第26話 【恐るべきマダムオーラ】李先生と歩く京都、そして…

 

 李先生をご案内しながら、京都駅についた。もう昼すぎである。時間がないので、駅からタクシーに乗って祇園まで行った。それでも、その日は順調に行けたので、確か十五分くらいで着いた。


 私は京都が好きだけれど、その日、タクシーに乗って、実は少し緊張していた。


 個人的に、日本に来て楽しそうにしている外国人観光客を見るのは、こちらまで気分がよくなることが多いけれど、文化の違いもあるので、当時からいろいろな意見があった。


 そして、なんというか、標準語、神奈川弁で育った私がよその人間であるのはすぐ分かることだし、京都の人はやはり誇り高く、芯が強いというか、もの柔らかな反面、案外と意思表示もはっきりしている人が多いというイメージがある。こんなに目立つ李先生は、京都の人にどう見えるのだろうか。


 それが、私は本当に驚いたのだが、李先生はどこに行っても優遇された。特にタクシーの運転手さんのほぼ全員が、

「この方は、どなたさんですか?」

 と感心したように私に訊くのだった。こういうことは、私は初めてである。


「私の、中国茶の先生の、先生で上海からいらっしゃいました」

「上海からねえ。まあまあ、それで、今日はどこに行かはるの?」

「まず、祇園に行きたいそうで」

「ああ、人気あるからねえ」


 李先生が美人であることは疑いようのないことだが、それときっと、「マダムオーラ」というのは、国境を越えて作用するものなんだな、と私は妙に感心してしまった。

 

 時間がなかったので、その日はそんなにたくさんのことができたわけではない。李先生の好みも分からないから、絵に描いたように、祇園の一力亭の手前で降りて、花見小路通を、祇園甲部歌舞練場のあたりまでまず散策した。


 途中で、偶然、本物の舞妓さんが歩いていた。

「あの人は知っています」

 と李先生が呟く。


「そうですよね」

「ああいう人は、やはり、貧しい家に生まれましたか」

 真剣な顔でそう言われてしまった。

「それはよくある誤解で、彼女たちは、いわばパフォーマーだそうです。最近はインターネットでも志願できるんですよ」


 私は着つけの勉強をしていて、京風の着物や着こなしが本当に好きだ。やわらかで色鮮やか、華やかな装いを極めた彼女達は、いつ見ても本当に美しい。


 その気持ちや、舞妓さん、芸妓さんについてのうんちくを述べたら、李先生が怪訝な顔をしている。できるだけ分かりやすく言ったつもりだったのに、どうしてこんな顔をされるのか分からなかったが、とにかくあまり興味のない話題だったようなので、その話を続けるのはやめた。


「お腹がすきました」

「そうですよね、昼軽かったし、移動しましたもんね」


 何を食べるか話しあった結果、散策も兼ねて、先斗町まで行って、そこからしばらく歩いたところに、私が京都に来ると必ず行く、おばんざいの食べられる店に行った。そこなら料金もそんなに高くないし、何を食べてもおいしい。


 そこまではちょうどいい散歩になったようだ。四条通をぶらぶら歩いて、時には行きつ戻りつし、呉服屋、和傘、かんざしを売る店を見たり、南座の説明もできた。


 自分が好きなので、かんざしや呉服の説明も一生懸命したのであるが、今考えれば、李先生はそういうものにあまり興味をしめさなかった気がする。


 四条大橋からの眺めはお気に召したようで、鴨川をうっとりと眺めたあと、何枚も凝った、自分を入れた写真を撮っていた。気に入らないと何度も取り直すので、私もお手伝いをした。


 人出の多い日だった。ゆっくり歩いていたらもういい時間になった。その、おばんざいが食べられるお店は、今までの大通りにくらべると比較的狭めの通りにあったが、通り自体もきれいで、お店もきれいで、観光客、地元人らしい人達両方で、短いけれど列ができていた。

 幸い、少し待ったあといい席に座れた。中国の人だから、油を使った、あたたかい料理の方が、味が分かりやすくておいしいだろう。その店の看板メニューの他に、揚げだし豆腐、賀茂なすの田楽、万願寺とうがらしの料理などを頼んだ。


「京都には、『京野菜』といわれるものがあって、この『加茂なす』は「京の伝統野菜」の一つに認定されているんですよ。『なすの女王』と言われているんです。私、この料理大好きなんです』」


 私は「京野菜」、「京」、「田楽」、「万願寺とうがらし」などと書きながら一生懸命に説明した。あっさり通じる言葉もあれば、似ているようで全然違う言葉があって苦労したけれど、スマホで検索すると大体が通じたようである。舞妓さんの説明の時と違って、四条大橋の上で写真を撮っていたさいのように、李先生の顔はまたいきいきとしてきた。


「うん、これは非常においしいです。……『京』、『きょうやさい』、『なすの女王』、なるほど、面白い」


「ねえ、本当においしいですよね。私もここでは久しぶりに食べました」


 ああ、どの料理も、なんて素晴らしいんだろう。

 例えば、こんなに繊細に丁寧に仕上げてくれた、揚げだし豆腐は、いつだってありそうでなかなかない、いつも目に見えるような気がするけれど、なかなか手に取って味わうことのできない、幻想のような料理だ。

 それが今日は私のものになって味わえた。うっとりする衣の薄さ、できれば見惚れていたいくらい軽やかで、ほの明るい色の衣。はしで割ると、こんなにおいしい、だしつゆがじゅっとしみこんでくれる。

 口に運ぶと、カリカリと、またやわらかく、あたたかく、美味でいい匂いで、私の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、すべてを満足させてくれる。そればかりではない。体に優しい。お酒のつまみにもぴったりで、経済的で、そこまで、できた料理だ。


 今日はまだ暑かったし、ビールがおいしい。賀茂なすの田楽も、万願寺とうがらしの料理も相変わらず感動的においしかったが、自分は無意識のうちに、こういう、自分の好きなものを頼んでいたんだな、と思った。


 李先生は横浜中華街の、ご自身の歓迎の食事会の時も、確か、ほとんどお酒は飲まなかった。また、こういう、冷たいビールと一緒においしいものを少しずつつまむというのは、いわば日本の文化の一つである。

 この店の看板料理はまだ来ていないし、李先生は、ビールは、つきあいのようにほんの小さなグラスビールを一つだけ。私も遠慮してビールは少しにしたけれど、お客様なのに、これでよかっただろうか、と思った。


 大丈夫でしたか、と私が訊くと、先生は大丈夫です、という。でも気を遣ってくれているのかもしれない。

「先生は細くていらっしゃいますが、あまり食べないのですか。お酒も飲まないのですか」

「そうですね。あと、お茶はやはり体にいいです。中国茶は」


「説得力がありますね」

「せっとく?」


「説得というのは……なんというのかな」

 私は少し悩んだあと、インターネットの辞典を引いて、こう答えた。


「『説得力』というのは、『会話や文章などで、相手を納得させたり受け入れさせたりする力』のことです」


「なっとく?」


「『納得』は、なんというのか……強いて言えば、違う意見の人の考えを、変えさせることですかね。いや、違うかな……私が言いたいのは、先生を見ていると、中国茶を飲むと、先生のように美しくなれるという気がする、ということです」


「おお!そうですか。沙奈も、やっと気がつきましたか。……日本茶は体を冷やします。中国茶は違います。あなた、食事会でもビールを飲んでましたね。今日も冷たい飲み物をたくさん。いけないことです」


「あー、いけないことなんですかね……」

「はい。日本茶は体を冷やします。ましてや、冷たいビールなんて、いけません」


「冷たいビールはいけないでしょうか」

「はい、いけません!」

 李先生は断言した。


「私の中国茶を飲むと、体が温まり、あぶらも、悪いものもすべて溶かして、体の外に出してくれます。私のところにはいい茶葉が入りますしね……沙奈も、そろそろ気がついた方がいい」


「……確かに、李先生の中国茶を飲むと、温泉に入ったように体が温まるんですよ。頭がくらっとするくらい効いて、苦しくなったことすらありました。そのあと体が軽くなります」

 私は言った。本当のことだった。 


「分かりましたか。……沙奈はいい子ですね。沙奈はとても親切。楽しかったです」


「そうでしたか。よかったです」


「月代先生と私と一緒に、もっと中国茶を勉強しましょう。中国茶の世界がどれほど深いか……グルメライターも喜ぶ。沙奈のためなら、喜んで協力しますよ」


「先生、そこまで言ってくださるんですかっ。ありがとうございます。私、頑張ります」


 「沙奈のためなら、喜んで協力しますよ」……こんなこと、言ってもらったことないなあ。なんだか、中国の人って凄い。力強い。


 その日は、李先生に遠慮してお酒はあまり飲めなかったが、それからもとても楽しかったのである。

 

 最後の方は、李先生から、スマホを出されて、連絡先を好感しよう、いつでも連絡してくれていい、と言ってくださった。


 ただ、李先生は、ラインもフェイスブックもやっていない、という。李先生の使っているインスタントメッセンジャーは、私が全然知らないものだった。きっと中国ではよく使われているものなのだろう。


 李先生とはもっと仲よくなりたかったから、私がそれを使ってまた連絡をとろう、楽しそう、と思い、検索して調べてとりいれようとしたけれど、なぜか、私のスマホでは、何度頑張ってもこれは使えません、と出る。


「李先生、だめです。私のスマホでは使えません」

「本当?」


「もちろん本当ですよ、ほら」


 私はスマホの表示を見せた。

「沙奈、残念ですね」

 と感情豊かに李先生は言った。


 私はまた、こういう、異国の妙にきれいでただものではなさそうな人でも同じ人間なんだな、と思った。同時に、隣国の人で、目の前にいて、せっかく打ち解けてきたのに、ラインもフェイスブックも使わないんだと不思議な思いがした。


 じゃあ、いつ今度連絡をとれるんだろう。もっと仲良くなりたいのに。


 私は、住所までとはいわないから、連絡先を教えてくれないか、そのスマホの電話番号を教えてくれないか、スカイプはやっていますか、と訊きたかったけれど、なぜか訊けなかった。


 そのお店の閉店時間は比較的早かったので、そろそろ出るように、遠まわしに催促がきた。


「李先生、そろそろ行かなければいけません」

「なぜ?」

「あの――」


 なんといっていいか分からなかった。感じのいいお店だけれど、そんなに大きい店舗ではないのに、結構長いこといたし、心なしか、先ほどから急にお茶をつぎにきたり……ウエイトレスは垢ぬけた、優しそうなきれいな人で、始終おっとりした笑顔だけれど、ここから奥に行った時、仲間に、突然するどい声で、何か一言言ったのが聞こえた。何を言っているかは本当に聞こえなかったし、なんとも言えないが、そう聞こえて閉店時間を調べたらそんなに遅い時間ではなかった。

 いいお店だけれど、きっと、むこうはそろそろ出てほしいのだ。都合があるのだろう。


 勘定書きを頼んでから、出るまでのあいだ、李先生とこんな話をした。


「最近、日本にも、本当によく中国の人が旅行していますよね。不躾で申し訳ないんですが、ずっと前から不思議だったんです。……東京の、凄い高級ホテルに、おじいちゃんから孫までの、ご家族連れの方々がいることが珍しくないんです。……あの滞在費、旅行費は、誰が払うんですか?……あのような場合、中国の人は、一番年長の方が全部、払うというのは本当ですか?……じゃあ、あのおじいちゃんが本当に払うんですか?」


 こう訊いたのは、李先生と話をしていて、随分、ストレートにものを言うから、私もそうした方がいいのかな、と思ったからだ。

 でも、そういうと、李先生は、もの凄くとまどった顔をして、何も答えなかった。


 やっぱり不躾だっただろうか?謝った方がいいのかな?


 それとも、中国の人はあんまり謝らないというけど、謝らない方がいいのかな?


 分からないまま、

「あ、大丈夫です。じゃあ、行きましょう」

 と言った。


 ここでまた思ったのだが、ここでの勘定は誰が払うんだろうか。中国ではもてなす側、誘った側が全部払うと聞いたことがあるが、この場合はどうなるんだろう。


 李先生は、旅行先で、目上の人なのに、自分から注文しないし、私に、随分遠慮しているようにしか見えなかった。

 こちらも、ひょっとしたら私が払わないと失礼なことになるのかも、と思ってあまり注文しなかったのだ。


 でも李先生は、

「沙奈、割り勘ですよ」

 と言ってくれたので、正直いってほっとした。


 私は少し多めに払い、明日はどうするのか、お手伝いできることはないか、と訊いた。


 李先生は、明日は一人でアウトレットモールに行きたい、京都からバスで行けるところがあるから時刻表を調べてくれ、とはっきり言う。


「沙奈は明日どうしますか」

「京都駅の近くに泊まることにしたので、明日、ぶらぶらすることにします。京都に来るのも、ぶらっと一人旅するのも久しぶりなんで。ずっと仕事ばかりだったんです」

「沙奈、『ぶらぶら』?」


「あ――、『目的もなく』ってことですかね。……ホテルはどこですか?お送りします」


 すると、李先生は、自分も京都駅の近くにホテルをとっているから送らなくていい、大丈夫だ、そのかわり、このホテルがどこにあるか調べてくれ、と言う。


 ホテルの名前を聞いて検索してみたが、京都駅から近くないとはいえない、中堅のホテル、多分ビジネスホテルである。

 ここの宿泊費は誰が払うのだろうか。また、月代先生が払うのだろうか、と思ったが、そんなことを訊けるはずもない。


「ここから京都駅まで、道がすいていれば、タクシーで十分か十五分くらいです。もうじゅうぶん遅いですよ。私もそっちですし、ホテルの前まででも、お送りさせてください。外国で、女性がなにかあったら大変じゃないですか」


「いいです。じゃあ、京都駅まで一緒にタクシーで帰りましょう。そこから私は歩きます。駅の近くですから」


「今、見たら、すぐ近くではないし、迷ったら大変だと心配です。それに、私の責任ですので」


 私はあくまで、私なりの親切心と、義務感と、李先生とは仲よくなれそう、あと、せっかく楽しかったのに、これで犯罪にでもまきこまれたら大変なことになるということが怖かったのでそう言ったのだ。あたりまえのことではないだろうか。


 ただ、李先生は固辞する。なんとなく、警戒されている感じすらしたので、心配だったが、京都駅まで一緒にタクシーで行って、別れたら、そこでひきさがることにした。


 途中、今いた場所の近くの繁華街で、酔っている人達が車窓から見えて、李先生は面白そうに笑っていた。


「日本人が酔っています」

「私も、京都では初めて見たかも。ここ、さっきのすぐそばで、高くて上品な街のはずなんですけどね」


 京都駅で別れるさい、私は李先生に行った。

「あっちの方向のはずです。どうか、ホテルに着いたら、月代先生にご連絡してくださいね」


「沙奈、またお会いしましょう」

「はい」

「『ザイチエン』。沙奈はとても親切」


「あはは、私もぜひ、またお会いしたいです」


「沙奈、私は計画があるの。月代先生から聞いてください。では」


「計画?」


 計画?なんの計画?……ふりかえった時には、李先生はもういなかった。少なくとも、私にとってはそうだった。酔っていたから?でも……。


 でもそのさいはさして気にせず、ホテルについて、ツイッターで交流できた、京都府内の、同業の女友達と連絡をとったら、幸い、急だけれど明日会えるという。


 そちらとやりとりをしていると、月代先生からラインでメッセージが来た。李先生が感謝しているという。食事のさいに一緒に撮った写真が送られていた。


 写真の中の私は、とてもいい笑顔だった。考えてみれば、まだせいぜい一年前くらいなのに、もう随分前のことのような気がする。


 ――あれはいったい、どういうことだったんだろうか。私は今も、本当のことを知らない。(続く)


引用 デジタル大辞典 「説得力」

https://kotobank.jp/word/%E8%AA%AC%E5%BE%97%E5%8A%9B-683991

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