さよならからはじまる物語

羽九入 燈

第1話 さよなら1

 河井鈴奈かわいれいなは寝不足だった。まあ、あんなことを知ってしまったあとなのだから当たり前だ。

 鈴奈は今年で二十五歳の既婚者だ。三年前にある男と夫婦となったのだ。

 その男の名前は、晴信。日本に同じ名前の人はどのくらいいるかわからないけれど、いなくはない、程度の名前を持ち、背も高く、太ってなくそれでいて細くもない普通な身体。仕事にもきちんと就いていて先月はプロジェクトの発案をし、その中心で作業したとか。

 鈴奈自身、こう言うのもあれだけれど、仲の良い夫婦だったように思う。喧嘩は一切した記憶がないし、生活も苦しくない。至って普通な暮らしをしているけれど、晴信といれて良かったと心の底から思うほどだ。

 ──まあそれは、つい最近に壊れてしまったのだけれど。

 晴信に不倫疑惑が挙がったのだ。

 はじめは本気にはしていなかった。頻繁に女性から電話やらメールやらが来ていたけれど、別に鈴奈以外の女性と話したところですぐに不倫なんて疑うわけがない。それはいいのだけれど、流石にこれは少しばかり疑う余地があった。真っ白なYシャツに口紅が付いていたのだ。会社の同僚のものかもしれないし、意図してこうなったのではないかもしれないけれど、それを見つけたのは一回や二回ではない。数えるのをやめてしまったくらいだ。そこでもう不倫ではないかと彼女は確信した。自分で稼いだお金で探偵に依頼をした。やはりこういうときは探偵を使わなければならない。なんかもう、探偵=不倫調査みたいなところがある。そして現在、依頼した不倫調査の結果資料が手に握られていた。

 リビングは電気をつけていないため真っ暗で、明かりと言えばカーテンの隙間からほんの少しどけ覗く外の光しかない。

 夫である晴信は家にいない。昨日、仕事が終わらないから会社に泊まると言っていたけれど、果たして本当だとは限らない。

 ばさり、と鈴奈は紙の束をテーブルに投げ置く。

 書かれているのは、不倫だろうということとその決定的な証拠だのなんだのと文字。クリップで紙と一緒になっている証拠写真を一瞥して、目を閉じた。

 もう何も考えまい。考えたところで不倫であるという事実は変わらないからだ。

 ああ、いや、考えなければならないことはある。今後のことだ。

 知ってしまった以上、今までのようには暮らせないし、晴信自身私とはいたくはないだろう。

 鈴奈はそんなことを思いながら、さて、どうしたものかと思考をフル回転させる。フル回転させる必要もなく答えは決まっているのだけれど。

 つつーと目線を紙の束の右横に置かれた一枚の紙に合わせた。

 離婚届だ。

 既に鈴奈の名前は書いてあった。これを晴信が書いて出させに行かせればいい。

 不倫なんてしているんだ。離婚したいと言えば断固拒否などするわけがない。

 この国は一夫一妻制だ。しかし、法律で決まっているからダメだという問題ではない。自分の他にも好きな人がいる、どちらも愛しているという状況でそれを打ち明けてくれればまだいい。けれど、何も言わないというのは余計にダメだ。それは鈴奈の意見なので他はどう思っているのかは知らない。異世界アニメなどは一夫多妻制設定でハーレムを作っている主人公がいるけれど、まさにそれだ。

 そんな都合よくは行かないのが現実なのだけれど。

 色々考えていたら、頭が痛くなってきた。

 家、どこに住もう。この家からは出ていかなければならない。向こうから出ていくとは限らないし、鈴奈はもう晴信と話したくはなかったからだ。

 鈴奈の心からは既に晴信へと愛は消えている。

 ならばあとは、出ていくのみ。

 とは言ってもすぐに住むところが見つかるのか・・・・・・。

 この家はマンションだ。一軒家ではなかったのが幸いだ。流石に一軒家から出ていくのは何か嫌なのだ。勿体なさからくるのかはわからないけれど、マンションなら一人で住むのには困らない。ああ、不倫相手がいるか。

 いつ出ていくかも考えなくてはならないけれど、住居を見つけない限り出ていくことはできない。

 実家? いいや、そんな場所なんてもうない。

 両親は鈴奈が高校生のときに亡くなった。親戚も何故か結構な人が亡くなっている。同年代の再従姉妹はとこは健在だけれど近くには住んでいない。連絡先も知らない。

 そんなことを考え、溜息を吐く。

 ──こんなはずじゃなかったのになぁ。

 結婚すると決めた時はずっここのままの幸せな家庭でいると思っていた。そうなると決めつけていた。けれどやはり、現実とはそう甘くないもの。

 相手を間違えたのか、どこかで道を踏み外したのか。わからないことだらけだけれど、今は〝しょうがない〟なの一言で片付けられる。

 心が強いのだろう。こんなことが起きたならもっと落ち込んでいてもいいのに、彼女はどこか楽しそうにしていた。彼女自身そんなことは思っていない。自覚がないのだ。

 ──うんざりだなぁ。

 いい加減うんざりである。

 そろそろ別れたいとは思ってはいるけれど、一人でははどうしようもないとわかっているからなかなか切り出せない。

 覚悟しなければならない。

 ──と。

 自宅の受話器が鳴り響いた。静まり返った家に音が響いて何か耳障りな音だなと彼女は思った。

 多分、晴信だろう。気は乗らないけれど、出ないと携帯電話にもかかってくるだろうし、それも出ないと何を言われるかわからない。これまで暴力的なことは一切なかったけれど、人の心はころころと変わるもの。これが原因で暴力や罵倒をする可能性もなくはないのだ。

 ソファーから立ち上り、受話器の前へ向かう。電話に出ると、疲れたような声が聞こえてきた。

「・・・・・・ああ、僕だ、晴信だ。今日も家に帰れなくなったよ」

 そうだろうと思った。

 鈴奈は大丈夫かと訊いた。

「正直に言うと、大丈夫じゃないよ。・・・・・・同僚が事故に遭ったらしくてね、その分の仕事もやらなきゃいけなくなったんだ。流石に全部じゃないけど、自分の仕事もあるし、しかも大量に」

 だから帰れない、と晴信は言った。

 これだけを聞けば、何もおかしいところはない。今日は本当に仕事で帰れないのかもしれないけれど、そんなことは鈴奈にはわからない。

 いいよ、と彼女が答えると、ありがとうと言われた。何が〝ありがとう〟なのか。

 じゃあね。晴信は言って電話を切った。

 終わったあと、鈴奈はその場に暫し立ち尽くした。やっぱり、いつもの晴信だった。彼が不倫? 考えるほどわからなくなる。

 ──もういっそのこと考えるのやめてわたしが今本当に晴信くんのことを好きなのか確かめるために家を出てみようかな。 

 そういうことにしよう。別れるとかそういうのはあとだ。けれど、もし別れるとしても離婚届はどうしよう。置いておくか確かめたあとに置きに来るか。

 いいや、置いていこう。

 紙に〝自分探しに行ってきます。晴信くんのことが好きなのかわたしはわからなくなってしまいました。なので離婚させてください。戻ってきたときにあなたのことが本当に好きならば、告白に来ます。ごめんなさい。〟と書き、離婚届と一緒にテーブルに置く。

 既に準備を終えている。多くは持てないので本当に必要なものだけだ。服は二、三着だけ。化粧品はいらない。お金は家に置いてあるものは入れ、あとは銀行で下ろせばいい。お金さえあれば何とかなる。

 先ほど書いた紙を見て、ペンを取った。

 〝さようなら〟

 すすー、とリビングを出て靴を履く。玄関の扉を開けると、光が視界を塗り潰した。

 仄かに暖かい空気が肌を舐めていく。

 ああ、春で良かった。夏は暑いし、秋の終わりと冬は寒い。

 息を吸って、吐いて。

「さようなら」

 後ろを振り向かず、そう言うと歩き出した。

 どこへ行くかは決めていない。自分探しとは行き当たりばったりなのだ。

 

 これは、さよならからはじまる物語だ。〝さよなら〟は何も終わりを意味するものではない。始まりという意味もある。


 ああ、そうだ。それでいい。

 鈴奈の顔は笑っていた。


 

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