もう逢えない人

逢雲千生

もう逢えない人


 ずっとずっと忘れられない人がいます。

 幼い私が出会った大切な“お友達”。

 もう二度と逢えない、大事な人です。




 その人と出会ったのは、私が中学生の時でした。

 この頃の私は、優秀な兄がいたことで肩身が狭く、いつもテストの点数で両親に怒られていました。


『お兄ちゃんだったら、こんなテスト満点なのにね』


 八十点、九十点と高得点をとっても、両親はいつも、満点しかとらない兄を基準にしていました。

 百点をとって当たり前だという態度が嫌で、あの年は、逃げるように祖母の家に遊びに行ったのです。


 遊びに行ったのは、夏休みに入って間もなくだったので、田舎の祖母の家に着くまでは、あらゆるところで人の多さに苦労しました。

 お盆ほどではなかったのですが、それまで電車に乗る機会が多いわけではなかったので、なおさら苦労したのだと思います。

 ようやく人の少ない駅に着く頃にはクタクタで、祖母が待つ目的の駅までは、ほとんど寝ていたような気がするほどでした。


 歓迎してくれた祖母と共に過ごした最後の夏は、そんなところから始まったのです。




 私が祖母と呼んでいる人は、正確には本当の祖母ではありません。

 母のお母さんだと友達には説明していますが、本当は、母の叔母にあたる人なのです。


 母のお母さんーー血の繋がった私の祖母は体が弱く、母を産んで間もなく亡くなりました。

 母のお父さんーー血の繋がった私の祖父は仕事人間だったらしく、私の祖母が亡くなるとすぐに、縁を切るようにさっさと家を出て行ったそうなのです。

 

 そもそも、祖父母の結婚は親の決めたもので、当時流行り始めていた恋愛結婚とは無縁のものでした。

 私の祖父は家庭よりも仕事が大事で、結婚してからも仕事中心の生活をしていたそうなのです。


 祖父母が結婚した頃は、女性の社会進出が広まってきた頃だったので、仕事が何よりも大事だった私の祖父にしてみれば、学校を出てすぐ専業主婦になって、家事に専念していた私の祖母を好きになれなかったのだと思います。


『女だからって家にいるな。子供を抱えてでも外で働け』


 それが私の祖父の口癖だったそうです。


「あなたのおじいさんは、本当に仕事が生きがいでしたからねえ。私や姉さんみたいに家庭に入る女は、あの人にとっては甘えているとしか思えなかったのでしょう」


 祖母はそう言って笑いますが、数年前に亡くなった祖父ーー正確には母の叔父にあたる人は、私の祖父に対していつも怒っていました。


『兄さんはいつもそうなんだ。仕事仕事って言い訳して。だから親父にも愛想を尽かされたんだよ』


 私の本当のおじいさんは、結婚してからも仕事に打ち込みすぎて、家に帰らない日が多かったそうです。

 初めは仕方がないと言っていた私の曽祖父ーー祖父達の実の父も、何ヶ月も帰ってこない祖父に怒り、縁を切ろうとしていたと聞かされました。


 祖父の話になると怖いイメージの曽祖父ですが、普段は温和で、めったに怒らない人だったそうです。

 そんな人を怒らせたというのですから、祖父の仕事好きは相当な事だったのでしょう。


 けっきょく、私の本当のおばあさんが亡くなった事で家に寄りつかなくなったおじいさんに代わり、子供がいなかった叔父夫婦が母を育てたそうなのです。

 その事を思春期の頃に知った母は、ショックのあまり家出をしたらしく、近所の人達の協力で戻っては来ましたが、それ以来実家が嫌いになってしまったというわけなのです。


 実家嫌いの母のおかげで、私は自由な場所を手に入れたのですが、ここに来るといつも寂しい気持ちになりました。


 祖母の家がある村には、親しい友達も、知人もいなかったので、庭の向こうから聞こえてくる子供達の声を聞きながら、両親に押しつけられた課題を黙々とこなす日々。

 家族からの心ない一言が聞こえないだけマシでしたが、畑仕事をしている祖母の代わりに留守番をしていたので、家にはいつも私一人でした。


 祖父が生きていた頃は祖母も家にいてくれて、私の家では話せないことを何でも聞いてくれました。

 学校で流行っていること、クラスの人気者、誰が誰を好きなのか、嫌いな先生は誰か、などなど、私の友達が家族に話していることを祖母に話せていたあの頃が、私にとって一番子供らしかったのかもしれません。


 祖父が亡くなると、祖母は畑仕事をするようになりました。

 祖父が大事にしていた場所を守りたいからなのだそうですが、大きな田んぼが何枚も入るほどの土地を一人で耕すのは難しいらしく、時々は近所の人に手伝ってもらっているそうでした。

 私も手伝おうとしましたが、慣れていないことと、家に誰もいなくなることを心配されて、しぶしぶ留守番役になっていたのでした。



 祖母の家があるのは、日本海側に面する県の山の中です。

 冬には大雪、夏は猛暑と、厳しい天候に左右される場所ですが、それを乗り越えて人が住んでいるので、人々の結託は強いものでした。


 今は名前が変わったらしいのですが、当時は小さな村で、過疎化が進む田舎の一つになっているほど寂しい場所です。

 今でこそ、村おこしとして農産物を推していますが、当時は当たり前にあったものですから、周囲の町や村に比べれば貧しい方だったのだと思うのです。


 若い人達は農地を売り、誰もいなくなった家を壊して更地にしては放置していましたが、それでも祖父母がいる家は、きちんと土地の管理がされていました。

 数組ほどの若い夫婦が暮らしている家もあったので、過疎化が進んでいるとはいえ、まだ廃村になるほどのものではなかったのでしょう。

 お盆とお正月には親戚達が各家に集まり、夜遅くまで明かりをつけて騒いでいたこともあったので、微笑ましい暮らしぶりだったのかもしれないと、今では思うのです。


 最寄り駅から祖母の知り合いが出してくれた車に乗り、三十分ほどに走ると橋が見えます。

 この橋は、村と外をつなぐ大事な架け橋です。

 数十年前に鉄骨で再建されて以来、不便だった交通状況を良くしてくれた橋として、村人から大事にされてきました。

 

 その下には川があり、急な流れが大きな音を生み出しています。

 車に乗っていても聞こえてくるほどの大きさで、幼い頃はとても恐ろしく感じていました。


 成長したこの頃は恐怖などなく、ただうるさいなとだけ思っていまいしたが、橋の上から川を眺めると少しだけ寒気がしました。


 橋を渡ると、しばらく川沿いに村へ続く道を走ります。

 昔は砂利道だったこの道は、ここ数年で砂が敷かれてなだらかになり、揺れもそれほどありません。


 雨の日になると悲惨ですが、川より十メートル以上も高い道を舗装してしまうと道路に水が溜まるため、それが流れて土手を削ってしまうと言われているそうなのです。

 土手の補強にお金をかけるよりも、多少不便でも長持ちする道にしようと、村人と役場の人達の意見が一致したようで、晴れの日は砂埃、雨の日はグチャグチャという、都会っ子には不便極まりない道になったというわけなのです。


 適度な雨が最近降ったと祖母に聞いていたので、窓を開けても砂埃は入ってきませんでした。

 楽しそうに話す祖母と知り合いの人の後ろ姿を、車の座席越しに見ながら、私は入り込んでくる生温い風を感じて、背もたれに寄り掛かりました。


 流れる景色を見ながらぼうっとしていると、道の途中に誰かがいると思い、体を起こしました。

 この暑い中、白いワイシャツに黒いズボンを穿いたその人は、うつむいた姿で歩いています。


 窓から顔を出して、通り過ぎる時に顔を見ようとしましたが、頭に帽子をかぶっていて顔は見えませんでした。

 ただ男性だということはわかったのですが、不思議と違和感を抱くことなく、祖母の家に着くなり彼のことを忘れてしまったのです。

 

 この暑いのに、学校にでも行っていたのかなあ。

 そんな程度の認識で、私は最後の訪問となった村へと入ったのでした。




 田舎の情報網は迅速で、私が祖母の家に遊びに来た事はすぐに広まります。

 田んぼや畑で仕事をしている人が必ずいるので、そこから奥さんやお嫁さん、通りがかりの人などの口を伝って情報が広まり、半日もすれば村中に情報が行き渡るのです。


 知らない人が家に来ても、すぐに名前を呼ばれて「いらっしゃい。よく来たね」と歓迎されますが、その感じにはいつまでも慣れません。

 それでも、お菓子や果物などをいただいて「好きなだけいなよ。ばあちゃんが喜ぶからね」と言われると、なんともむず痒い気持ちになっていました。


 母の実家嫌いを知っている人は意外にも多く、噂で聞いたらしい若い奥さん達も、それとなく私に遠慮して母の話をしないようにしていました。

 それをありがたいと思うよりも、あからさまに腫れ物扱いされているようで気に入らなかったのですから、やはり私も捻くれ者だったのでしょうか。




 私の家族は、私が生まれてからは、数えるほどしかこの村に来ていないため、評判が悪く、村ではあまり話題にされません。

 兄が生まれた時は、お盆と正月以外でも顔を出しに来ていたそうですが、私が生まれるとすぐに兄の秀才ぶりがわかり、邪魔にならないように私を預けに来る時だけになったそうなのです。


 記憶にはありませんでしたが、生まれて間もない私を預けに来た時があったそうで、その時は優しい祖母も大声で怒鳴ったと言います。


『すごかったんだよ、おキネさんたら。あの人が怒るのを初めて見たくらいだからねえ』


 近所のおばさんから聞いたのですが、祖母は私が知る通り穏やかな性格の人で、めったな事では声を上げない人だったそうです。

 私を預けに来た母が何を言ったのかは知りませんが、長い付き合いのある人達にまで「初めて見た」と言わせたのですから、その時の祖母は相当恐ろしかったのでしょう。


 今でもおじさん達の間で語り継がれているほどで、お酒の席でたまに話題に上がるのだそうです。

 なぜそんな事を知っているのかというと、私もその場にいた事があるからです。


 この村では飲みに行けるお店がなかったり、あるいは遠かったりするので、誰かの家にお酒を持ち寄って飲み会をするのが普通でした。

 祖父が生きていた頃は時々、祖母の家で飲み会をする事があったので、お酒や料理を運ぶ手伝いをしながら、村の人達から昔話を聞いていました。


 母が家に来ない事を責める人はいませんでしたが、父の事を褒める人もいませんでした。

 そこから、なんとなくですが、この村で両親は好かれていないのだなと感じたのです。


 私の兄も何度か一緒に遊びに来ていましたが、頭でっかちで人の話を聞かないところがある人なので、彼を相手にするのが嫌なのだろうな、と感じた時もありました。

 嫌いではないのでしょうが、母達の話になるとぎこちなくなる村人達に、私は少しだけ親近感を覚えたのです。


 祖母が父の事を苦手だというのは知っていました。

 結婚の挨拶に来た時に何かあったらしく、母の事は大切に思っているようなのですが、父と顔が似ている兄が来ると、少しだけ距離を置こうとします。

 幼い頃は気になりませんでしたが、兄を苦手に思うようになった私は、祖母の気持ちが少しだけわかるのです。




 私を家に送り届けた後、祖母の知り合いは隣町に帰って行きました。

 祖母がお礼にと麦茶を振る舞おうとしていましたが、彼は家で出産間近の牛がいると焦っていたので、気をつけてと手を振りながら、悪い時に来てしまったなと申し訳なく思いました。


 いつも泊まっている二階の一室に荷物を置くと、祖母はお昼と夕飯用に野菜をとってくると言って、作業用の土がついたエプロンをつけて畑に行ってしまいました。

 お昼をだいぶ過ぎてはいましたが、祖母は私を待っていてくれたらしく、台所には作りかけのご飯が並んでいます。

 暑いからと冷たい汁を味噌汁がわりに、少し冷めたご飯に具材を混ぜたおにぎりを作っていたようで、付け合わせに何かをもいでくるのだと思いました。


 日が高いうちは外に出るのも億劫になりますが、この村は川から離れているものの、周囲に田んぼと畑しかないため風通しが良く、少しでも風が吹けば涼しい場所です。

 この日はそれほど強くはありませんでしたが、心地よい強さの風が吹いていたので、祖母が消したままの扇風機をつけると、外からの風と重なって体を冷やし始めました。


 そのまま扇風機の風を浴びていると、玄関から声が聞こえました。

 行ってみると隣に住むおじいちゃんで、トマトが採れたからお裾分けに来てくれたのだそうです。

 お礼を言うと嬉しそうに笑うおじいちゃんは、私の背後を見て「お兄ちゃんが来ているのかい?」と聞いてきました。


「ううん、今回は私だけだよ。お兄ちゃんは勉強で忙しいんだって」


 そう言うと、おじいちゃんは明らかにホッとしました。

 すぐに気がついて「いや、お兄ちゃんの事が嫌なわけじゃないんだよ」と言いましたが、私は笑って「大丈夫、私も苦手だから」と答えました。


 するとおじいちゃんは安心したのか、玄関の一部である廊下に座ると、ついでにと持ってきてくれた缶ジュースを開けて、私に渡しました。

 それを受け取って、私も廊下に座ると、おじいちゃんは玄関の外を見ながら話し始めたのです。


誠治せいじくんの事は嫌いじゃないんだよ。……ただね、どうもおじいちゃんと話が合わないんだ。もっと若くて、もっと頭が良ければ相手できたんだけどねえ」


 ーーおじいちゃんの家はとても貧しくて、家族の誰も学校に行けなかったそうです。

 末っ子だったおじいちゃんは、義務教育の時代に入った事で、なんとか小学校を卒業させてもらえたそうですが、それからは家の手伝いをしながら大人になるまで実家の世話になり、親戚のつてを頼って大きな町の会社に就職する事ができたそうなのです。


 それからはがむしゃらに働いて、どうにか食べていけるだけの収入を得られましたが、時代の変化と共に、勉強ができるかできないかで差別されるようになり、肩身の狭い思いをしてきました。

 会社には高校を出た人や大学を出た人が増えていき、小学校しか出ていないおじいちゃんを馬鹿にする人もいたそうなのですが、それでも、仕事でおじいちゃんに敵う人はいなかったといいます。


 誰よりも必死に働いたおじいちゃんは、会社でも一目置かれていたそうで、誰もいなくなった実家を守るために、定年退職してこの村に戻ってきた後も、たまに昔の仕事仲間が遊びにきてくれるのだそうです。


「おじいちゃんが子供の頃は、勉強よりも食べていくのに必死だったからねえ。おじいちゃんの奥さんも苦労してきた人だけど、それでも良い人なんだよ。子供達も立派に巣立って、孫達にも恵まれて、今はこうして、実家でのんびり余生を過ごす事ができている。おじいちゃんは、それが何より嬉しいんだ」


 温くなってきたジュースを飲みながら、今まで聞いた事がなかったおじいちゃんの昔話を聞いていました。

 おじいちゃんは、見ているこちらが恥ずかしくなるほど、今でもおばあちゃんと仲が良いのですが、貧しかった二人はようやく小学校を出してもらえただけなので、それがコンプレックスになっているのだそうです。


 この村に住む人達の大半は高校卒業か中学校卒業ですが、中には小学校をやっと出られたという人もいます。

 それは、けして頭が悪かったからだというわけではなく、戦後の貧しい時期の中で、食べていくのに必死だったからなのです。


 特に交通が不便だった田舎では多かった話らしく、私の友達のおじいさんやひいおじいさん達もそうだったと聞いた事があります。

 それを不思議に思った事もありますが、学校で戦中戦後の暮らしを習った事があるので、おじいちゃん達の苦しみは理解できました。


「誠治くんみたいに勉強ができる子はすごいよ。おじいちゃんも尊敬する。だけどね、正美まさみちゃんだってすごいんだよ。こうしておじいちゃんの話を聞いてくれるし、遠いところに住んでいるおばあちゃんに、毎年欠かさず会いに来てくれてるんだからーー」


 おじいちゃんは私の家庭事情を知っています。

 どうして祖母の家によく来るのかも知っていますが、それでもこうして優しい言葉をかけてくれるのです。


 おじいちゃんは、足を悪くしたおばあちゃんの代わりに、家の事を一人でこなしているので、どんな時も長居はしません。

 私と一通り話すと、いつもの優しい顔で、おばあちゃんが待っている家に帰って行きました。

 私も涙ぐむ目を手の甲で軽く拭うと、残りの課題を進めるために茶の間に戻ります。


 祖母の実家は広いため、リビングである居間の他に、みんながのんびりする茶の間という部屋がありました。

 居間ではお客様が来る時があるので、私はほとんどの時間を茶の間で過ごしますが、茶の間のすぐ横には外に出られる縁側があり、顔を出すと家の出入り口が見えるのです。


 風がよく通る場所であるため、たまに縁側でお昼寝をして日焼けする事もありますが、そんな事をしていても誰も怒らないのがいつも不思議でした。

 それに甘えて、一日中寝転がっていると、さすがに祖母も呆れて注意しますが、それでもやめられないほど快適な場所なのです。


 おじいちゃんからもらったトマトをボウルに入れ、水道の水を入れます。

 そのまま水を流しっぱなしにすると、水はすぐに溢れましたが、冷やすためにそのままにしておくのです。


 本当は山水や井戸水が最適なのですが、この村では地下水がとれず、ずっと昔は山の沢まで水を汲みに行っていたと聞いています。

 水道が引かれるまでは、それでどうにかしていたそうなのですが、雨が降ると水が濁る時があり、毎年必ず水には苦労していたそうなのです。


 今では蛇口ひとつで水が使い放題なので、私は特にありがたみを感じませんが、この暑さでも水道水を飲む気にはなれません。

 仕方なく作り置きの麦茶をもらって飲むと、茶の間の縁側に近寄って涼みながら、暑くなり始めた外を見てあることに気がつきました。


「誰だろう?」


 家の庭には生け垣があり、たまに祖母の知り合いの人が手入れしてくれています。

 祖父の同級生だった人で、祖母がお茶を出して話をしているところを何度も見ていますが、その人は今年腰を痛めてしまったらしく、冬まで仕事ができないと言っていたと、祖母が車の中で話していたのを思い出しました。


 てっきりその人が心配で来てくれたのかと思いましたが、生け垣の上からは黒い髪がわずかに見えています。

 祖父の同級生だった人は、お世辞にも髪があるとは言えないので、ならばあれは誰だろうと目を凝らしていると、出入り口の前まで来た誰かが戸口から顔を覗かせました。


 知らない人です。

 薄いワイシャツに黒のズボンを穿いたその人は、どこからどう見ても私と同じくらいの男の子でした。


 彼と同じような体勢で、私も縁側から彼を見ていると、私に気づいたのか頭を下げて「入ってもいいですか?」と聞いてきました。

 知らない人だったのと、祖母がいない事もあってどうするか悩みましたが、もしかすると誰かの親戚かもしれないと思いうなずきました。


 たまに近所のお孫さんや親戚の子供が家に来て、祖父母に挨拶をしていく人がいます。

 子供が生まれると必ず行う挨拶回りらしく、大きくなった子供や生まれたばかりの赤ん坊を嬉しそうに見つめる祖父母の顔を今でも覚えています。


 この人もそうなのだろうかと思って家に招くと、彼は何も持たずに入ってきました。


木野嶋きのしまさんの家、ですよね?」


「はい、そうですが……」


 精一杯の敬語で対応しようとしましたが、相手は白いワイシャツに黒のズボンを穿いた、いかにも真面目そうな人で、その姿があまりにも古い印象だったので驚いてしまいました。

 何十年も昔の男子学生という服装だったのですが、私の住む町にある高校では、彼と似たような男子制服を着ている事を思い出し、すぐに「どちら様ですか?」と尋ねました。


「僕は正太しょうたと言います。キネさんはいらっしゃいますか?」


「祖母は出かけていて、今はおりません。暑くなる前には戻ってくると思いますが、中で待ちますか?」


 すると彼は少し悩みましたが、すぐに「また来ます」と言って戸口から出て行ってしまいました。

 それからすぐに祖母が帰ってきたので、その男子学生の事を話しましたが、祖母は「そんな子は知らないわねえ」と言ったのです。


「今年は親戚が帰ってくる家は少ないし、おじいちゃんおばあちゃんの家に遊びにくるのに、制服では来ないと思うわよ。それに、正美ちゃんと同じくらいの男の子はいないはずだけどねえ」


 祖母の話だと、私と同じくらいの年頃になる男の子は近所にいないらしく、祖母の言う通り、こんな田舎に遊びに来るのに制服では来ないはずです。

 古い印象を与える彼に違和感を覚えましたが、その日は彼の以外の来客はなかったため、また来ると言っていた言葉を信じて眠りにつきました。




 次の日、終わった課題を鞄に詰めると、持ってきていたスマホが鳴りました。

 旅行に行った友人からの連絡で、大量の写真と共に「お土産期待しててね」という言葉で締め括られていました。


 友人の家族は大所帯で、祖父母の他に両親と七人の兄弟がいます。

 にぎやかで羨ましいと言った事はありますが、本人はうるさいだけだと言いつつも、こうして一緒に過ごす写真を見ると、それが本音ではないのだとわかるのです。


 私も「期待してるね」と返信すると、既読のマークがついたのでスマホの画面を落としました。

 夏休みの宿題はすでに終わっているので、後は自由時間です。

 何をしようかと思いながら一階に下りると、朝ご飯の準備をする祖母が笑顔で「おはよう」と言ってくれました。


「今日は久しぶりにパンにしたよ。食パンしかないけど、好きなジャムを塗って食べてね」


 家から少し離れた所にある祖母の友人は、お嫁さんが焼いたという食パンを村中に配ることで有名です。

 お嫁さんは昔パン屋でアルバイトをしていたらしく、彼女が作るパンはどれも、手作りらしい優しい味がしました。


 パンと一緒に作ったというジャムは何種類かあり、それも全てお嫁さんの手作りです。

 私は、めったに出会わないママレードとラズベリーのジャムを塗って食べると、そのままでも美味しいパンがなおさら美味しく感じられました。


 私の家では、母が兄にかかりきりだったため、渡されたお金で買ったインスタント物しか食べていなかったので、白いご飯と味噌汁だけでも嬉しく感じる事があります。

 祖母は「質素な食事でごめんね」と言いますが、いつも一人で食べている私には、祖母と一緒に食べるご飯は何でも美味しいものでした。


 お腹が膨れると、祖母は地元の婦人会というものに行ってくると言って出かけてしまいました。

 婦人会というのは、地元のお母さんや奥さん達が有志で集まり、村や町などで行われるイベントの食事などを作る組織のようなものらしいです。

 他の町や村にもあるそうですが、私の村では年に数回、男性達の間で大きな飲み会が行われるので、その時の配膳係を行うために、話し合いをするのだと聞いていました。


 祖母を含めた、村の婦人会メンバーの平均年齢は六十八歳。

 一番若い人でも五十四歳だそうなので、ここでも高齢化のあおりを受けているのだそうです。


 人手が足りない時には、働きに出ている若い女性に頼む事もあるそうですが、だいたいは何も言わなくても手伝いに来るそうなので、そういう気遣いはさすがだなと思っています。

 祖母の楽しみでもある婦人会の集まりは、必ずお昼をまたぐので、今日のお昼ご飯用にとおにぎりを握ってもらい、私は祖母を見送りました。


 一人になったので出掛けられなくなりましたが、出掛けたところで遊び相手などいません。

 地元の子供達とは年齢が合わず、下はよちよち歩きで、上は高校三年生、小学生はいますが中学生の子は去年でいなくなってしまいました。


 たとえいたとしても、地元の子供達の輪に入れなかったので、何年も通っているのに打ち解けてくれない私を、子供達は遠巻きに見るようになっていたので、遊ぶことなどないでしょう。

 幼い頃に何度か遊びに誘われた事はありますが、田舎の遊びを知らなかった私は断り続け、すっかり気まずくなってしまったからです。


 人付き合いが苦手なほうではありませんが、知らない土地で知らない人に一人で立ち向かうのには勇気がいります。

 せめて一度くらいは……と思ってはいましたが、今はもう諦めてしまいました。


 祖母が帰ってくるまで母から出された課題でもやろうか、それとも暇そうな友達に連絡を入れて話し相手になってもらおうか、とあれこれ考えていると、後ろから「こんにちは」と声をかけられました。

 驚いて振り向くと、そこには昨日の男の子がいたのです。


「驚かせてごめんなさい。戸口が開いていたから、誰かいるのかと思って入らせてもらいました」


「あ……そう、ですか」


 おそらく祖母の閉め方が甘かったのだろうと、すぐにわかりました。

 敷地を出入りする戸口は、私の胸辺りまで高さがありますが、敷地は私の身長くらいはある生け垣で囲われています。


 人が来ると、子供でなければ頭は見えるので、すぐに誰か来たとわかりますが、たいていは戸口から顔を出すまで気づかないため、防犯としての役割はほとんどありません。

 幸いにも、こんな田舎まで泥棒に来る人はいないらしく、いつでも玄関の戸が開いているくらいです。


 それを知った時は嘘でしょうと驚きましたが、何度も来ているうちに本当だと知り、今では特に気になりません。

 朝昼晩と、時間に関係なく玄関を開けてお裾分けをしていく人も多いので、せっかくの野菜を獣に食べられないようにとの配慮もあるのだそうです。


 たまにですが、勝手知ったる何とやらで、戸口が開いていたからと家の中に入ってくる人もいますが、私と同じくらいの歳に見える彼まで、それをやるとは思いませんでした。

 祖母に文句を言いつつ縁側に行くと、彼は片手に持った風呂敷を差し出しました。


「昨日はごめんなさい。これ、うちからのです」


 そう言って渡されたのは水羊羹の箱でした。

 彼の顔と交互に見比べて受け取りましたが、何度見ても何も思い出せなかったので、やはり彼は私の知らない人なのでしょう。

 古い印象の制服姿で現れた彼は、私に勧められるまま縁側に座ると、冷たい麦茶を飲みながら笑いました。


「昨日といい今日といい、突然すみませんでした。キネさんに会いにきたのですが、どうもタイミングが合わなかったようで……驚かせてすみません」


 彼は私に、自分はこの家の遠い親戚だと教えてくれました。

 亡くなった祖父と繋がりがあるらしく、祖父には生前親しくしてもらっていたらしいのですが、亡くなったことを最近知ったのでお線香をあげにきたのだというのです。


 半信半疑でしたが、遠いところから来たという人を無碍にもできず、おそるおそる彼を家にあげて仏間に案内しました。

 仏間は家の奥にあるため涼しく、たまに野良猫がどこからか入って来て、堂々と寝ている時があるくらいです。


 少し埃っぽい仏間の風通しを良くしようと、襖を開けられるだけ開けると、神妙な面持ちの彼に「どうぞ」と言って座布団をすすめました。

 仏間用の座布団は他よりも高そうなデザインなのですが、これに座る機会はほとんどありません。

 人が来ても普通の座布団を出すので、私もめったに見られないほど良い物なのだそうです。


 姿勢良く正座をして線香に火をつけた彼は、手を合わせてゆっくりと目を閉じました。

 私は斜め後ろからその様子を見ていましたが、私の知っている男子よりもずっと上品に見えます。


 祖父が亡くなった時に、男友達に「お葬式で休むね」と伝えたことがありますが、彼らはいまいちピンと来ていなかったようで、「お土産期待してるからな」と笑っていました。

 おそらく彼らは、お葬式というものを軽く考えていたのでしょう。

 旅行じゃないんだから……と考えて苦笑いしてしまったのですが、同じくらいの男の子が大人みたいな振る舞いをするというのは、こんなにも目を奪われるものなのでしょうか。


 あれほど警戒していた気持ちが薄れ、彼の事を少しだけ見直しました。

 昨日に比べると見方も変わってきていて、なんだか少し、胸がドキドキしてきました。


「……ありがとうございました」


 そう言って座布団を下りると、膝をついて頭を下げてくれて、その姿に顔が赤くなる気がしたのです。

 このまま帰すのも失礼だと思い、彼を居間に連れて行ってお茶菓子を出しました。


 コップに氷を入れ直して冷たい麦茶を注ぐと、居間にある古い写真を見上げる彼に出しました。

 彼は「ありがとうございます」と笑って麦茶を飲むと、「あれは誰ですか」と一枚の写真を指さしました。


 彼が指さしたのは、私のおじいさんとおばあさんの写真で、唯一、二人で撮ったというものです。

 二人とも仏頂面で、これを撮ってくれた写真屋さんは困った顔をしていたと亡くなった祖父は話していましたが、それでも唯一の写真だからと大事にしていたものでした。


「私の祖父母です。あの写真しか二人で撮ったものがないそうで、今でも大事に飾られています」


「私の……? 木野嶋さんは、たしかキネさんと正治しょうじさんが家を継いだと聞いたのですが……」


「二人は、私の母の養父母です。実の叔父夫婦でしたが、本当の祖母が早くに亡くなったので、仕事人間だった本当の祖父に代わって母を育ててくれたそうです。ですから、あの写真の二人が血の繋がった祖父母で、キネおばあさん達が育ての祖父母なんですよ」


 育ての祖父母とは変な言い方でしたが、説明するのがややこしい人間関係なので、わからない場合は質問してもらおうと思いました。

 しかし正太さんは理解してくれたのか、それ以上の質問はせず、黙って麦茶を飲み続けていました。


「……キネさんはまだ戻らないようなので、今日もこれで失礼します」


「すみません、今日はお昼頃まで出かける予定だったので、その事を忘れてしまっていて……。本当にすみませんでした」


 正太さんへのドキドキで祖母の帰宅時間を忘れてしまい、けっきょく一時間も無駄話をしてしまいました。

 彼は気にした様子ではなく、むしろ「楽しかったです」と笑ってくれて、その大人な対応にもドキリとしたのです。


 戸口で彼を見送りながら、遠ざかっていく背中を見つめました。

 けしてイケメンだというわけではありませんが、なぜか胸がドキドキして仕方なかったのです。


 午後に帰宅した祖母に、正太さんの事を話しましたが、やはり知らない人だと言われてしまいました。

 亡くなった祖父には親しい親戚が何人もいましたが、もしかすると自分は会った事がない人なのかもしれないと言われて、少しだけ祖母に優越感を持ったのです。


 祖母相手に何を考えているんだと思ってしまいましたが、私だけしか知らないという事実を考えると、どうしても顔がにやけてしまいます。

 その様子を見ていた祖母は不思議そうな顔をしましたが、すぐに優しく微笑みました。


「正美ちゃん、元気になってくれて良かったわ。ここに来てから一度も笑わないし、隣のおじいさんも心配していたのからねえ」


「え? そうだった?」


 顔に手を当てて確認してみますが、当然わかるはずがありません。

 私の様子を見て、祖母はまた微笑むと、冷たい麦茶を出してくれました。


「うんうん。絶対お兄ちゃんと何かあったんだって、シナダのじいさんが言っていたくらいだからねえ。みんな心配してるんだよ」


「そっかあ……」


 シナダのじいさんというのは、隣に住むおじいちゃんの愛称です。

 由来はわかりませんが、昔からそう呼ばれているらしく、「シナダのじっちゃん」と呼んだりもします。


 私もたまに「シナダのおじいちゃん」と呼びますが、そうすると嬉しそうに笑って返事をしてくれました。

 それが嬉しくて、小さい頃は何度も呼んでおじいちゃんを困らせていましたが、今でも変わらず可愛がってくれるおじいちゃんの事は大好きです。


 祖父が亡くなった時も心配してくれて、実の祖父のように何かと声をかけてくれていたのですが、今ではその優しさに苦しくなる時があります。

 なぜ苦しくなるのかというと、それは祖父の葬式の日までさかのぼります。




 ーー祖父が亡くなった時、これまで実家に寄りつかなかった私の家族は全員この村に来ました。


 いかにも不本意だという表情で、無愛想に対応する母達にみんなは苦笑いしていましたが、それでも来てくれたからと、葬儀についていろいろと助けてくれていました。

 そんな時に、テスト勉強を中断して来ていた兄がキレたのです。


『こんな低レベルな村にいて何になんだよ! 馬鹿なのにあれこれ指示すんな!』


 空気が凍るという瞬間を、この時初めて体験してしまいました。

 それまで弔問客の相手をしていた人達も、夜の食事を作っていた人達も、みんなが兄を信じられないと言った目で見ているのです。


 それに気づいた兄は、さらに『見てんじゃねーよ!』と怒鳴りましたが、さすがにこれはマズいと思った父が止めに入り、けっきょく兄は夜まで二階に篭もっていました。

 父はとりあえずといった感じに村人に謝っていましたが、母は謝るどころか、村人に謝る父を怒っていました。


 その様子を、手伝いに来た人達は信じられないといった目で見ていましたが、私はいたたまれなくなって逃げ出したくなりました。

 祖母は気丈に振る舞っていましたが、きっとすぐにでも怒りたかったのでしょう。

 私の手を握って『大丈夫だよ』と微笑んでくれましたが、その手は私の手を握りつぶさないように震えていたのです。


 夜になって少しは落ち着いたのか、兄の機嫌は少しだけ良くなっていましたが、彼を見る近所の人達の目は冷たいものでした。

 父や母に対する目も厳しいもので、兄を本気で叱らないその態度に、まとめ役だったシノダのおじいちゃんが怒ったのです。


『お前らは子供が悪い事をしたのに叱らんのか! そんなだから、こんな男に育つんだろうが!』


 すると兄はまたキレてしまい、おじいちゃんに殴りかかったのです。

 運良く兄の近くにいた近所のおじさんが止めに入りましたが、兄の暴言は止まりませんでした。


『んだよ! 離せクソジジイ! 中卒の男が何触ってんだよ! そっちのジジイだってそうだ。あんた小学校しか出てないくせに、何でけえ顔してんだよ! 母さんが言ってたぞ。あんたは頭が悪いってな。あんただけじゃねえよ、この村の奴らみんなだ。どうせまともな学校出てねえんだろ? なら、あいつと同じバカじゃねえかよ』


 そう言って私を指さし、兄は楽しそうにゲラゲラと笑い出しました。

 この頃の私は小学校の成績が悪く、担任の先生から兄と同じ中学校は無理だと言われていました。

 それを両親に責められ、兄にも馬鹿にされていたので、優しくしてくれた村人達を馬鹿にする兄に、思わず殴りかかってしまったのです。


 殴りかかったといっても、しょせんは小学生の腕力です。

 片手が自由だった兄にあっさりとやられ、次の日には顔を腫らしていました。


 それ以来、村では私の家族をよく思わなくなり、私も来づらくなっていたのですが、祖母に誘われて来てみると、おじいちゃん達は変わらず私を可愛がってくれたのです。

 それからも祖母の家に来られたのは、おじいちゃん達のおかげでもあったのですが、それ以上に、受け入れてくれる祖母のおかげでもありました。


 兄のようになれない私を責める両親と、私を見下す兄。

 いつの間にか顔に出ていた私の気持ちに気がついたおじいちゃんは、励ます意味で昔話をしてくれたのだと、祖母の言葉で気がついたのです。


「私だって小学校しか出ていないけれど、ちゃんと今までやってこられたんだから、あなただって大丈夫よ。困った時はいつでも遊びにおいで。ね」


 そう言ってくれる祖母に目頭が熱くなり、誤魔化すように麦茶を勢いよく飲みました。

 恥ずかしい気持ちで部屋に戻ると、正太さんの事を思い出してまた恥ずかしくなりました。


 また来ると言っていましたが、それが本当かどうかはわかりません。

 それでも、少しだけ楽しくなった明日に期待しながら眠りについたのでした。




 次の日は朝から暑い日でした。

 汗だくになって目覚めた私は、いつもより早い時間に一階に下りると、祖母と一緒に朝ご飯の支度をしました。


 卵を焼いて味噌汁を温めていると、スマホが着信を知らせました。

 友人の誰かだろうと思って画面を見ると、そこには母の名前が浮かんでいたのです。


 いったい何の用なのだろうと思いましたが、待たせるとひどく怒られます。

 考えるより早く電話に出ると、母は相変わらずの不機嫌な声で私に言いました。


『早く出なさいよ、どんくさいわねえ』


「ご、ごめんなさい……」


 私の声で相手を察したのか、祖母が心配そうな顔になりました。

 煮立ち始めた味噌汁が音を立てはじめ、祖母は私を気にしながら火を止めます。


『まあいいわ。それよりあんた、いつまでそっちにいるつもり? お兄ちゃんは毎日塾で頑張っているっていうのに、あんたはいつまで遊んでるのよ。課題はやってるの? ただでさえ成績が悪いんだから、それくらいはやりなさいよね。そうそう、帰ってきたらすぐに塾に行くのよ。来週には始まるからね』


「え? 塾ってどういうこと」


『はあ? あんた馬鹿なの? 塾って言ったら塾でしょうが。他に何があるのよ。ったく、これだからあなたは嫌なのよ。お兄ちゃんがかわいそうだって言うから電話してあげたのに、本当に馬鹿なんだから』


 いつもと変わらない心に刺さる会話。

 母にしてみれば、私は何もできない駄目な子で、兄の足元にも及ばない馬鹿な子なのだ。


 とっくにそれを知っていましたが、こうして久しぶりに会話する母は、私の気持ちなど知る気もないでしょう。

 目の奥が熱くなり、こぼれそうな涙を我慢していましたが、もう限界でした。


『そっちであの人が何言ってるかわかんないけど、あんたは馬鹿なんだから、さっさと帰ってき』


 それ以上は聞きたくないと電話を切り、心配する祖母を押しのけて外へと飛び出しました。

 もう我慢できなくなった涙は次々と溢れ出し、熱い日差しなど感じないままひたすら走りました。


『馬鹿なんだから』


 物心ついてから今まで、母の口からその言葉を何度聞いたことでしょう。

 出来のいい兄に愛情をとられ、両親からは将来を諦められ、それでも私は何を期待していたのでしょうか。


 祖母に甘え、村人達にも甘え、本当の自分を見ないようにしていた私は、この時急に何かが切れた気がしたのです。


 昨日までは幸せでした。


 たくさんの人の温かさを知り、正太さんと出会ったことで有頂天になっていたのでしょう。


 走って走って、ただひたすら走って、ようやく足の痛みで我に返ると、村外れにある大きな川の近くまで来ていました。


 振り返ると村が遠くにあります。

 うっかり来てしまいましたが、この川は流れが速く、見た目より深いため、村人ですら近づかない場所です。

 空にある太陽は容赦なく私を照らし、シャツと短パンだけの私の肌を容赦なく焼いていきます。


「……朝ご飯」


 祖母と用意していた朝ご飯を思い出し、置いてきてしまった祖母が心配になりました。

 砂利道を走ってきたからか、足の裏はひどく痛み、近くに立つ木に寄りかかって確認すると、ところどころ血が出ています。

 自業自得だと思いながら道に戻ると、向こうから人影が来ました。


「ああ、良かった。ここにいたんだね」


 それは正太さんでした。

 祖母に会いに来た時に、偶然家を飛び出した私を見て、慌てて追いかけてきてくれたのだそうです。


「ああ、足から血が出ているじゃないか」


「す、すみません」


 思わず謝ると、正太さんは虚を突かれた顔になりましたが、すぐに笑顔になりました。


「気にしないで。ああ、敬語じゃなくなってましたね。ごめんなさい」


「い、いいえっ。同い年くらいなんですから、むしろいりません! 大丈夫です!」


 思わず声を張り上げてそう言いましたが、彼は驚く事なく笑うと、すぐに「じゃあ、そうするね」と言ってくれたのです。


「さっそくだけど、歩ける? 痛くない?」


「あ、大丈夫、です」


 彼に敬語を話さなくていいと言いましたが、私はどうしても敬語が抜けませんでした。

 彼はそれに対して何も言わず、歩けないと判断した私を背負うと、また笑って「送っていくよ」と言ってくれたのです。


 彼の背中は大きいものでした。

 同い年の男子と軽い触れ合いはありますが、せいぜい手を叩き合ったり肩を叩き合ったりする程度です。

 父や兄との接触は皆無でしたし、男の子と付き合った事もなかったので、ここまで男の人と近い距離になるのは初めての事でした。


「少し揺れるけど大丈夫?」


「は、はい」


「このまま家まで連れて行くね。つかまってて」


 言われて肩につかまりました。

 最初は首に手を回そうかと思いましたが、ほとんど初対面の相手にそこまでするのは恥ずかしく、また、胸のドキドキが強かったので、それが限界だったのです。


 彼に背負われて村に戻ると、心配する祖母が戸口に立っていました。


「正美ちゃん、大丈夫だった?」


「うん。心配かけてごめんなさい」


 泣き出す祖母に手を差し出すと、正太さんは察してくれたのか私を下ろしました。

 祖母に抱きついて無事を教えると、成り行きを見守ってくれていた正太さんにお礼を言おうと振り返りました。


「あの、ありがとう……あれ?」


 振り返った先には誰もおらず、周囲を見回しても人の気配は感じられません。

 祖母と二人で家に入ると、彼を見た祖母が思い出したように一枚の写真を見せてくれました。


 そこには若かりし頃の祖父とおじいさんがいて、足元に小さな男の子がいました。

 坊主頭でくりっとした可愛らしい姿の男の子は、祖父の足にしがみつくようにカメラを見ていました。


「あのね、正美ちゃん。もしかしたらなんだけど、あの正太って子はこの人の孫かもしれないわ」


「この人って、この男の子?」


「そう。この子はさとしって言って、おじいさん達の末の弟だったんだけどねえ、中学校を卒業してからすぐに就職しちゃって、村を出てから一度も連絡がなかったの。おじいさんもお義兄さんも、それはそれは可愛がっていたらしんだけど、向こうの暮らしが良かったのか、一度も帰っては来なかったのよねえ」


 祖母に見せられたのは、祖父達が可愛がっていたという末の弟。

 祖母の話では、私の母と数歳しか歳が変わらない男の子だったそうです。

 彼のことは祖母も知っていて、生まれた時から祖母も可愛がっていたらしく、人懐っこくて人見知りがない良い子だったと言います。


「智くんはとても賢い子でねえ。誰よりも頭が良かったのよ。私も可愛がっていたけれど、うちも貧しかったから高校は出してあげられなくてね。亡くなったおじいさんも、その事をずっと悔やんでいたわ」


 この智という人はとても賢く、なんでもすぐに覚えて忘れなかったらしいのです。

 この人が四、五歳の頃に私の母が生まれ、高齢だった曽祖母に代わって祖母が育て、私の母を引き取ってからも、可愛い義理の甥っ子として世話をしていたのだと教えられました。


 写真は幼かったのですが、たしかに正太さんと面影が似ています。

 十五くらいで村を出たとしたら、早くに結婚して子供が生まれていてもおかしくはありません。


 そう考えて写真をじっと見ていると、祖母がもう一枚写真を見せてくれました。


「これはあなたのお母さんと写っている写真よ。あの子ったら、正太くんにまったく懐かなくてねえ。ほら、写真でも不機嫌でしょう」


「ほんとだ……」


 初めて見る幼い母は、今よりもずっとあどけない顔で、今と同じ不機嫌な顔をしていました。

 隣には困り顔の智さんがいて、正太さんと同じ顔で笑っていました。


 この写真の数年後に村を出たらしいのですが、どうやら智さんは人より成長が早かったらしく、村を出る頃には私より背が高かったそうです。

 そのため高校生や大人に間違われることも多く、親戚達からも頼りにされていたそうです。


 懐かしそうに写真を見つめる祖母でしたが、その目には寂しさもあり、本当に可愛がっていたのだという事がよくわかりました。


 遅い朝食を食べ、母が言っていた塾についてどうしようかと考えていましたが、足についた石や泥をお風呂場で落としながら、少しだけ気持ちが軽くなっていることに気づいたのです。

 母の話を聞いて落ち込んでいたのに、二人の男の子の話を聞いたら、気持ちが軽くなった気がしました。


 痛む足を引きずりながら部屋に戻ると、母からの怒りのメールを開いて、またため息が出たのです。


『来週の火曜日には塾が始まるわ。遊んでないで早く帰ってきなさい。課題が出来てなかったら、塾で一番取るまで夕ご飯は抜きだからね』


 相変わらずの母に、もう返事を送る力も残っていませんでした。


 今は何も考えたくない。


 そう思いながら目を閉じると、昨日は胸のドキドキで眠れなかった事もあり、あっという間に眠りに落ちてしまったのです。




 夢を見ました。

 この村の夢です。


 見慣れた道も木々も、遠くに見える山や森も、今とほとんど変わりがありません。

 しかし村にある家はどれも古く、全て木で作られたものばかりです。


 周りを見渡しながら歩いてみようとしますが、なぜか体が動きません。

 ここは私の夢なのに……と思っていると、突然場所が変わりました。


 次に見えたのは広い場所で、一面が平らな庭でした。

 また周りを見てみると、今度は体が動くのがわかりました。


 おそるおそる庭らしき場所を歩いてみます。

 手入れはされているようですが、人の気配はなく、少し離れたところに家が建っているくらいです。


 夢にしてはリアルだなと思いましたが、知らないところにいるはずなのに、あの家を知っている気がしたのです。


 ゆっくりと家の玄関らしき扉の前に立ちました。

 閉められていて中は見えませんが、曇りガラスが入っているので、それほど昔の建物ではないようです。


「すみませーん。誰かいませんかー」


 怖い気持ちで声をかけますが返事はありません。

 何度か声をかけてみましたが、誰もいないようでした。


 夢だとわかっているはずなのに、この場所にいる自分の方が異質だと、とっさに感じるほどの違和感。

 ここにいてはいけないと思うのですが、夢が覚める気配はありません。


 体は動くので庭のほうに戻ると、何もなかったはずの場所に花が植えられていました。

 ずっと昔に見た、森に咲く小さな花です。


 祖母が「いつの間にか咲いていたのよ」と言っていたそれは、何もなかった庭に色をつけ、周囲に植えられた小さな木を守るように咲いているのです。


 ーーあれも知っている。


 そう思ったら足が動いていました。

 花に駆け寄って中腰になると、咲いている花をよく見てみます。


 顔を上げてもう一度周囲を見回すと、ぼんやりとですが、知っている場所に似ている気がしました。

 もう一度だけ確認してみようと玄関に走りましたが、今度は開いていました。


 いつの間に、と考えることはせず、自然な気持ちで戸の内側に入ると、土間になっている場所を早足で抜け、奥にある靴の脱ぎ場へと行ったのです。


 外から見てわかってはいましたが、この家はとても大きくて広い家です。

 お店のような広い土間と、そこから続く広い部屋だけでも、小さな家であれば一階分にはなるでしょう。


 どんな人が住んでいるのだろうと普通は考えるのでしょうが、この時の私はもう知っていました。


 履いていた靴を脱いで家に上がれば、囲炉裏がある部屋に続いていて、両脇の襖も開いていました。

 広い部屋が左右に続いていましたが、私は迷わず開いていない正面の襖を開けます。


 今度は何もない広い部屋があって、また両脇の襖が開いていました。

 ここでも迷わず正面の襖を開けると、今度は子供が遊ぶおもちゃが転がる部屋があったのです。


 突然生活感のある場所が現れたので、思わず襖を閉めかけました。

 見てはいけない場所を見てしまったという気まずさがあったのですが、同時に、なぜ我が家で遠慮しなければならないのだと閉める手を止めたのです。


 部屋の中には誰もおらず、おもちゃは放り投げられたように散乱しているだけです。

 そしてまた両脇だけが開いた襖がありましたが、そこには目もくれず、閉め切られた正面の襖に近づきました。


 襖の向こうに人の気配を感じます。

 耳を近づけると、かすかにですが大勢の声が聞こえてきました。


 ゆっくりと襖に手をかけると、襖越しのざわめきが大きくなります。


 向こうにいる人は自分に気づいているのだろうか。


 そう考えながら、緊張で震える手に力を込めて、勢い良く襖を開けました。


 ーーしかし、中には誰もいませんでした。


 薄暗い部屋に人の気配はなく、あれほど騒がしかったのに、今は怖いほど静かです。

 他の部屋では開いていた襖が開いておらず、それどころか、部屋の中に知っているものが置かれていたのです。


 それは仏壇でした。


 家にあるのと同じくらい立派な……いえ、まったく同じデザインの仏壇が、部屋の右側に堂々と置かれていたのです。

 急に知っている場所に来てしまったという気持ちと、入ってはいけなかったのではないかという気持ちになりましたが、私は一歩だけ部屋の中に入ってみました。


 夢の中とはいえ、あまりにもリアルな畳の感触に驚きましたが、それでもここに入らなければいけないと思い、おそるおそる仏壇の前まで歩いて行ったのです。


 仏壇にはお線香があげられていて、誰かの写真も置かれています。

 怖い気持ちを抑えながら写真立ての写真を覗き込むと、そこでまた場所が変わってしまったのです。


 今度は川沿いの砂利道でした。

 母の言葉に耐えかねて逃げたあの場所です。


 知っている道ではありましたが、今よりずっと草木が多く、道もガタガタで、ところどころに大きな石が半分ほど埋まっています。

 今度はなんだろうと辺りを見回してみると、少し離れたところに人影を見つけました。


「あれは……」


 知っている人のような気がしましたが、それほど視力が良いわけではないため、ぼんやりとしかその人を確認できません。

 見た目はきちんとしているようなので、ここがどこなのかを聞こうと歩み寄っていくと、だんだんと姿がはっきりしてきました。


 白いワイシャツに黒のズボン。

 頭には昔の学生がよく被っていたという学生帽があり、そこで相手が男子学生だとわかったのです。


 まだ距離はありましたが、その姿には見覚えがありました。

 違う名前で、よく似た顔を持つ二人と同じ姿なのです。


 しかし、正太さんは帽子を被っていなかったので、あれは智さんのほうだろうと、なぜかそう思いました。

 どちらも似たような顔でしたが、写真で見た智さんは学生帽を被っていたので、だからそう思ったのかもしれません。


 智さんは川を見ながら立っているだけで、私には気づいていないようでしたが、これは夢なのだから何かあればすぐに覚めるだろうと考えて、声をかけるために近づいて行きました。


 ある程度近づいたところで気がつきました。

 彼の隣には小さな子供がいたのです。


 子供は少し髪が長く、ズボンを穿いてはいましたが、雰囲気から女の子だとわかりました。

 彼は女の子の手を握っているのか、女の子の片手が浮いているように見えます。


 よけいに話しかけづらくなったと思いましたが、このまま声をかけたほうが良いのか、それとも黙って夢から覚めるのを待ったほうがいいのか。

 どちらにすれば良いのかと悩んでいると、突然女の子が腕を振り上げたのです。


 距離が離れている上に、川の水音で何を話しているのかは聞こえませんが、どうやら女の子が彼に対して怒っているように見えます。

 彼はどうにか女の子をなだめようとしているのか、抵抗はせず、女の子に何かを言っているようでした。


 止めに入ったほうが良いのだろうか、と思いましたが、下手に第三者が口を出してもこじれそうだとも思いました。

 ゆっくり近づきながら二人の動向を見ていると、突然女の子が両手を突き出して、彼のお腹を押したのです。


 それからはあっという間で、彼はバランスを崩して川のほうに倒れて行きました。

 女の子は両手を突き出したまま動かず、私は届きもしないのに手を伸ばしましたが、彼は帽子を風に飛ばされながら川の中へと落ちて行きました。


 ちょうど深い場所に落ちた彼は、数秒の間沈んでいましたが、顔を出すと必死に泳ごうともがいています。

 しかし川までは木々で覆われた土手が続いていて、とてもじゃありませんが助けに行けそうにはありません。


 どこかの木に引っかかりはしないかと、流されていく彼を見ていましたが、運が悪いのか流れがそうなのか、土手近くまで彼が流れて行く事はありませんでした。


「ね、ねえ。あなた、お父さんかお母さんは近くにいないの? 近所の人でもいいから、誰か声をかけてきて!」


 出来る限り大きな声で、離れたところにいる女の子に声をかけました。

 遠くて聞こえないのか、それとも気が動転していて気がつかないのか、女の子は何の反応も示しません。


 彼の姿が川の中に何度も消えていくのを見て、慌てて女の子に駆け寄ります。

 周囲に田んぼはありましたが人影はなく、村までは距離があるため、人の声など届かないでしょう。


 子供二人で来ているのならば、どこかに大人がいるかもしれない。

 そう考えて女の子に駆け寄りましたが、彼女の顔を見た瞬間息が止まりました。


 女の子は笑っていたのです。

 それも、子供らしい無邪気な顔で、ではありません。


 まるで企みが成功したとでも言いたげな不気味な笑みで、彼女は沈んでいく彼をジッと見つめていたのでした。

 川の水音にかき消され、彼の叫びは私にも聞こえません。


 しかし、彼が何を言っているのかは嫌でもわかります。

 それを実現しようと私は動いたのですが、間違えて突き落としたと思っていた彼女は、その不気味な笑みから、これがわざとやったことだと教えてくれました。


 そしてそこで気がつきました。


 この子を知っている。


 そう思った瞬間、私は目を覚ましたのでした。




 嫌な汗が噴き出して、せっかくの涼しい夜が台無しになるほど体が濡れています。

 お昼ご飯も食べずに眠ってしまったのかと思い、時間を確認して驚きました。


 お昼どころか夕飯も食べ損ね、日付が変わってからもまだ眠っていたからです。

 空には月があり、あと少しで沈みそうな位置にあるため、今から寝直そうにも眠れません。


 祖母が起きる前に目が覚めてしまった私は、お風呂場に行って残り湯を汲むと、タオルを濡らして体を拭き始めました。

 お風呂に入ろうかと思いましたが、田舎の夜は私の住んでいるところよりもずっと涼しく、お湯もそれほどぬるくはなかったので入る気になれません。


 本当はしっかりと浸かって汗を流したかったのですが、機械でお湯を沸かせるとはいえ、それなりの音がするので、眠っている祖母を起こしそうで気が進みませんでした。


 とりあえず体を拭いて、頭から冷めたお湯をかぶると、少しだけ気持ちがよくなります。

 汗が流れてさっぱりしたからか、同時に夢の内容を思い出してしまいました。


 落ちた彼の顔はよく見えませんでしたが、服装から智さんに思えます。

 そして一緒にいたあの女の子は、祖母に見せてもらった写真に写っていた女の子とそっくりでした。


 不機嫌な顔でカメラを見ていたあの子。

 あれは……。


 その時です。

 いきなり玄関の方から物凄い音が鳴りました。


 最初は何の音なのかと思いましたが、服を着替えて近づいてみると、誰かが玄関を叩いている音だと気がついたのです。


 玄関に行くと、ガラス越しに人影が見えます。

 起きた時は午前三時を過ぎたばかりだったので、今はおそらく四時くらいでしょうが、こんな時間に誰だろうと考えていると、玄関の戸を叩いていた人が怒鳴りました。


「開けてよ! いるんでしょ!」


 その声を聞いて血の気が引きました。

 遠い町にいるはずの母の声だったからです。


 昨日の朝に話したばかりでしたが、戸の向こうから聞こえてくるのは間違いなく母親の声です。

 なんで、どうして、という言葉が頭に浮かびましたが、母は近所迷惑など考えていないのか、日が昇り始めた薄暗い時間帯に押し掛けてきて、めいっぱい実家の戸を叩き続けます。


 母の声に目を覚ました祖母が起きてくると、震える私の背中に触れてから、戸の向こうにいるであろう母に声をかけました。


正子まさこかい? こんな朝早くにどうしたの」


 すると戸を叩く音が止み、母が「いるんなら早く返事しなさいよ!」と怒鳴る声がしました。


「こんな朝早くに起きているほうが珍しいじゃないか。御近所さんに迷惑だから、とりあえず落ち着きなさい」


「落ち着けるわけないでしょ! それより早く入れてよ! ったく、これだからあんたは愚図なのよ!」


 怒りのままに戸を叩き始めた母は、痺れを切らしたのか戸を蹴り始めました。

 入れてくれないと思ったのか、戸を蹴破ろうとしているのです。


 これには祖母も驚いて鍵を開けようとしましたが、戸が揺れるのでうまく開けられません。


「早く開けて! ねえ! 開けろってば!」


 ヒステリックに叫んで戸を蹴る母に、近所の人も起こされたのか外がざわめいています。

 ようやく祖母が鍵を開けると、戸を開けて驚きました。

 いつも身なりを整えていた母が、ボロボロの姿で立っていたからです。


 乱れた髪と汚れた服。

 お気に入りだと聞いたことがあるその服装で、母は私を睨みつけているのです。


 どこかで転んだのだろうかと思いましたが、母は祖母を押しのけると、しっかりした足取りで私に近づいてきます。

 その姿をただ見ていると、頬に痛みを感じたのです。


 母に叩かれた。

 そうわかった時には、私は母に、もう一度殴られていました。


「あんた、私に何してくれてんのよ! 今までの仕返しでもしたつもり? おかげでお兄ちゃんは塾を追い出されるし、私も夫も近所から白い目で見られたんだからね! 何か言いなさいよ!」


 母は喚きますが、私には何の事だかわかりません。


「や、やめなさい。何をやってるの!」


 押しのけられて尻もちをついた祖母も、母の異常さに気がついたのでしょう。

 慌てて母の両肩をつかんで引き離そうとしますが、祖母の力ではどうにもできません。

 何かを察した近所の人が玄関先に来ると、騒ぎに気がついた母が玄関の外を睨みつけました。


「……何見てんのよ。あんた達もあたしを馬鹿にしてんの? ねえ、答えなさいよ!」


 私に拳を振り落としてそう言った母に、玄関先にいた人達は肩を跳ね上げます。


 これはおかしい。


 誰もがそう思いましたが、私も誰も、なぜ母がこんな状態になっているのかわからないのです。


 母に再び転ばされた祖母は、駆け寄った隣のおばさんに肩を支えられながら外に出ますが、広い玄関だとはいえ、私の肩をつかんだまま怒り狂う母を刺激できないと、誰も中に入ってはきません。

 どうにかして母を落ち着かせようとしてはいますが、その態度が癇に障るのか、母はますます怒りの形相を強めました。


「……お母さん」


 ポツリとつぶやくと、母は私を見ました。

 ボサボサの髪の間から見える目は恐ろしかったですが、見た目より服は汚れておらず、転んだようには見えなかったので怪我はないようです。

 しかしその顔は腫れていて、頬が特に腫れていることから、誰かに殴られたのではないかと考えました。


「もしかして、お父さんと喧嘩したの?」


 殴られるのを承知で聞きましたが、母は答えません。

 ならば父は関係ないのでしょう。


 私の肩をつかむ手に力はありませんが、視線はいつもより冷たく、いつ殴られてもおかしくはない状況です。

 それでも、こんな騒動に発展している原因が知りたいと思い、私はもう一度聞きました。


「もしかして、お兄ちゃんと何かあった……?」


 瞬間、私は軽く飛ばされました。

 母の拳が頭の横に入り、私は玄関の床に倒れたのです。


 それを見た祖母が悲鳴を上げましたが、私は黙って起き上がりました。

 母はゆっくりと私に近づくと、お風呂上がりで濡れたままの髪をつかみ、持ち上げたのです。


「……お兄ちゃんね、塾のテストで悪い点数をとったの。今まで一度もなかったのに」


「え……」


「お父さんも私もね、それはそれは心配したのよ。だって、今まで一度もなかったんだもの。だから聞いたの。どうしたのって。そしたらね……」


 ゆっくりと合わさる視線が恐ろしく感じられ、私は知らずに唇を震わせていました。

 歯がカタカタと鳴る音が聞こえ、そこでようやく私は恐怖の正体を知ったのです。


「あなたがいるから、お兄ちゃんは成績を落としたんだって。そう言ったのよ」


 母の目は私を映していますが、その視線にあたたかさは一切ありませんでした。


 兄が私のせいだと言った。

 しかもそれは、成績を一度だけ落としたからだというのだ。


 祖母にもおばさんにも聞こえていたのか、二人は私と母を見比べてポカンとしています。

 しかし母だけは真剣で、私の髪をつかむ手をユラユラと動かしては、思い出すように話し始めました。


「……昨日ね、塾でテストがあったのよ。お兄ちゃんは自信満々に解いたんだって。そしたらね、テストで八十点しかとれなかったって言うの。先生にも聞いたけど、間違いは間違いだって言われたらしくてね。お兄ちゃん、怒っちゃったのよ」


 髪が引っ張られて痛かったのですが、母の手は止まりません。

 それどころか揺さぶる手をさらに強め、私の髪が数本抜ける感覚がありました。


「先生のこと殴っちゃったから、家に警察が来てね。警察に連れて行かれたお兄ちゃんが暴れてて、それで聞いたのよ。どうしてそんな事をしたのって。そしたらね、妹が悪いんだって言ったのよ」


 だんだんと母の声に力が篭もってきました。

 髪をつかむ手にも力が篭もり、髪が抜けて痛む頭を押さえるように、私は母の手を上から押さえます。

 しかし、私の抵抗に気づかないのか、それとも気にしていないのか、相当な力で押さえているにも関わらず、母は話を続けました。


「妹の出来が悪いから、僕にもそれが移ったんだって。だから悪い点をとってしまったんだって、そう言ったのよ。だから私はお兄ちゃんに約束したの」


 母の顔が私に近づきます。

 血走った目と振り乱した髪が目の前に現れ、私は息を飲みました。


「だったら、妹を消してくるわってね」


 母はスカートのポケットに手を入れると、ゆっくりと何かを取り出しました。

 パチリという音で姿を見せた銀色の何かに、私も祖母も息が止まる気がしたのです。


 母が持っていたのは折りたたみ式のナイフで、それは父のコレクションの一つでした。


 父は昔サバイバルゲームが好きだったらしく、書斎にかつてのコレクションを置いているのを見たことがあります。

 特にナイフ系は大のお気に入りで、大きな物から折りたたみ式のものまで種類があり、兄にいろいろと教えていた事を思い出しました。


 殺される!


 そう思うのに時間はいらず、とっさに母の胸を押しました。

 いきなりの事で母も対応が遅れ、私の髪をつかんだまま後ろに倒れます。


 腰から転んだ母が痛みでうめく間、私は必死になってつかまれた髪を母の手から引っ張って抜くと、何本もの髪が母の手に残ったのを見ながら玄関の出入り口に向かって走りました。

 見ていた人達によって、引っ張られて外に出されると、ようやく息ができた気がしました。


 何度も深呼吸をして、太陽があと少しで見えるという空を見上げた時、後ろから悲鳴が聞こえたのです。

 それは近所に住むおじさんのもので、彼は手のひらから血を流していました。


 どうやら母がナイフを振り回した時に切られたらしく、取り押さえようとした男の人達はみんな固まっています。

 母はナイフを振り回しながら外に出ると、私を見つけて叫んだのです。


「殺してやる!」


 見た事のない母の形相に驚いた私は、慌てて戸口から飛び出しました。

 道には何人かの村人がいて、私を見て驚いた顔をしています。


 後ろから「待てえ!」と母が追ってくる音が聞こえ、脇目もふらず走りました。


 村にいてはみんなに迷惑をかける。


 ここにいちゃダメだ。


 そんな考えが頭をよぎり、ただただ走ったのです。


 走って走って息が上がり始めた頃、気がつけばあの川沿いの道に来ていました。

 夢と違って砂地になった道は歩きやすく、土手には大きな木もありません。


 夢だと思うほど似ている光景に足を止めると、道の向こうから走ってくる智さんーーいいえ、正太さんを見つけたのです。


 必死になってこちらに走ってくる彼に安心したのか、私は急に足が動かなくなりました。

 昨日のように裸足で駆けてきたのが悪かったのか、昨日の傷口が開いた上に、また怪我をしたらしく、足の裏がひどく痛みます。

 正太さんが近づいてくる姿を見ながら私が微笑もうとした時、背後から母の低い声が聞こえました。


「見つけたわ……」


 後ろを振り向くと、十メートルしか離れていない距離に母が立っていました。

 履いていたヒールはどこかで脱げたのか、足元が破れたストッキングでここまで走ってきた母は、家で見た時よりもずっと恐ろしい姿になっていました。


「あんたがいるからよ。あんたがいるからお兄ちゃんはおかしくなったのよ。だから私は嫌だったのに……出来の悪い子は悪い子にしかなれないんだから……なのにあの人がもう一人欲しいって言うから……だから産んであげたのに……」


 ゆっくりと歩きながら、ブツブツと呟き出した母。

 その姿は明らかに異常で、私は初めて母に恐怖を覚えました。


 痛む足を引きずるように距離を取りますが、母は痛みなど感じていないようで、私よりも速く歩いてきます。

 道の向こうから走ってくる正太さんとの距離も縮まっていますが、それでも母の方が近いのです。


 左には田んぼ、右には急な土手の下にある川、背後には恐ろしい母。

 逃げ道が限られた状況で、それでも正太さんに近づこうと歩き出しますが間に合いません。

 あっという間に距離を縮めた母は、私の服を引っ張って転ばせると、血走った目で叫びました。


「あんたなんか、あんたなんかいなくなればいいのよーー!」


 振り上げられたナイフが太陽にきらめき、私に向かって下りてきます。

 ああ、もうダメだ、と思い目を閉じると、ふとあの夢の出来事を思い出したのです。


 突き落とされた男の子と、突き落としたと思われる母によく似た女の子。

 そこで私は、ある恐ろしい想像が浮かびました。


 瞬間、私は誰かに突き飛ばされました。

 思わず目を開けると、追いついた正太さんは私に手を伸ばし、私は宙に投げ出されていました。

 正太さんの背中には振り下ろされたナイフが見え、あと数センチで刺されるところです。


「危ない!」


 自分の状況を忘れてそう叫ぶと、彼は優しく笑いました。


「大丈夫。俺が守るからーー」


 落ちていく体と遠ざかっていく彼。

 振り下ろされたナイフが彼の背中に刺さったのを見て、私は川の中へと落ちたのです。


 上から見ているとそうでもないように思えましたが、落ちてみてその危険さがよくわかりました。

 体にまとわりつく冷たい水をかき分けて、どうにか水面に顔を出しましたが、重く速い流れに自由を奪われて、また沈んでいくのです。


 何度も何度もそれを繰り返し、どうにかバランスをとって目を開けると、土手の上にいる二人を見ようと顔を上げました。

 しかし、そこにいたのは小さな女の子です。


 一人きりで土手の上に立つ彼女は、両手を突き出した状態で私を見下ろしています。

 太陽の光が強すぎて顔はよく見えませんが、小学生くらいの彼女は、たしかに私を見下ろしているのです。


 この光景は見たことがある。


 私はあの土手の上にいて、そして彼が突き落とされるのを見たんだ。


 あの夢を思い出した私は、どうにか助けを呼ぼうと口を開けます。

 しかし水が入るだけで、声を出せば出すほど体が沈んでいくので、しだいに叫ぶ力も無くなっていきました。


 溺れ出した自分に焦りを覚え、土手の上に立つ彼女に手をあげて知らせようとしますが、彼女はいつの間にか突き出していた両手を下ろして、静かに私を見ていました。

 私に気がついているのは明らかですが、何もしない様子から、私はそこではっきりと気づいてしまったのです。


 私は彼女に殺される。


 それは確かなことでした。


 泳ぐ力がなくなって沈み始めると、彼女は土手沿いに下流へと歩いて行きます。

 その様子を流されながら見ていましたが、彼女は何も言わず、私の方を見ようともしません。

 途中で誰かが見えたので、最後の力を振り絞って声を上げますが、女の子はその人に声をかけると話し始め、まるで私の存在を気づかせないようにしているようでした。


 その姿から理解しました。


 彼女は私を……いえ、智さんを殺そうとしているのだと。


 そのまま流れに呑まれた私は、口に入ってくる水に抵抗できないまま、意識を失ったのでした。




 気がついたのはベッドの上でした。

 真っ白い天井に消毒液の匂いがして、ゆっくりと首を動かしてみると、驚いた顔のナース服を着た女性と目が合ったのです。

 彼女は数秒だけ驚いて固まっていましたが、気がつくとすぐにナースコールを押して、私が意識を取り戻したと誰かに伝えたのです。


 それからは質問の嵐で、担当医だという先生と数人のナース、そしてその後には警察の人まで現れて、次々と私に質問してきました。


『具合はどう?』


『川に落ちた時に何か見た?』


『この人が誰か知ってる?』


 矢継ぎ早に聞かれて混乱していましたが、冷静なナースが一人いて、その人が間に入ってくれたことでどうにか乗り切ることができました。

 冷静なナースは高橋さんといい、十年以上の経験を持つベテランだと茶目っ気を交えて説明してくれて、大騒ぎしていたみんなに変わって、あれからの事を少しだけ教えてくれました。




 母が私を殺しにきた前日、兄は塾のテストで八十点台をとりました。

 その日のテストは特に難しく、応用問題が多かったテストだったので、平均で六十点台だったというのですが、いつも満点を取っていた兄は納得できなかったのでしょう。


 採点をした塾の講師に文句を言ったところ、いつもと同じ勉強ばかりしていては成績が伸びないという話をされ、最近勉強がうまくいっていなかった兄は切れてしまったのだといいます。

 勉強だけが取り柄で、勉強ができない人を馬鹿にしていた兄にとって、テストの結果は信じられないものだったのでしょうが、だからといって暴力が許されるわけではありません。


 案の定警察に捕まった兄は、両親に切れただけだと正直に原因を説明できるわけもなく、苦し紛れに私のせいだと言ったのだそうです。

 両親が私を嫌っている事を知っていた兄は、普段から見下している私を鬱陶しく思っていた事もあり、逃げるように遊びに出かける私を懲らしめてやろうと考えたようで、私がいるからテストの成績が悪かったなどという嘘を思いついたのだそうです。


 父は少し疑ったようですが、兄を溺愛していた母はそれを鵜呑みにし、父の書斎から折りたたみ式のナイフを持ち出すと、タクシーで実家まで来て私を襲ったのだと言っていたそうなのです。

 母の頬にあった腫れは、ナイフを持ち出す際に父親と口論になり、止めようとした父が殴ったものでした。


 母は玄関先で暴れ、止めに入った男性数人を切りつけた後、私を追いかけて川まで走り、そこで私を殺そうとしました。

 しかし、急に現れた男の子に邪魔されてしまい、私を庇ったその子を殺そうとしましたが、その男の子の顔を見た母は狂ったように叫んだといいます。


 母を追いかけてきた人の話だと、ナイフで刺されそうになった私を川に突き飛ばした男の子がいて、母はその子の背中にナイフを突き立てました。

 その後で、男の子の顔を見た母は急に叫びだし、それからはずっと何かに怯えているそうなのです。


 私は落ちてから数時間後に下流で発見され、流されている最中に岩にでもぶつけたのか、片足を骨折していました。

 命に別状はありませんでしたが、話はそれだけで終わらなかったのです。


『この人に見覚えはありませんか?』


 警察が見せたのは手描きの似顔絵で、そこに描かれていたのは正太さんーーいえ、智さんの方でした。

 はっきり似ていると判断できるような絵ではありませんでしたが、とりあえず知っていますと答えると、どんな人で、どこで知り合ったのかを詳しく聞かれたのです。


 話せるだけの事は話しましたが、実は正太さんの姿を見た人は祖母と私以外にいなくて、さらにはとんでもない事実が判明したというのです。




 祖母の家から一番近い大きな病院に入院した私には、村の人から様々な差し入れが届きます。

 その中にあったいくつもの新聞社で発行されていた過去の新聞には、私達に関する事件が大きく掲載されていました。


“静かな田舎で見つかった過去の骨。犯人は被害者の親戚か?”


 一番有名な新聞に掲載されていた殺害未遂事件は、そんな見出しから始まっていました。

 兄の成績に納得がいかない教育ママの暴走だとか、妹を蔑ろにしていた虐待家族だとか、週刊誌などでもいろいろと叩かれているようなのですが、この新聞には、余計な感情が入っていない事件の詳細が載っていました。

 



 ーー今から三十年以上も前。

 私の母がまだ小学生の頃にまで遡るその事件は、黙って村を出た少年の話から始まります。


 少年の名前は智といい、誰よりも頭が良く、人思いの優しい人だったそうです。

 彼には年の近い姪がいて、その姪は愛想が悪く、母親を亡くし父親にも捨てられた子供として、村中から噂されていたそうです。


 智はそんな姪でも可愛く思い、時間があれば構っていました。

 いずれは村を出て、良い学校に行くか就職するだろうと噂されるほど出来の良かった彼は、それでも姪を可愛がり続けたそうなのです。


 智は成長し、中学校を卒業する頃に村を出ていく事を周りに伝えていました。

 荷物も既にまとめていて、卒業してしばらく経った頃に、『俺は近いうちに村を出ていく』と言っていたそうで、みんなが彼の独り立ちを応援していました。


 そんなある日、智は突然いなくなりました。

 最後に彼を見たという姪の話によると、見送られるのが恥ずかしいから黙って出ていくとだけ伝え、一番可愛がっていた彼女にだけは川沿いの道まで見送りを頼み、それから出て行ってしまったのだそうです。


 川沿いで彼女に会ったおじさんに、たしかに女の子がいたと証言された事で姪は信用され、以来、智の姿を見た人は誰もいません。

 連絡一つ寄越さない彼を怒る人もいましたが、連絡を寄越さないほど幸せなのだろうという人もいて、結婚して子供が生まれれば挨拶に戻ってくるだろうと、みんなは今か今かと待っていました。


 しかし、その日は結局訪れなかったのです。

 私が母に追いかけられて川に落ちた後、村中の人と警察の人が懸命に捜索してくれた結果、私は無事に保護されました。


 しかし私を見つけた時、私の姿を見た人は全員悲鳴を上げたそうです。

 下流で腰から下が水に浸かった状態で発見された私ですが、その体には抱きつくように白骨死体が覆いかぶさっていたそうなのですから。


 現場はパニックになりましたが、どうにか白骨は外されて私は病院へ行き、骨は警察が持って行きました。

 調べた結果、白骨死体は十代後半の男性で、死後数十年は経っているとわかり、怯える母に尋ねたところ、過去の事件が判明したというわけなのです。


 母は叔父である智さんにコンプレックスを抱いていて、ずっと彼を嫌っていました。

 村を出ていくという話を聞いた母は、用事があるからついてきて欲しいと頼み、智さんを川沿いに連れ出すと、これまでの本音をあらかた話して突き飛ばしたそうなのです。

 すぐに溺れると思っていたそうですが、智さんはなかなか沈まず、川沿いの道を歩いてきた男性に声をかけて誤魔化しつつ、自分のアリバイを作ったというわけなのでした。


 当時の母にしてみれば、それほど計画を練ってはいなかった事でしょう。

 小学生の頭脳で出来る事など限られていますし、ただ運が良かっただけなのかもしれません。


 母の企み通り、智さんは黙って村を出て行った事になり、子供が少なくなった村で、母は誰とも比べられる事なく大人になりました。

 そして夢だった高学歴の相手を見つけ、結婚し、父親に似た優秀な息子を産んだのです。


 しかしそこで誤算がありました。

 夫はもう一人子供が欲しいと言ったのです。


 母は優秀な息子がいれば十分でしたが、夫は納得せず、もう一人を望みました。

 そして私を身篭もり、母は私を産んだのですが、母とそっくりな顔で生まれた私は、かつての母のように育っていったのです。


 無愛想で勉強がそれほど出来ず、いつも叔父と比べられていた自分に似ていく娘に、母はますます兄を可愛がるようになりました。

 兄は母の理想通りに成長していき、あと少しで有名大学に合格できるという時に暴力事件を起こしたのです。


 とうとう母の夢は実現できなくなり、それなのに、かつての自分によく似た娘は普通に生活している。

 しかも大嫌いな実家にいるのですから、母の妄想は過激になりました。


 娘が悪い。


 娘がいるからだ。


 そんな考えが暴走した結果、兄の嘘と重なって何かが壊れてしまったのでしょう。

 自身も息子と同じく、殺人未遂の現行犯で捕まってしまったのです。



 

 この時に知ったのですが、兄は暴行事件ではなく殺人未遂事件として罪に問われる事が決まっていました。

 講師への暴力があまりにもひどく、あと少し遅ければ死なせていたかもしれないと判断されたからだそうで、その事を母が知ったのはタクシーに乗り込む直前だったそうです。

 警察からの電話でその事を知り、息子の人生はもう終わりだとでも思ったのでしょうが、結局は母も同じ形で自分の人生を狂わせてしまったのですからどうしようもありません。


 足を捻挫した祖母と再会した時に、母の様子を聞きましたが、面会は出来るもののまとな会話はできないと言われました。

 母に切りつけられた人達の怪我は浅かったそうで、私が目を覚ます前に仕事に戻ったと言われましたが、彼らの元に父が謝罪に行く事はついにありませんでした。


 父は私のところに一度も顔を出しませんでしたし、母の裁判が始まる前に離婚届を提出したらしく、私の気持ちが落ち着いた頃にはもう父親では無くなっていたのです。

 どうやら父には好きな人がいるらしく、お見舞いに来てくれた母の友人だという人の話から、離婚してすぐ、その人と再婚したらしいと教えてもらいました。


 教えるかどうか迷っていたと言われましたが、不思議と嫌だという気持ちはなく、むしろ縁が切れてホッとしたくらいです。

 それから父とは完全に縁が切れ、きっともう二度と会う事はないでしょう。


 退院後、私は一度だけ祖母の家に行きました。

 町にある私の家に戻れず、他に頼れる親戚もいませんでしたが、祖母に甘えるつもりはありませんでした。


 昔から私の家族が迷惑をかけて、しかも今回は怪我人まで出してしまったのです。

 村人達にも顔向けできないと説明しましたが、それでも祖母は私を引き止めてくれました。


 数日の滞在で終わらせるつもりでしたが、祖母の涙を見ると離れがたく、そのまま一週間以上はいたと思います。

 それから少ない荷物をまとめて、家族の分まで村人全員に謝罪をし終えると、迎えに来てくれた人と一緒に村を出たのでした。


 村を出る時、いつもなら山側を通ります。

 そちらの方が舗装された道があり、車も通行しやすいのですが、この日だけは川沿いの道を通ってもらいました。


 祖母に別れを告げ、見送ってくれた村人達に頭を下げながら向かうのは、犯罪加害者家族の一時避難所です。

 風潮から、被害者の家族であれば同情されるのに、加害者側の家族は攻撃対象にされてしまいやすいため、身を守るための一時的な措置だと警察から説明されました。


 避難所といっても、どこかの施設に行くのではなく、警察官の家族や関係者の家に匿ってもらうもので、行き先は到着するまで教えられません。


 車を運転している人は加害者家族の保護団体を名乗る組織の一人で、どこからどう見ても普通の女性でした。

 彼女と一緒に長い時間をかけて移動するのですが、村を出ると顔を見られないようにずっと頭を下げていなければならないため、私は後部座席に座りながら最後のわがままを口にしたのです。


『村を出る時に、川沿いの道をゆっくり走ってください』


 女性は例の白骨死体の事を知っているので、複雑な表情を見せましたが、私の真剣さが届いたのかうなずいてくれました。


 村を離れて川沿いの道に入ると、約束通り車はゆっくりと走り始めました。


 川は以前と変わらない様子ですが、流れは相変わらず速いのでしょう。

 激しい水音が聞こえ、落ちた時の感覚が蘇ってきました。


 女性は運転しながら私を気遣ってくれますが、それでも私は川から視線を逸らしませんでした。


 ここで智さんは亡くなったんだーー。


 そう考えると、全てが繋がった気がしたのです。


 似た顔を持つ二人は、実は一人で、私の前に現れた正太さんは、すでに亡くなっていた智さんだったのだと思います。


 母に似た私を見つけたから復讐に来たのか、それとも昔可愛がってくれていた祖母に会いにきたのか、どんな理由であれ、彼は私の前に現れました。

 そして祖母にも姿を見せた事で、生きていると思われていた智さんの孫だと思われたのでしょう。


 あれから警察は智さんの事を調べましたが、どこにも生きていたという記録は残っていませんでした。

 彼の就職先だった会社はすでに倒産していて、彼らしき戸籍の人も誰一人見つからなかったそうなのです。


 母の証言から、推測を踏まえた上で出した結論が、智さんは母によって川に突き落とされた後に溺死し、何らかの理由で川のどこかに沈んでいて、白骨化して時間が経った頃、川に落ちた私が偶然、彼の遺体と一緒に下流まで流されたのではないかというものでした。


 この事件は、教育ママの殺人未遂と同じくらいの衝撃で世間に広まり、忘れ去られかけた過去の殺人事件として、たくさんの新聞の一面に載ったりもしました。


 しかし、なぜ三十年以上も昔に川に落ちた彼の遺体が、今になって見つかったのか。

 それもほとんど完璧な白骨死体として、私に抱きついていたのか。


 それについては誰もわかりませんでした。


 一部では、智さんが私を川に引きずり込もうとしただとか、自分の死体を見つけてほしかったからだとかと騒がれましたが、その骨は今、祖母の手によって実家の墓に入れられ、家族と共に眠っています。


 彼の事を思い出すと、今でも胸がドキドキします。

 母の叔父である彼に、私は恋をしたのかもしれません。


 川沿いを走る車は徐々にスピードを上げ、あっという間に川の横を通り過ぎて行きました。

 振り返ってみても、もう見えない川は、音すらも遠くになってしまっています。


 窓を開けて顔を出すと女性に叱られましたが、これが最後だからと話を無視して川の方を見ました。

 すると車が通ってきた道の向こうに、人影が見えたのです。


 目を凝らしてみると、それは白と黒の服を着た男の子だとわかりました。

 彼は手をあげるとゆっくりを左右に振り、遠ざかっていく車を見送っているように見えます。


 私も手を上げて振り返すと、彼は少しだけ手を振るリズムを崩しましたが、それからずっと、姿が見えなくなるまで手を振ってくれていました。

 彼が見えなくなってからも手を振り続けた私は、遠ざかる彼の姿に涙が出てきました。


 人がいる場所まで手を振り続けた私は、さすがに女性に怒られ、後部座席で横になるとゆっくりと目を閉じます。


 小さい頃から私を受け入れてくれた村の景色や村人達の笑顔。


 亡き祖父が見せていた優しい笑み。


 そして祖母が最後に見せた泣き顔。


 そのどれもが二度と会えないものばかりです。


 最後まで私を気遣ってくれた優しい人達に、私は涙が止まりませんでした。

 次々と溢れてくる涙を拭わずに流しながら、運転を続ける女性の後ろ姿を見上げるだけで、もう二度と昔の自分には戻れないのだと理解したのです。


 誰にも言えない初恋を思い出に、私は全てに別れを告げました。



 

「ーーこうして女の子は、誰も自分を知らない場所に引っ越すと、たくさんの人に助けてもらいながら幸せに暮らしましたとさ」


 布団を叩く手を止めて顔を覗き込むと、いつの間にか娘は眠っていました。

 もう小学生になるのに、珍しく愚図った娘に話をねだられ、懐かしい思い出話を聞かせたのですが、途中で眠くなってしまったのか、私が離れても起きる気配はありませんでした。


「……まったく、いつまで経っても赤ちゃんみたいねえ」


 特別に甘えん坊というわけではないのですが、こうしてたまに甘えたがる癖があるため、そんなところも可愛いと思ってしまうのは母親だからでしょうか。

 娘の部屋を出てリビングに戻ると、夫がコーヒーを片手に新聞を読んでいるところでした。


「もう寝たのか?」


「ええ、やっとね」


 私の分を受け取って飲むと、夫は娘の駄々っ子状態を思い出したのか笑います。

 私も釣られて笑いますが、夫は私に視線を向けて手を握ってきました。


「……今日ね、あの子に昔話をしたの。もちろん私の話だって事は伏せて、とある女の子の話だって言ってからね」


「そっか。それでどうだった?」


「もちろん、途中で眠っちゃったわ。念のために最後まで話したけれど、あの子には難しかったみたいよ」


 夫の手を握り返すと、彼は優しい笑みを浮かべて「そうか」と呟きました。


 娘に話しながら思い出した、かつての故郷。

 私が保護されいる間に祖母は亡くなり、母の実家は取り壊されたと聞きました。


 兄は裁判中に自殺を図り、そのまま精神病院へ入院。

 母は裁判前の検査で精神面に問題があると診断され、そのまま病院へ連れて行かれたといいます。


 現在でも二人は入院患者ですが、良くなったと判断されればすぐに裁判が始まるそうです。

 それがいつになるのか、一生始まらないのかは誰にもわかりません。

 法律などによって二人は裁かれないままですが、だからといって罪が消えたわけではないので、二人がきちんと罪を償わない限り、私も加害者の家族として動けないままなのです。


 あれから時間が流れ、私は引っ越し先で友達を作り、同じ土地で就職して夫と出会いました。

 結婚して娘が生まれましたが、今では忘れ去られようとしているあの事件は、いつニュースに取り上げられるかわからない状況です。


 たまに連絡される二人の容態は、少しずつですが回復してきているといいます。

 医師達の判断で、もう入院は必要ないと判断されると、これまで止まっていた裁判が始まってしまうのです。


 夫は知っている事ですが、娘は私の過去も、私の家族の事も知りません。

 いつ何があっても良いようにと、いつかは話そうと思っていますが、なかなか決心がつきませんでした。


 今日こそはと寝る前のお話で聞かせましたが、ほとんど覚えてはいないでしょう。

 夫は私を気遣ってくれますが、今でも不安で仕方がありません。


 私は夫の肩に頭を置いて呟きます。


「あの子と離れたくないな……」


 夫は私の頭に手を当てて、優しい笑みで答えました。


「あの子なら大丈夫だよ。君に似た強い子だ。君の過去を知ったって、時間が経てば受け入れてくれるさ」


「ふふ。そこは“すぐに”じゃないのね」


 夫らしい慰め方に笑うと、彼は私の顔を覗き込んで言いました。


「大丈夫。俺が守るから」


「……ありがとう」


 涙を浮かべて彼に抱きつくと、彼も背中に腕を回して抱きしめてくれました。


 思い出すのは川沿いの道で突き落とされた記憶。

 大好きだった彼が私を助けてくれた、暖かくて優しい記憶です。


 夫の背中をつかみながら、私は心の中で彼に言いました。


『さようなら、私の初恋。叶わない恋だったけれど、せめてお友達でいる事だけは許してね』


 あの車の中で、保護活動団体の女性の背中を見ながら思った言葉を思い出しながら、私は夫から離れて微笑みました。

 夫も優しく微笑むと、私の頬に手を当てたので、その手に頬ずりをします。


 今でも思い出す初恋の彼。


 友達として別れたあの日から、私は今でも恋をしています。


 目を開けると、夫は不安げな目をして私を見ていたので、もう一度背中に手を回して抱きしめました。


「君は昔から変わらないね。甘え癖は誰に似たんだろうね」


「そうかしら。あなたも変わらないわよ」


 二人で笑い合いながら温もりを感じ合うと、彼は呟きました。


「君と出逢えて良かったよ」


 私も彼に呟きます。


「私もよ。出逢ってくれてありがとう」


 結婚して子供が生まれて、今まで私を支えてきてくれた夫。

 彼の広い背中を撫でると、ある部分に出っ張りと窪みを感じます。


 そこを中心に撫でていると、彼はすねた声で「またやってる。そんなに気に入ってるの?」と聞くので、私は「撫でやすいからよ」と答えます。

 お互いの体温を感じながら、夫は私を強く抱きしめました。


「ーー生きていてくれてありがとう」


 その言葉に涙が出そうになります。


 彼と出会うまで、私はずっと一人で戦ってきました。

 友達にすら本当のことを話せない中で、彼だけは私を受け入れてくれたのです。


 本当の自分を唯一知っている彼は、私を抱きしめながら何度でも無事を確かめるので、私はいつもこう答えます。

 そして、心から微笑むのです。


「私こそ、助けてくれてありがとう……さとしーー」




 私達の本当の名前はお互いしか知りません。

 “友達”はいなくなってしまいましたが、それ以上に大切な“彼”を手に入れられたので、私はもう過去に戻るつもりもないのです。


 兄と母の精神状態が安定するまでの平穏ですが、それでも私は構いません。

 大切な家族といられれば、私はもうじゅうぶんなのですから。

 

 失ってしまった大事な“友達”。

 けれど、彼は私のところに戻ってきてくれました。


 もう“友達”はいませんが、私には大切な“夫”がいます。


 私は今も恋をしています。

 記憶の中の“彼”と、今目の前にいる“彼”に。


 だからさようなら、もう逢えない“人”ーー。




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もう逢えない人 逢雲千生 @houn_itsuki

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