第63話 物理的なキャンパスに惚れて入った大学
転載~書いたのは何年かまえ。要するに静岡大学のことをゆーてます。
30年くらい昔のはなしね。
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ワタシが出たのは県名のついた国立大だ。まあ「国公立」「近い」「偏差値」という条件もあったんだが、あの母校は物理的なキャンパスに惚れて入った。
東海道本線でその辺りを通ると、山の斜面に校舎が段々に建っているのが見えるのだ。
まあともかく行くとあるのが坂。坂、坂、坂!
迷路の様な校舎群。当時、教養部の校舎は、ある棟で2階のところがある棟では3階、4階なんてとこもあった。生協の「1階」に、校舎の「0階」があるとこもあった。0階って何だよと言いたいが、実際そうだったのだ。
教養部の上にメイン道路があり、越えると左手に理学部、右手ずーっと先に農学部があった。
この距離感が凄かったのは、濃霧の日に授業が終わって道路に出たら「農学部どこ~」という事態になった辺りで。
真ん中に広い階段。それを多少上がると、図書館があった。この入り口が2階。1階と同じ地面に生協食堂の「グリル」があった。そこからずれて少し下がると「第二食堂」があった。生協食堂は全部で三つあり、第三は農学部にあった。行ったことはないが(笑)。
図書館から更に上に行くと、ワタシの通う教育学部だった。これがまた迷路だった。
ピロティーのある作りで掲示板がある棟を基本とすると、そこから右が文系棟、左が理系棟だった。左には結局行くことがなかった。音楽専門の棟もあったし、教育学の専門のとこもみあった。ピアノボックスもあった。
ワタシの学科はその文系の校舎の6階にあったので、……まだ若かったので階段を使ったものだった。
その校舎の4階だか3階だかに、奥の校舎につながる通路があり、そのまた奥に行くと、やっと事務局にたどりつくという。正直四年間居て、さっぱり判らないところもあった。
まあ大概は基本の大教室のある棟と、自分の学科の階で済んだ。
今は知らないが、当時の教育学部で良かったのは、10単位を別の学科の教科から振り替えて良かったことだった。ワタシは美術家1年の「デッサン」に2年の時に参加させてもらったのだが、これは後々に有意義なものだった。
自分の科のものは、というと…… 殆ど記憶に無い。
凄く断片だけで、「文章表現論」で教官に挑発的な「書き換え」をやったり、「児童文学研究」は面白かったなあ、とか、「小学校専門音楽」の「弾き語り試験」は恐怖だったとか、そういうことばかりだ。
「国語学概論」という演習はグループに同人スキルを持った男子が居たことで、やたら凝ったレジュメ冊子を作ってしまったら、その後の連中がまた作る作る。ともかく無闇に真面目なクラスだった。
「近代文学研究」は中原中也の三角関係の話をしたなー、という感じだけで。むしろ「古典文学研究」のほうが、後々の自分には役立った。「孫引きをするな」「読める字で書け」等々。
ちなみに院に行った時、やはりレジュメを作って発表する授業に参加させてもらったのだけど、書き方を逐一教えていたのにはびっくりした。
当時はそんなに親切じゃなかった。毎週二人が発表するのだが、そのレジュメを見ては、どんどんスキルが高くなっていく、という調子だった。
もっとも「拾遺和歌集から一首指定するのでそれについて調べよ」っていうのは、相当当時の自分にはしんどかった。今ならそれなりにネタを持ってこれるだろうが、和歌にまだ関心が無かった頃だ、何をどうしていいのか判らなかった。
で、落ちる寸前だったので慌ててワープロ使って再提出。「可」。
「可」もらった自分の専門はこれだけだったわ(笑)。
落とした科目は無かった(つーか奨学金とか授業料免除とか寮生とか色々事情があって落とせなかったんだよー)んだが、「小学校専門」の理科・算数・音楽は「可」だったなあ…… マジすれすれ。つかよく通ったよ。
一方で皆が「嫌ああああ」と言われていたのに「教育史」と「教育制度」があった。
のだがワシはあれが大好きだった。院でも「近代教育史」ってあったので、取ったくらいだ。しかもその先生、この時の大学の先生のお仲間だったという(笑)。世界は狭かった。
正直、「教育史」や「教育制度」ってのは、実地に全く役立たないんだが、ともかくワタシには面白かった。学芸会の歴史だの通信簿の歴史だの、楽しい楽しい。「制度」は、当時から戦前の複線型教育制度に興味持ってたワタシにはわくわくものだった。だが大概の学生には敬遠されていた(笑)。
まあ仕方ない。当時の我々は大概教員になりたい奴らだった。ワシはともかく。
で、3年で「教材研究」って授業があって、グループ分けして模擬授業するってのがあったんですが。
正直ワシはさっぱりこれに関しては覚えてません(笑)。皆さんのおかげで通れたようなものだった(笑)。本当にどうでもよかったし、与えられた役割をやるだけで、それ以上の意欲もへったくれもなかった。
いやもうその好き嫌いだけでも、自分が教員に向いてねえ、ってのは丸わかりなんだが。
仕方ない。教育、ではなく要は「国語」で「行ける」「この学校のどっか」だったんだから。もう少し成績が良かったら、「人文学部」に入ってた。
ちなみに、最近はこの学部、もう文学系はないらしい。わははははは。
そう、人文学部は教育の更に上、山の一番上にあった。寮で四年間一緒だった友人は、そこに通っていたのだが…… 通うだけでひと運動だったようだ。
広さときたら。
一度メイン道路に戻って。農学部側に歩くと三叉路があった。そこを左に行くと、やがて運動場だの体育館だのプールだのが見えてくる。
運動場も沢山あった。まずサッカー場。そして体育館。でかいプール。右に行くとその向こうにバレーコートとテニスコート。その道の端には桜が綺麗だった。左に行くと上り坂で、これは両側に桜。登り切ると、陸上競技場と野球場があった。一年の時にはハンドボール。二年てげサッカーを一年間やったし、「小学校専門体育」ではラジオ体操の正しい教えかた、なんてのも習った。
登り切った坂を、運動場に行かずに右、テニスコート側の道と合流してそのまま行くと、住処だった学生寮があった。ワタシが生まれた年に出来たところだったから、既にその時点で結構な年季が入っていた。
ちなみに。
ここに資料室といういうのがありまして。出来た年の会議レジュメとかも保管してあったのだけど、……男子寮の壁にも名残はあるんだけど…… 学生運動期の物騒な文言が……
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