第23話 家族麻雀

これも転載。なので長いし文体が重いー(笑)。


***


 麻雀を最初にやったのは、小学二年の時だった。

 たまたま三つ違いの兄が盲腸で入院し、父と二人だけになってしまった時のことである。

 彼の入院先には廊下に『愛と誠』がずらりと揃っていたので、見舞いに行っても暇だったワヌシは突っ立って延々読んでいたものだった。

 別に『愛と誠』でなくともいいんだが、本当に暇だったのだ。


 ちなみにそういうことはその前年に母親のアートフラワー講師になるべく講習を受けに行っていた時も同様で、確かその時は会場の西武デパートにあった本屋で、『男ドアホウ甲子園』をある程度までだーっと読んでいたものだ。

 まだ本にビニールなんかかかっていなかった。おおらかな時代だし、そもそもそんな長時間マンガを立ち読みするバカもそう居なかったのだろう。

 ワタシはまあ、父親が『なかよし』を毎月買ってくれる様になり、兄には毎週『少年チャンピオン』を、というオタクになれ、といわんがばかりの環境だった。

 マンガ禁止の家もあったらしいが、残念なことにウチは父親が「キャンディ・キャンディ」を楽しみにしていた人なのだ。

 そしてありがたいことに当時はチャンピオンの70年代黄金時代だった。

 ブラックジャックもがきデカもマカロニほうれん荘も、のんのんばあもあった。とり・みきのデビューだの萩尾望都が描いた「百億の昼と千億の夜」だの、横山光輝の「マーズ」だの、小山田いくたがみよしひさ兄弟の共演だの、ドカベンから大甲子園につながる辺りまで、ともかく滅茶苦茶な情報量をガキもガキな頃に頭にぶち込んでしまった。


 まあそんな時代のことだが。


 ウチはご町内の中でもホントにぽつんと立った一軒家だった。今は周りもごちゃごちゃしているのだが、当時は夜外出するのに「野犬が怖い」時代だった。

 小学校は近かったが、友人からはひたすら遠かった。そしてマンガである。オタクになるのは必然と言えよう。

 それでいてウチはボードゲームで遊ぶことが多かった。

 将棋・オセロ・人生ゲーム、野球盤…… カードだとトランプや百人一首のカルタ以外の遊び方。

 将棋にしても、将棋そのものというよりは「角まわり」だの「山崩し」が殆どだった。相手は兄である。彼が小学生のうちは。

 まあ兄とて夜になれば遊び相手はワタシしかいなかったとはいえ、よくつきあってくれたと思う。

 まあ結果、彼には今でもオセロで勝てない。くそ。

 まあ仕方ない。勝ちたいという欲がワタシには無いらしい。ゲームをしていることが重要であって、「勝つためにはどうすればいい」という感覚が薄いのだ。


 で、その一環として麻雀があったらしい。


 最初は父親との二人麻雀だったのだが、兄が退院してから、何故かそれが家族四人での土曜の夜恒例のものになった。

 当時の土曜日というのは、もう六時くらいからテレビに釘付けだった。

 タイムボカンシリーズがあり、まあ途中は忘れたが、七時半から「お笑い頭の体操」、のちに「クイズダービー」そして次が「全員集合」である。

 ここでまあ、当時の二年くらいだったら「寝ろ」と言われたと思う。実際結構言われたかもしれない。

 だから家族麻雀は三年からだったんじゃないかとも思う。

 兄の入院は二月の初めだった。ワタシはウチで豆まきが終わったのはこのせいだ、と微妙な気持ちを持っていたのでその日が入っていることは間違いないだろう。

 一週間くらい入院したのだろうか。当時は結構かかったのだった。

 で、九時くらいから半荘やるのが恒例になった訳だ。ウチは正方形こたつがいつも居間にどん、と鎮座ましましていたので、当初はこたつ板をひっくり返し、後には専用のマットを買った。

 ちゃんとサイコロで場所も決め、「Gメン75」をバックにがらがらと牌を洗ったものだ。

 父親は当時「つきあいで知っているのが当然」だったし、母親も全く知らない訳ではなかったらしい。

 ワタシと兄はその後何故か父親が買ってきた『マージャン入門』でルールを補完した。

 ただしここはさすがに小学三年。役も手もおおよそ覚えることはできたのだが、曖昧な手はいまひとつピンと来なかった。あれだ。面前ツモ的な。


 何というか、タンヤオだのイーペーコーだの国士無双だの清一色だの、形がびしっとわかりやすいもの、取った牌そのもので手が無しで上がれる天和だの嶺上開花だの、そういうのは暗記できたんだが、正直今でもネット麻雀する時についつい手が無いなあと思うとリーチかけてしまうクセがある。曖昧さに耐えられないのだ。

 で、ここでやはり覚えられなかったのが点数だった。これは父親が毎度数えていたということが一番大きいんだが、やっぱり今一つ理解できなかったというのが大きい。


 これは今でもそうなんだが、テストの数字はまあできたとしても、現実の数字は大混乱するという頭のクセがある。

 点数計算ができないのはその一環だと思っている(笑)。

 何ファンの手かは判るんだけど、全体の符とかそういうのが大混乱するのだ。今はその辺りは機械が出してくれるのでありがたい。


 さて半荘終わった頃には、テレビも「横溝正史シリーズ」になっていたりして、多少眠く。

 そこで何故かコーヒータイムとなっていた(笑)。

 まあ当時なので、ネスカフェのインスタントだし、ガキはカフェオレだった。ただともかくコーヒータイムだった。菓子もついた(笑)。いいのか(笑)。その時だけ使うカップを使うというのがミソだった。

 それで少しだらだらして、寝る訳である。親達はもう少しだらだらしていたようだが、その辺りは知らない。


 70年代小学生の土曜日は、それなりにいつも幸福だった気がする。

 半ドン。

 午前中だけの、しかも時間短縮の授業。

 帰りに図書室に寄ってはだらだらと好きな本を探していた。

 ワタシの好きな本はまず借りられることがなかったので、一人じめの様にして借りてた。よく手続きをさぼって持ってったこともあった。

 世界の名作の子供版はこれで結構読んだものだ。

 そして日本の児童文学がつまらねえ、という偏見も同時についた(笑)。今でもつまらないと思っている。日常リアルを描いて何が楽しい、と思ってた。

 そういうんだったらマンガフィクションをみていた方がいいと思っていた。可愛くないガキである。


 そして時には全校でワックスがけだの、避難訓練だの集団下校(当時はそれはイベントだったのだ)で、校服(女子だけ紺色スモック)ではなく、体操服で帰るような時もあった。

 休みではない、中途半端な非日常。それが土曜日だった。


 この家族麻雀は兄が高校に入るまでは続いた。不思議なものである。


 兄は中学から吹奏楽を熱心にやっていたので、その時点で終わってもおかしくはなかった。

 ヨーロッパ遠征とかもあった訳だし、何か色々忙しかったんだと思うが、正直小学校の「合唱部」ですら面倒だと思ってたワタシには何か言えた義理じゃねえ。

 ともかくワタシはひたすら「早くおうちに帰りたい」ガキだったのだ。

 はみだしっ子にはまり、アムカもしていた訳だからその後が思いやられたというものである。


 それでも続いたのは全くもって不思議なもので。


 だが彼が中学に入った時点で家族旅行をすることも無くなった。

 それを考えると、麻雀は唯一の家族イベントだったのかもしれない。

 まあ単純にゲームとして楽しかったのかもしれないが。面子が揃わないといけないし。


 兄はブラスのために工業へ行ったから、その後は友人と卓を囲んだのだろう。

 そこでワタシの兄との記憶は殆ど途絶える。

 彼は高校を卒業すると上京し、それ以来、ちょろっと顔を見せることはあっても、実家に戻るということは全くない。


 今こうやって文章を打っているのは、その麻雀をしていたまさにその場所であるが、現在ワタシは一人である。

 兄は千葉で三度目の奥さんと仲良く過ごしているし、父親はのんびりできる有料ホームに入ってもらってるし、母親は亡くなって久しい。

 パート働きで気楽に好きなことと、父親の代行をこなしながらの日々はのんびりと心地よい。


 そうすると記憶もするすると出てくるのだが、「家族の幸せな時間」というと、旅行でも誕生日でも何とか記念日でもなく、このイベントが出てくるというのが、何というか微妙な気分にはなるものだ。

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