第15話 宝珠
ウォーター・エレメンタルを倒し、俺は目の前の巨大な扉に手をかけた。ひんやりとした石の感触が、期待と緊張を胸に宿らせる。重厚な扉は、俺の指先に魔力を感じたかのように、ゆっくりと、しかし確実に内側へと開いていった。ギィィ……と、深海の静寂を破るような鈍い音が響き渡り、扉の奥に広がる光景が露わになる。
その光景は、俺の想像をはるかに超えるものだった。
扉の奥には、巨大な水槽のように切り取られた海洋空間が広がっていたのだ。透明な、しかし確かな壁に囲まれたその空間は、まるで太古の海をそのまま切り取って、ここに閉じ込めたかのようだった。天井からは、どこからともなく淡い光が差し込み、内部を神秘的に照らしている。
俺は一歩足を踏み入れた。水は澄み切っており、視界はどこまでもクリアだ。目の前には、この世界では見たこともないような、奇妙で美しい海洋生物たちが優雅に泳ぎ回っている。色鮮やかなサンゴ礁が広がり、その間を、まるで深海の宝石のように輝く魚たちが群れをなして通り過ぎていく。その姿は威厳に満ちており、まさしく太古の生態系が息づいている証だった。
この空間は、まさに生きた博物館だ。神殿の奥深くに、こんなにも豊かな生命の楽園が隠されていたとは。俺は、その圧倒的な美しさと、この場所が持つ歴史の重みに、ただ立ち尽くすしかなかった。
その海洋空間の中央には、ひときわ目を引く透明なドームがそびえ立っていた。まるで巨大な泡が固まったかのようなそのドームは、内部に空気を満たしており、その奥へと続く道が伸びている。俺は、吸い寄せられるようにドームへと足を進めた。
ドームの入り口をくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。内部は、外の海洋空間とは一線を画す、静謐な雰囲気に包まれている。足元は再び滑らかな石畳で、中央には、神殿の祭壇と同じような円形の台座が鎮座していた。
そして、その台座の上に、それはあった。
「水の宝珠……」
思わず声に出していた。それは、手のひらに収まるほどの大きさの、完全に透明な球体だった。しかし、その内部には、まるで湧き水が閉じ込められているかのように、清らかな水が絶えず渦を巻き、淡い光を放っている。その輝きは、まるで生命の源そのもののように、俺の心を惹きつけた。
俺はゆっくりと手を伸ばし、水の宝珠に触れた。ひんやりとした感触が指先に伝わった、その瞬間――。
俺の頭の中に、強烈なビジョンが流れ込んできた。
それは、言葉では表現できない、圧倒的な光景だった。
最初に現れたのは、巨大な、しかし明確な形を持たない、光の塊のような存在だった。その存在は、まさに神殿の大聖堂にあったあの女性の石像を思わせる、母のような温かみと、海そのものの雄大さを感じさせるものだった。それが、この世界の全てを包括する「大いなる神」なのだろうか。
その大いなる神が、ゆっくりと、しかし確実に、その身を分かち始めた。光の塊から、無数の光の筋が伸びていき、それぞれが独立した小さな光の球体へと変化していく。その一つ一つが、今の俺たちが知る神々へと姿を変えていくのだ。調理器具を手に持つキュジーヌ、樽を抱えるルウェル、そして……。
俺の視線は、その中の一つに釘付けになった。足ヒレをつけ、水の中を優雅に泳ぐ、見慣れた水泳の神カレントの姿だ。その姿は、俺が加護を受けるときに祈りを捧げた、あの神と寸分違わぬ。
ビジョンは続く。神々が分かたれた後、世界は混沌に陥り、人間は苦しんだ。そして、その惨状を目の当たりにした神々が、再び人間に手を差し伸べ、加護を与え、神下賜品を授けることで、文明の復興を助けることを決意する。それは、まさにこの世界の創世と、神と人間との新たな関係が始まった瞬間だった。
ビジョンの最後に、優しい、しかし力強い声が、俺の頭の中に直接響いてきた。
「この宝珠を見つけし者よ。汝が手にせしは、生命の源。尽きることなく、清らかなる水を湧き出でさせん。いかなる場所にあろうとも、汝の渇きを癒し、汝の旅を助けよう」
声は、水の宝珠の能力と、その使い方を明確に伝えてきた。その身から、ただ清らかな水が湧き出し続け、いかなる場所でも安全な水が無限に得られる。これほどまでに有用な道具が、この世界に存在したとは。水が貴重品であるこの世界において、この宝珠は、まさに究極の「お宝」だ。
俺は宝珠の力を理解し、それを台座から手に取った。ひんやりとしながらも、どこか温かい感触が、俺の掌に馴染む。
宝珠を取ると、台座がゆっくりと、しかし確実に下に下がり始めた。台座が完全に沈み込んだ後、その下から、一冊の古びた本がせり上がってきた。表紙には、これまで見たことのない、複雑な模様と、読めない古代文字が刻まれている。
俺は本を手に取った。紙質は古いが、水に濡れた形跡はなく、完璧な状態で保たれている。しかし、文字は全く読めない。ルレットがいれば、もしかしたら解読できたかもしれないが、今の俺にはただの紙の塊だ。
「とりあえず、これも『お宝』だよな」
俺はそう呟き、本を豪商鞄にしまおうとした。本はすんなりと鞄の中に収まった。次に、水の宝珠を豪商鞄に入れようとする。しかし、なぜか宝珠は鞄に入らない。まるで、見えない壁に阻まれているかのように、何度試しても弾かれてしまうのだ。
「なんだこれ?まさか、これも神下賜品だからか?」
神下賜品は、豪商鞄に収納できないものがあるという話は聞いたことがない。だが、これほど強力な力を持つ宝珠だ。何か特別な理由があるのかもしれない。仕方なく、俺は水の宝珠を手に持ったまま、この空間を後にすることにした。
宝珠を手に、俺はウォーター・エレメンタルがいた部屋へと戻った。部屋の中央にある水たまりは、俺が宝珠を手にしたことで、すでに変化を始めていた。水面が激しく渦を巻き、ゴボゴボという音を立てながら、中央へと吸い込まれていく。まるで、巨大な排水口ができたかのようだ。
水が完全に引いた後、俺は驚きを隠せなかった。通ってきた複雑な迷路が、すっかりなくなっていたのだ。壁は滑らかになり、曲がりくねっていた通路は、一直線の道へと変わっていた。まるで、宝珠を手にしたことで、神殿がその姿を変えたかのようだ。
俺は急いでその一直線の道を駆け抜け、神殿の入り口へと向かった。大聖堂を通り抜け、巨大な扉を抜けて外に出る。
神殿の周りの水が、ゆっくりと、しかし確実に減少し始めていた。まるで、巨大な見えない手が、海水を吸い上げているかのようだ。水面がみるみるうちに下がり、やがてそれは海面まで届いた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
鈍い地鳴りのような音が響き渡り、神殿を中心に、海が大きく割れていく。巨大な水の壁が左右にそそり立ち、その間から、深海の底に横たわる白いサンゴ砂と、遥か上空の青い空が見えた。まるで、旧約聖書に出てくる「海割れ」のようだ。
割れた海は、ゆっくりと、しかし確実に広がり、遠くでシゲの船が慌てて逃げていくのが見えた。船は、海が割れるという異常事態に、全速力で離れようとしている。
「シゲさん!ハンナさん!ルレット!」
俺は思わず叫んだ。危なかったが、どうやら皆無事らしい。船が安全な距離まで離れていくのを確認し、俺は安堵の息をついた。
目の前にそそり立つ巨大な水の壁。その高さは、まるで摩天楼のようだ。俺は迷わず、その水の壁へとダイブした。水圧の影響は全くなく、まるで空気中を泳ぐかのように、顔も普通に外に出せる。俺は、水の宝珠をしっかりと握りしめ、ひたすらシゲの船を目指して泳ぎ続けた。
しかし、その時だった。
割れた海の奥底、俺の真下から、巨大な影が猛スピードで迫ってくるのが見えた。それは、まさしくシードラゴン。海底から一直線に、大口を開けて俺を飲み込もうと向かってくる!
「クソッ!」
俺は咄嗟に体を捻り、間一髪でその巨大な顎を躱した。シードラゴンの口が、俺のすぐ横を通り過ぎ、巨大な水流が俺の体を揺さぶる。しかし、シードラゴンはそのまま勢いを殺さず、空へと飛び上がった。その巨体が、割れた海の壁を越え、青い空へと舞い上がる。
そして、空中で一瞬静止した後、重力に引かれるように、凄まじい勢いで落下してきた。
ドゴォォォォンッッッ!!!
巨大な水柱が上がり、俺は落下に巻き込まれ、水しぶきと共に空中へと激しく跳ね出された。体が宙を舞い、その衝撃で、しっかりと握りしめていたはずの水の宝珠が、手からこぼれ落ちてしまう。
キラリ、と光を放ちながら、宝珠は割れた海の底へと落ちていく。
その瞬間、シードラゴンが、再び巨大な口を開けて、落ちていく宝珠を飲み込んだ。ゴクリ、と、まるで小さな石ころを飲み込むかのように、あっけなく宝珠はシードラゴンの体内へと消えていった。
宝珠を飲み込んだシードラゴンは、満足げに、ゆうゆうと割れた海の周りを挑発的に回ると遠くへ泳ぎ去ってしまった。その巨体が遠ざかるにつれて、咆哮もまた、遠くへと消えていく。
後に残されたのは、**両側にそそり立つ巨大な水の壁に挟まれ、その底が完全に露わになった海底神殿と、**遥か遠くで小さく見えるシゲの船、そして、カレントの渦が消え去った、静かな海だけだった。海は割れたまま、まるで時間が止まったかのようにその姿を維持していた。神殿は、海面からその全貌を現し、白く輝いていた。
俺は、呆然と海を見つめた。手の中に残るはずだった宝珠の感触は、もうない。せっかく手に入れた「お宝」が、あっという間に失われてしまった。
だが、呆然としていられる時間は一瞬だった。あの宝珠は、ただの「お宝」ではない。安全な水が無限に湧き出る、この世界で何よりも貴重な、生命の源だ。それが、あの巨大なシードラゴンの腹の中に消えた。
「クソッ……!」
俺は、拳を固く握りしめた。悔しさが、すぐに強い怒りと決意へと変わる。失ったのではない。奪われたのだ。あのシードラゴンが、俺の、いや、この世界の未来を大きく変える可能性を秘めた宝珠を、あっけなく飲み込んだ。
海は静かだ。カレントの渦は消え、シードラゴンも去った。この静寂は、新たな始まりを告げているのだろうか。いや、違う。これは、新たな戦いの始まりだ。
俺は、割れた海と、その向こうに小さくなっていくシゲの船、そしてシードラゴンが消えた方向を睨みつけた。
「必ず、取り返してやる……! あの水の宝珠は、俺が手に入れたものだ!」
失った宝珠への強い執念と、シードラゴンへの明確な敵意が、俺の胸に燃え上がっていた。
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