうすると、泣き声がまた大きくなる。
ああ、可哀想に。あんなに泣いて。
今、そっちに行くからね。
ぴしゃ、と水の中に足を踏み入れると、腕を掴まれた。
温かく、強い手だ。
「あなた?」
若い頃の姿をした夫が、私の腕を掴んでいた。
顔はよく見えない。あんなにも一緒だったのに、はっきりと思い出せない。
「 」
私の名前を呼ぶ声も、何だか聞き取り辛い。
ごめんなさいね、私、もう随分と年を取ったの。
貴方が亡くなった時よりも、うんとおばあちゃんなのよ。
「 、いけないよ」
「どうしたの、あなた」
「こちらに来ては、いけないよ」
どうして? あなたは此処に居るのに。
そうしている内にも泣き声は大きくなっていく。
水の中に踏み込もうとすると、ぐっと腕を引かれた。
「 、思い出しなさい。君はもう じゃないんだから」
「あなた、何を言っているの? 私は よ」
それより、早くあの子を抱き締めてあげなければ。
耐え切れなくて、夫の手を振り払おうとして、気付く。
足首を浸す程度だった水嵩が、今は脹脛の辺りまで増えている。
急がなければ、あの子が危ない。
焦って身を捩り、目についた自分の手に驚く。
私の手は、こんなに小さかった?
ぷっくりとした指、モミジみたいな掌。
呆然としている間に、水から引き上げられる。
さっきまで、少し見上げる程度だった夫がとても大きくなっていた。
いや、夫が大きくなったのではなく、私が小さくなっていた。
「あなた、わたしは」
「 。まだ、帰れる。だから、あちらに行くと良い」
頼りなく小さな私の背中を、夫が優しく押し出してくれる。
遠く、暗い闇が広がる方へ。
恐ろしくて振り返ると、夫はよく見えないけれど笑っていた。
大好きだった優しい笑顔に励まされて、一歩進む。
頭が割れてしまいそうな程大きな泣き声が響く。
「大丈夫だよ、そのままいきなさい」
「あなた。あなたは?」
「 、愛しているよ」
幸せだったのよ。
貴方と出会えて、子供に恵まれて、孫を抱いて。
苦労もしたし、私と貴方で言い合いや喧嘩だってあったけど、満ち足りていたの。
本当なのよ?
「幸せになりなさい」
聞こえてきた声に、もう振り返りはしなかった。
たくさん言いたいことはあったけれど。
私は駆け出した。
「あなたもどうか、きっとしあわせになって」
今はおばあちゃんじゃないのだけれど。
おばあちゃんの時と同じでとっても足が遅いのだけど。
私は私の幸せを、絶対に掴み取ってみせよう。
固く誓って、私は闇の中に飛び込んだ。
全身が痛い。特に顔が痛い。突き詰めれば、頬と鼻が凄く痛い。
夢と現実の記憶が入り混じって、何があってこうなったのかが曖昧だ。
手を痛む頬に当ててみると、何かぺったりと貼られている。
湿布? 何だろう、変な臭いがする。
「うん?」
瞼を開ける。
続いて身体を起こそうとして、背中から腰にかけて走る痛みに硬直した。
ぎっくり腰!?
何度かやって、かなり苦しんだあの痛みと似ているような、似ていないような。
どちらにしても、身体が痛い時は安静にしているのが一番だ。
仰向けのまま、何度か瞬きをする。
見覚えのない天井を見上げ、此処は何処で私は誰だったか。
テンプレートな疑問が浮かんで、首を動かす。
残念ながら、どこもかしこも覚えがない。
そもそも、何故こんなにも身体が痛むのか。
記憶を辿ってみたけれど、覚醒直後で何もかもがふわふわと掴みどころがない。
・・・・・・いやいや、諦めてはいけない。
一つずつ丁寧に思い出してみよう。
身体が痛い、眠っていた、眠る前は、確か・・・・・・なんだっけ?
「ミル! めがさめたの!?」
考えに没頭しようとする前に、お腹の辺りにぎゅっと抱き付かれる。
重みが加わったせいで背中が痛み、涙が出そうになったけれど、聞き覚えのある名前で一つ思い出した。
ああ、そうだ。ミルだ。
アインスとツヴァイの義妹の、今の私。
大事なことだ。今の自分のことなのだから。
思い出して、すっきりする。
「おにいちゃん」
「よかった。どこもいたくない? だいじょうぶ?」
全身が、特に顔面が痛みます。
なんて、正直に答えても心配させるだけだ。
どこも痛くない、大丈夫と答えれば、随分久しぶりの蕩けるような甘い笑顔を向けられる。
「ほんとうに、よかった」
嬉しそうに、とてもほっとしたように。
大事にされているなぁ、とよく分かるのだが
「おにいちゃん、けが」
「え? ああ、ぼくはへいきだよ」
にこにこしているツヴァイは、湿布らしきものや包帯を巻かれている。
擦れたような顔の傷が痛ましい。
「いたい?」
「ぜんぜん、いたくないよ」
無理をしているようにしか見えないのだが。
治療はしているのだから、強がりを指摘するものではない。
そっかーと頷いてから、そういえば何があったっけ?
頭から抜けかけた怪我の原因が、さっぱりだ。
事情を聞けば、ツヴァイは教えてくれるだろうか。
言葉を選んで、どうしてこうなったのかを尋ねたが、はっきりした答えは返ってこない。
今まで口を開くことすら稀だったのだから、そう上手く・・・・・・おや?
そういえば、随分流暢に喋っている。
頭の中の整理が済んでいなかったので気付くのが遅れてしまった。
「おにいちゃん?」
「どうしたの?」
「へん」
「へんってなにが?」
「ちがう」
「うん? ちがうって、なんのこと??」
一生懸命私の言葉を理解しようとするツヴァイに、どう伝えたら良いのか。
なんで、急に前みたいに話すようになったの、と。
聞いて良いのか、悪いのか。どっちだろう。
悩みに悩む私と、私の言葉に首を傾げるツヴァイに
「以前と様子が変わった、と言いたいんじゃないか?」
私の顔を見下ろす形で、アインスが顔を出した。
そうそう、と頷けば、尋ねないでも今回の件を簡単に説明してくれた。
なんと、家政婦さんはアインスを狙った悪い奴だった!
私とツヴァイは家政婦さん率いる悪い奴らに酷いことをされた!
その時にショック療法的効果でツヴァイは以前の自分を取り戻した!
私は怪我のせいで気を失っていた!!
以上。
簡潔だったが、理解した。
与えられた情報から、ぼんやりとそういえば家政婦さんに思い切り頬を叩かれたなぁ、と思い出す。
二発やられたのだったか。中身は別として、身体は幼児なのに無体だ。
あの時点で殆ど意識が吹っ飛んでいたので、それ以降のことは覚えていない。
だけれど、覚えていることもある。
「おにいちゃん」
ツヴァイが私を見て、アインスも反応しかけて目を逸らす。
これは、今後は呼び方を考えなければいけないなぁ。
そう思いながら、アインスの顔をじっと見上げた。
「おかえりなさい、おにいちゃん」
「・・・・・・・・・・・・ただいま、ミル」
やっと家族が揃った。
そんな気がして、自然と笑みが浮かぶ。
そうすると、二人は驚いたような顔になり、ツヴァイは微笑み返してくれたが、アインスは顔を顰めた。
なんでだ。納得がいかないと目に力を込めた私に、アインスは視線を泳がせながら
「お前は、俺が怖いんじゃないのか?」
「こわい?」
なんでだ。納得がいかないと更に目に力を込める。
アインスの視線は全く定まらず、ツヴァイが半眼でアインスを見遣る。
「ミル、本当のことを言うから、聞いてくれるか?」
「うん」
「俺はお前の母親と祖父を殺したんだ」
知っている。ずっと前から。
頷くが、今度はアインスの方が納得がいかないという目をしているので
「ころされると、しぬ」
「・・・・・・・・・・・・ああ」
「しんだら、あえない」
「・・・・・・そうだな」
「でも、おにいちゃん、いる」
「ああ」
「おにいちゃん、ふたり、いる」
「っ・・・・・・・・・・・・本当に、いいのか? 俺は、お前の」
「おにいちゃん」
良いか、悪いかの問題でもないだろうが、私は良いのだ。
苦悩を抱えて私とツヴァイを守ろうとしている姿を知っている。
後悔に苛まれ、それでも目を背けず、逃げ出さなかったアインスを知っている。
「かぞく、しかく、いらないよ?」
「ミル」
「もう、かぞく。おにいちゃんと、わたしと、おにいちゃん」
ね? そうでしょう?
首を傾げてみせたら、ぼたぼたと塩水が降ってきた。
ツヴァイはそっぽを向いている。
アインスは顔を片手で覆っていたが、その隙間から塩水が伝い落ちて、私の顔を濡らす。
雨の日に家族を亡くして。
今日の雨は家族を増やした。
止まない雨に濡れながら、私の目からも少しだけ塩水が流れていた。
「にいさん、はやく!」
「分かった。分かったから、押すんじゃない」
機械の前で調整をしているアインスの背中をツヴァイが押す。
詳細は教えてもらえず、はぐらかされてしまったけれど、仲が良いのは良いことだ。
アインスが調整している機械。撮影機の前方に立ち、きらきらと光るレンズを見つめる。
家族写真が撮りたい。
そう言ったのは、私からだった。
前に何処かに行きたいかと聞かれたから、ちょっとだけ考えていたのだ。
もしも、ツヴァイとアインスが打ち解けたなら。
ちゃんと家族になれたなら、何処かで写真を撮りたい。
映像が残せるのだから、写真くらいあるだろうとアインスに頼めば、すぐに撮影機を取り寄せてくれた。
本来なら、専門家にお金を払って撮ってもらうものらしいのだけれど。
私達の事情を考えると、それはなかなか難しい。
新しい家の近く。景色の良い公園が撮影場所だ。
スタジオなどより、此方の方が解放感があって私は良いと思う。
何度も角度を調整するアインスに、もういいから早くと急かすツヴァイ。
ぼんやり待っているだけの私も、公園という場所に来るには少し綺麗過ぎる服を着ていた。
せっかくの記念撮影だから、とこれも私が我儘を言った。
アインスに頼んで取り寄せてもらったカタログを片手に、アインスとツヴァイと自分の服を選び、支払いはアインス。
何だか悪い気がしたが、アインスは「小さくても女だな」と神妙に頷くだけだったので、多分良いのだろう。
新品の服と仲の良い家族。
人数は多くはないけれど、賑やかなかんじなのが嬉しい。
「よし、いいぞ」
「ミル! ミルはまんなかね!」
「うん」
タイマーを入れたアインスとツヴァイがこっちに駆け寄ってくる。
ぴったりとくっついてくるツヴァイ。
触れない程度に近付くアインスの二人に挟まれ、じっとレンズとにらめっこしていたら
「写真なんだから、笑ってみろ」
「そうだよ。ミルはそのままでもかわいいけど、わらったらもっとかわいいよ?」
「うん?」
言われて、意識してにこっと笑う。
アインスとツヴァイが満足したような顔をしたところで、かしゃっと音がした。
そうして撮影した写真はピンボケていて、アインスは顰め面になったし。
ツヴァイはおかしそうに笑っていて。
その姿が何よりも愛しい。
ずっとずっと、こうして一緒に居られますように。
そう願ってやまない、私達が家族になった記念日。
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