メリーさんとシエル(2)
翌日。
結局あのあと夜遅くまで付き合わされた。前に課長たちと行った居酒屋でメリーさんは焼き鳥の串を片手にビール代わりのウーロン茶でひたすら愚痴っていた。なにに対してと問われると、……まぁ色々だ。俺はというと、そんなメリーさんを前にアルコールを飲むわけにもいかず、ウーロン茶で付き合っていた。そのおかげで二日酔いになることもなく、スッキリとした調子で電車に揺られている。眠いことは眠いが。
あくびを一つしながら歩いていると背後から「木内さん」と声をかけられた。どこかで聞いたような声に振り向くと、そこにはシエルがいた。
「おはようございますですの木内様」
「えっと、おはようシエル」
まさかこんなところでそれもこんな時間に会うなんて思わなくて少し戸惑った。そのせいで僅かに残っていた眠気さえ吹っ飛んだ。
「今からお仕事ですの?」
「あ、うん。ちょうど会社に向かってるところ。シエルは散歩かなにかか?」
「ええ。せっかく初めて訪れた街ですのでゆっくり見て回ろうかと」
にこやかに微笑むシエル。その美しさに思わず見惚れていまいそうになる。
「そっか。この街はそれほど治安が悪いわけじゃないけど、慣れない土地だと思いがけないこともあるだろうから気をつけて」
「お気遣いありがとうございますの。本当にお姉様に聞いたとおりお優しいのですのね」
「そんなわけじゃないけど」
「ご謙遜なさらずともわたくしがそう思っているのですからそれでよろしいですわ。それよりお急ぎの中お引き止めしてしまったようで時間の方はよろしいので?」
「え、あ! そろそろ行かなきゃ。悪い、んじゃまたな!」
俺は会社に向かっていたことをすっかり忘れていた。シエルとの会話もほどほどに軽く会釈で返す。シエルはゆったりとした動作で「ええ、ごきげんようですの」と送り出してくれた。
会社に着くと横尾さんが話しかけてきた。
「キューちゃんおっはよ〜」
「おはよう横尾さん」
自分のデスクに座って仕事の準備をしている俺の横で横尾さんは昨日のことを聞いてきた。
「ねえねえどうだったのー、昨日?」
「別に何もなかったよ」
「えー、何もなかったってせっかくのデートだったのにもったいないなぁ」
「もったいないって、別に俺とアイツはそんな関係じゃないって」
「ほほう。メリーちゃんのことをアイツ呼ばわりとはなかなか親しげじゃないですかー」
「だからそんなんじゃないって」
「でもー、キューちゃんはそう思ってなくても向こうはどうかわかんないよー?」
くふふー、と変な笑い方をしながら横尾さんは自分のデスクへ戻って行った。……また変な誤解されてんな。
とはいえ、昨日のあれがデートじゃないかと言われたら違うとも言い切れない。認めるのが恥ずかしいってのもあるけど。
…………。
そんな風に一人唸っていると、ポンっと頭をファイルのようなもので叩かれた。咄嗟のことに驚きながら頭上を見上げると、キリッとした課長モードの花村課長がいた。今度は課長か……と思い、なんて答えようかと思案していると、課長はじっと俺の方を見つめるだけだった。
「え、と、課長?」
おずおずと尋ねると課長は何も言わずに去っていった。……なんだったんだ。スタイルの良い背中課長のを眺めながら呆気にとられていた。
昼になり、また誰かにメリーさんとのことを詮索されるのも面倒だったので、正午になると同時に会社から出た。いつもなら柴田や横尾さんや川本なんかとご飯を食べに行ったりするが、今日は一人。前の会社にいたころは基本的に休憩時間なんてものはなく、休憩する時間があるなら仕事を取ってこい! というのがモットーだった。なので片手で食べられるサンドイッチやおにぎり、ひどいときにはカロリーバーなんかをコーヒーで流し込みながら仕事していた。その時も一人で食事していたけど、その頃と今じゃ状況が全然違う。誰かと一緒にご飯を食べるのが当たり前になっていたからか、久々の一人の昼食というのが寂しく感じた。
さて、どこで飯食うかな。
と、そこへ、
「あら、奇遇でございますの」
無機質なコンクリートのビル街の真ん中に可憐な薔薇の花があった。いや、あれはシエルか。日傘を優雅に差してにっこりと微笑んでいた。およそ場違いにもほどがあるその容姿に、道ゆく人が興味ありげに、または不思議なものを見るように視線を向けていた。
「よう。またこんなところで会うなんてホント奇遇だな」
「そうですの。たしかこういうのをこの国の言葉で合縁奇縁というのですわね。でも再び木内様にお会いしたいと思っていましたの」
癖なのか口元に手を当てて静かに微笑むシエル。これが普通の男なら軽く勘違いしてしまいそうだ。
「それよりも木内様は今からどちらへ?」
「お昼だからどこかで食べようかと思って」
「あら、そうでしたの。それでは木内様さえよろしければご一緒してもよろしくて?」
「それほど長い時間はいられないけど、それでもいいか?」
「ええ。構いませんの」
思ってもみなかったシエルとのランチタイムに浮き足立つどころかむしろ妙な安心感があった。ところでランチと言っても、どこにするか。
「シエル、何か苦手なものとか食べたいものはあるか?」
「いいえ。特にございませんわ。それよりわたくしは木内様が連れて行ってくださるところならどこへでも喜んでお供いたしますの」
いくらどこでもいいと言われても本当にどこでもいいわけじゃないし、こういうとき柴田や川本だったらスマートに場所を決めることができるんだろうけど、俺にはとても難しい悩みだった。
そこへ、シエルが言った。
「木内様、よろしければわたくしあちらに行ってみたいですの」
シエルが指さしたのは俺の住む街どころか、日本の中だったらどこにでもある牛丼屋だった。
正直俺は戸惑った。いくらなんでも牛丼屋はどうかと。別に女の子と一緒に牛丼屋に行くのがダメというわけじゃない。相手がシエルだからというのが問題なんだ。
「どうしましたの?」
シエルは不思議そうに俺を見つめている。……シエルの格好を改めて見返す。どこからどうみても牛丼屋に入るような格好じゃない。むしろ豪華な洋城の庭で優雅にティータイムしている方が様になる。それにそれらを差し引いてもあまりに目立ちすぎる。俺が一人あーでもないこーでもないと悩んでいると、目の前にいたはずのシエルの姿がなかった。
「シエル?」
辺りを見回すとシエルはすでに牛丼屋の暖簾をくぐっていた。
「ちょっと待──」
「行きますですの木内様」
俺が止める間も無く入ってしまった。渋々俺もその後に続く。
「いらっしゃー……い?」
店内に入るとそれまで賑やかだった店内が水を打ったようにしん、と静まりかえった。店の中にいる人全ての目が一つに集中していた。しかしシエルにとってそんなことは当たり前なのか、それともそもそも気にすらしていないのか、表情一つ変えていなかった。
「木内様、こちらでは出迎えはございませんの?」
「……牛丼屋に出迎えなんてございませんことよ。というか空いてるところに座ればいいと思うよ」
半ば投げやりに言うと、シエルは適当に空いていたボックス席へと腰を下ろした。俺も彼女の対面に座る。……店内中の視線が痛い。
「木内様。こちらではどんな料理が提供されますの?」
「まさか何も知らずに入ったのか?」
「ええ。なんとなく美味しそうな香りがしましたのでこちらにしましたの」
「……さいですか」
がっくり項垂れる俺をよそに、シエルはメニューをしげしげと眺めていた。
「木内様、これはどういう食べ物ですの?」
「これは牛丼って食べ物で牛肉がご飯の上に乗っかってるんだよ」
「ギュードン? なんだか不思議な響きの食べ物ですのね。ではこちらをいただきますわ」
「大きさは並でいいか?」
「よくわかりませんがそれで構いませんの」
俺は店員に二人分の牛丼を注文した。注文してる間、店員は俺の方でなくシエルの方ばかり見ていた。
「賑やかなところですのね。こちらはビストロですの?」
「ビストロ?」
言葉の意味が分からずスマホで検索するとどうやら料理屋や居酒屋を指す言葉のようだった。
「そんなおしゃれなもんじゃないけど、似たようなものかな」
と、そこへ注文した牛丼がやってきた。もちろん持ってきた店員はずっとシエルの方ばかり見ていた。
「もう料理が出てきたのですの。もしかして魔法ですの?」
「違うよ。ここはすぐに料理が出てくる店なんだよ。ほらあったかいうちに食べよう」
箸箱から箸を一膳取り出す。シエルも俺に倣って箸を取り出すが、使い方がわからないのか頭にハテナマークを浮かべていた。
「フォークか別のもの持ってきてもらおうか?」
「大丈夫ですわ。郷に入っては郷に従えですの」
「どこで覚えたんだよそんな言葉」
合縁奇縁だったり今のことわざだったり、箸の使い方や牛丼屋を知らない割に言語に関する知識は豊富なようだ。そういえばメリーさんもそうだけど普通に言葉は通じるんだよな。見た目は外国の女の子なのに。
シエルに簡単に箸の使い方をレクチャーすると物覚えが早いのかあっという間に使いこなしていた。
「これがギュードン……。これが牛肉? ずいぶんとペラペラですの」
「こういう食べ物なんだよ。俺は生卵かける派なんだけどシエルはどうする?」
「わたくしは遠慮しておきますわ。それではいただきますの」
さっき覚えたとは思えないくらい器用に箸を使って牛肉とご飯を一つかみ。そのまま口元へ運んだ。
「むぐむぐ……なるほど。一見するとペラペラに見える牛肉ですが、むしろこの薄さだからこそ食べやすく、かといってちゃんと肉の味を感じることが出来ますの。それとこのタレ。いろんな味がブレンドされていて、それがしっかりと牛肉に染み込んでいて、牛肉の旨さを際立たせていますの。それとこれは玉ねぎですわね。牛肉だけでは脂っこくなりがちですが、玉ねぎが入ることにより、それを抑えている。そこにご飯が味の土台を成しており、なおかつ具材の旨味が染み込んだタレによりコーティングされることにより全体のバランスが調和されていますの。つまりこれは美味ですわね! シェフを、シェフを呼びますの!」
「声が大きいって! あと無駄に長いな!」
早口で捲し立てるものだから思わずツッコんでしまった。なるほど確かにメリーさんの妹を名乗るだけある。こういうところはまんまメリーさんそっくりだ。
その後、いたく牛丼を気に入ったらしいシエルは何杯も牛丼を注文し、紅生姜をのせては「この紅生姜のアクセントが〜」と発言し、最初は敬遠していた生卵をかけては「新たな味の発見ですの!」と目を輝かせていた。店内にいた人々も、シエルのことを最初は物珍しく見ていたが、牛丼一つにそこまで盛り上がれる彼女を微笑ましく眺めていた。ただ俺の方はそんなシエルを一人にしておくわけにもいかず、彼女が満足するまで付き合った結果、遅刻ギリギリの時間に会社に戻ることになった。ついでに財布の方もずいぶん軽くなった……。
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