第16話 港、騒乱、領主
シードラゴンに水の宝珠を飲み込まれた瞬間、俺の心は激しい怒りで震えた。体内から湧き上がる熱い塊が、喉元までせり上がってくるような感覚だ。せっかく手に入れた「お宝」が、目の前で、しかも理不尽な形で奪われたのだ。あの巨大な影が悠々と去っていくのを見送りながら、俺は沸き上がる感情を抑えきれずに、ただ拳を固く握りしめていた。指の関節が白くなるほどだ。
しかし、呆然としていられる時間は一瞬だった。海は、巨大な水の壁が両側にそそり立ったまま、その底を露わにしていた。海面からは海底神殿の全貌が見え、白く輝いている。俺は海王鎧の力を使い、水の壁を駆け上がるように泳ぎ、シゲの船へと急いだ。水中で感じる水圧は皆無で、まるで空気中を滑るように体が動く。
船に乗り込むと、シゲ、ハンナ、ルレットが駆け寄ってきた。彼らの顔には、安堵と同時に、見たこともない巨大な怪物の出現に対する恐怖と、目の前で信じられない光景として広がる、割れた海への困惑が入り混じっていた。
「ヒデさん!無事か!?」シゲが真っ先に声を上げた。その声には、心底からの安堵が滲んでいる。
ハンナは心配そうに俺の全身を見回し、「あの、まさか、シードラゴンが……そして、この海は……」と、言葉を探すように呟いた。
「ああ、無事だ。だが……とんでもないものを見つけて、そして失った」
俺は息を整えながら、海底神殿の奥で「水の宝珠」を見つけたこと、それが尽きることなく清らかな水を生み出す『生命の源』であること、そして、その宝珠をシードラゴンに飲み込まれてしまったことを、掻い摘んで説明した。ついでに、宝珠があった台座から出てきた、読めない文字で書かれた古びた本についても話した。
さらに、俺は宝珠に触れた時に見たビジョンについても語った。大いなる神が、その身を分かち、今のたくさんの神々になったという、信じがたい光景を。その中には、足ヒレをつけた水泳の神カレントの姿もあったと。俺の言葉の端々には、まだ怒りと悔しさが残っていた。
俺の説明を聞くと、ハンナが「なんてことだ!」と声を上げ、両手で口を覆った。シゲは悔しそうに唇を噛み締め、その顔を歪ませる。ルレットは、その宝珠が持つ計り知れない価値を理解し、その顔を青ざめさせている。彼女の瞳は、驚きと失望で大きく見開かれていた。
「神様が分かれただと?そんな話、聞いたこともねぇな……いや、だが、あの神殿ならあり得るのか?」シゲが驚きと困惑の入り混じった声で呟いた。
「そんなことが……じゃあ、私たちが祈ってる神様も、元はもっと大きかったってことかい?」ハンナが純粋な疑問を口にする。
「それは……!まさか、あの神殿のレリーフと繋がるの!?古代の神話には、世界を創造した唯一の神が、その力を分け与えたという記述が……!」ルレットは、古びた本の話を聞いた時以上に、その瞳に知的な好奇の光を宿らせ、興奮気味に身を乗り出した。彼女は俺に、宝珠から出てきた本を見せてほしいとせがんだ。俺は豪商鞄から本を取り出し、ルレットに手渡す。ルレットは、その古びた本をまるで宝物のように抱え、食い入るように文字を眺めた。
「クソッ、あの野郎……!」シゲが荒々しく拳を握りしめた。その仕草には、どうしようもない憤りが込められている。ハンナは俺の肩を力強く掴み、「悔しいね、ヒデさん。でも、あんたが無事でよかったよ」と言ってくれた。その温かい手の感触が、俺の心のざわつきを少しだけ鎮める。ルレットは、震える声で「せっかく見つけたのに……」と呟き、俺の腕をそっと撫でた。その小さな手が、俺の怒りの熱をじんわりと冷ましていくようだった。
仲間たちの言葉と温かさに触れるうち、俺の激しい怒りは少しずつ落ち着きを取り戻していった。そうだ、俺は一人じゃない。共に喜び、共に怒り、共に悲しんでくれる仲間がいる。この理不尽な状況に立ち向かうのは、俺一人ではないのだ。
船はカレンティアの港を目指して進む。半日ほどの航海になる。昼過ぎには着くだろう。
船上では、シードラゴンにどうやってやり返してやろうかという話で盛り上がった。
「あんなデカいのがいるんじゃ、しばらく漁には出られねぇな」とシゲが眉をひそめる。彼の顔には、当面の生活への不安がよぎっている。
「でも、渦が消えたんだ。それに、この海が割れたままだ。もしかしたら、新しい漁場が見つかるかもしれない!」とハンナが明るく言った。彼女の声には、どんな状況でも希望を見出そうとする強さがある。
ルレットは航海日誌を広げ、真剣な表情で海図を眺めている。「渦が消えたことで、これまで近づけなかった海域に行けるようになるかもしれません。新しい海の道が……それに、水が引いたままなら、神殿の調査も進められるかも! 誰も足を踏み入れたことのない、古代の知識が眠っているはずよ!」彼女の瞳は、知的好奇心に輝いていた。彼女は、手にした古びた本と航海日誌、そして海図を交互に見比べながら、何かの繋がりを探しているようだった。「この現象は、一時的なものなのかしら?それとも、このまま……?」ルレットの問いに、誰も答えられなかった。ただ、沖合にそそり立つ水の壁と、その底に輝く神殿の姿は、彼らの目に焼き付いていた。
シードラゴンという脅威は存在するものの、カレントの渦が消え、広大な海が割れたまま維持されているという事実は、漁師たちにとって大きな希望でもあった。これまで閉ざされていた海域が解放され、新しい食事の流通があるかもしれないという話も出て、一時的にではあるが、船上の雰囲気は明るさを取り戻した。
昼食は、ハンナが用意してくれたシンプルな魚のスープだった。潮風が吹き抜ける甲板で、温かいスープが冷え切った体に染み渡る。魚の出汁が効いた素朴な味は、疲れた心身を癒してくれた。
「このスープ、美味しいね」と俺が言うと、ハンナは「当たり前さ、あんたの料理を見てたら、腕も上がるってもんだ」と屈託なく笑った。
ルレットは、宝珠を失った俺を気遣うように、小さな声で「ヒデさん、きっと取り返せますよ。私たちがついてますから」と言ってくれた。その言葉に、俺は静かに頷いた。仲間たちの存在が、俺の決意を揺るぎないものにしていく。
昼過ぎ、船はカレンティアの港に到着した。
港は、異様な熱気に包まれていた。多くの人々が広場に集まり、ざわついている。遠目に見ても、そのただならぬ雰囲気が伝わってくる。潮の匂いに混じって、不安と興奮、そしてかすかな期待が入り混じった人々のざわめきが、波のように押し寄せてくる。
船を接岸し、陸に上がると、そのざわめきの中心に、傷ついた漁船が何隻か陸に引き上げられているのが見えた。船体には、巨大な爪痕のような傷跡が生々しく残り、木材が大きく抉られている。その周りには、顔色の悪い漁師たちが集まり、口々に何かを訴えている。彼らの目には、恐怖と疲労の色が濃く浮かんでいた。
「シードラゴンだ!あの化け物が現れたんだ!」
「船が、船がやられた!もう漁には出られねぇ!」
恐怖に怯える声が聞こえる。しかし、その一方で、別の場所からは歓声のような声も上がっていた。
「渦が消えたぞ!これで、あの向こうの漁場に行ける!」
「大漁だ!こんなに獲れたのは久しぶりだ!神様のご加護だ!」
豊漁を喜ぶ漁師たちと、シードラゴンに怯える漁師たち。そして、沖合で割れたままそそり立つ巨大な水の壁と、その底に白く輝く海底神殿の姿に、人々は困惑と興奮の声を上げていた。恐怖と喜びが入り混じった複雑な衆人心理が、港全体をざわつかせている。人々は噂話に花を咲かせ、衛兵の数も普段より増員されているのが見て取れた。衛兵たちは、混乱する群衆を整理しようと、大声で指示を飛ばしている。子供たちは、親の陰に隠れて、不安げに周囲を見回している。
俺は、その複雑な光景を眺めながら、改めてシードラゴンの脅威と、無限の清らかな水を生み出す、あの水の宝珠の計り知れない重要性を感じていた。この混乱を収めるには、シードラゴンを討伐し、宝珠を取り戻すしかない。
その時、ざわついている群衆の後ろから、地響きのような大声が響き渡った。その声は、港の喧騒を切り裂くかのように、はっきりと俺の耳に届いた。
「シードラゴンが出たのは本当か!?」
その声の主は、カレンティア領主、ドレイク・ハルバード侯爵だった。彼は、自身の身の丈を超えるほどの大剣を背負い、堂々とした足取りで群衆をかき分けて進んでくる。その顔には、日焼けの跡と、左の頬骨から顎にかけて走る古傷が刻まれている。その傷は、彼がかつてシードラゴンと戦った証だ。彼の存在感は、周囲のざわめきを一瞬で鎮めるほどの威圧感があった。
彼の周りにいた衛兵たちが、民衆を静止させ、道を開ける。ドレイク侯爵は、傷ついた船と、怯える漁師たちを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、彼らへの深い憂慮と、そして揺るぎない決意が宿っている。
「恐れることはない!我らに任せろ!」
彼の声は、港全体に響き渡り、ざわめいていた民衆が一瞬静まり返る。その力強い言葉は、人々の心に希望の光を灯すかのようだった。
「この剣にかけて、今度こそ必ず討伐する!」
ドレイク侯爵は、力強く宣言すると、そっと自身の頬の古傷を撫でた。その瞳には、10年前の雪辱を誓う、強い決意が宿っていた。彼の放つ、豪放で快活なオーラが、港の空気を一変させた。人々は、彼の言葉に静かに耳を傾け、その背中に希望を見出しているようだった。
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