第344話

~ハルが異世界召喚されてから5日目~


 全身に浴びた魔物の血と自分の汗を湯に浸かる前に洗い流す。もう一度桶で湯を掬い、頭から流した。赤黒い血に染まった髪が、徐々に元の綺麗な赤髪へと変化する。


 帝都にある城の大浴場にミラ・アルヴァレスはいた。湯気による優しい熱気がミラを包み、汚れだけでなく蓄積した疲労をも洗い落としてくれているようだった。


 しかしミラは浮かない表情をしている。


 ──ここ最近、ダンジョンの様子がおかしい。


 フルートベールとの戦争の日程が決まってからというもの、マキャベリーからいつでも進軍できるようにと帝都に常駐している。レベル上げやミラの趣味でもあるダンジョンの探索をここ数日行っているのだが、4日前からダンジョンに異変が起きているとミラは感じていた。


 ダンジョンに入るといつも視線を感じる。たまにだがミラを呼ぶ声も聞こえた。この声を聞いている者は過去にもたくさんいる。中にはダンジョンの奥へ行きすぎて行方不明となった者達の怨念が聞こえていると噂する者もいるのだが、ここ数日ダンジョンはそんな様相を変え、不気味な声はおろか嫌な視線すら感じない。


 このことを報告しても誰もまともに聞いてはくれない。ミラからしても僅かな感覚なので他者からしたら何も感じないと言われても不思議ではなかった。


 これはダンジョンへよく入るミラだからわかることなのだ。


 ミラは前髪の先端から滴る雫の行方を追いながら、考えていると大浴場の入口がサッと開く音がしたと同時に、反響しやすいこの空間に甲高い声が響く。


「ミラ様ぁぁぁぁぁぁん!!!」


 いつもはツインテールの真白い髪を、真っ直ぐにおろした少女ルカ・メトゥスが入ってきた。


 ミラの背中に抱きつくルカ。ルカの小さな両腕でもミラの胴回りを包み込むことができた。ミラは無反応を貫く。


 ルカはしばらくミラのすべすべな背中を鼻腔一杯に嗅ぐと、言った。


「お背中、お流しますね♡」


「用件はなんだ?」


 冷たくあしらうミラだが、背中を流すことには抵抗しない。ルカはミラの背中をキメの細かい泡で包むようにして優しく洗う。


「ミイヒルから報告を受けましたか?」


「ミイヒル?アイツなら今日は特待生達の訓練をしていた筈だが?」


 ルカはミラの背中を泡で包み終わると、今度はミラの片腕をとって、泡をつけていく。


「その特待生達の報告です♡」


「なら相手を間違っている。私は関係ない」


 ミラの腕を滑るようにして泡を広げるルカ。


「それが関係あるんです♡」


 ミラは自分の腕をとるルカに視線を向けた。その視線はルカに話の続きを促していた。


「今日、特待生に新しい者が入隊したのは知ってますか?」


「あぁ、ミュラーが気まぐれで入隊させたようだな」


「その新参者の実力を図る役をミイヒルが担ったんですが、どうやらその新参者は剣を使うらしいんですよ」


 ミラは首を傾げる仕草をしてから、直ぐに自己完結した。


「ステータスには聖属性魔法と土属性魔法を使うと書いてあったが……確かに剣を使ってもおかしくない数値を有していたな……」


 ルカは桶で湯を掬い上げ、ミラに付着した泡を洗い流す。流水の音が大浴場に木霊した。


「剣の師はミラ様だと言ったらしいですよ?」


 それを聞いて、何事もないかのようにミラは立ち上がり、湯に浸かった。広い浴槽には波紋が浮かぶ。ミラは口を開いた。


「よくある手だ。上手く行けば相手の動揺を誘える……それともまさかミイヒルが敗れたのか?」


 ミラは湯に浸かりながら腰を捻って背後にいるルカを見やる。


「いえ、勝ったのは勝ったんですが辛勝だったらしくて……」


 ルカは歩きだしミラの隣で湯に浸かった。ミラは正面に向き直って壁一面窓ガラスになっている外の景色を眺めながら全身に心地の良い湯を堪能する。


 ルカは自分の身体に湯が浸透するのを待ってから言った。


「しかもスキルを獲得したとか……」


「なっ!?」


 ミラは驚き、隣にいるルカの方を向いた。咄嗟に向きを変えたせいで浴槽を満たしている湯が波打つ。


「『奪取』というスキルを修得したみたいです……あぁ、ミラ様……相変わらずお綺麗で……」


「奪取……カウンタースキルか……」


 考え込むミラと心地好い湯の温度のせいでルカはのぼせ始めた。


「ミラ様……そのぉ、剣を教えた者で筋の良い者を覚えていないのですか?」


「いない」


 ミラは即答した。筋の良い者はいたにはいた筈だ。しかし感情は捨て去る。それがミラの掟だった。親しく接するこのルカに対してもミラは余計な感情を捨て去っていた。


 ミラの真っ直ぐな回答にルカは安心する。


 ──ミラ様の心に残る奴は、誰であっても許さない……


 ミイヒルからの報告を聞いた際、いても立ってもいられなくなった。


 もし今その新たに特待生となった者の名前がミラの口から出れば、ルカは直ぐにでも殺しに行っていた。


 すっかり安心したルカは二人しかいな大浴場を泳ぎ回る。


 激しく波立つ浴槽で、ミラは訊いた。


「その者の名はなんと言ったか?」


 ルカはばた足をやめて、波がおさまるのを待った。本当はその者の名前など言いたくなかった。躊躇うようにして呟くルカ。


「…ハル・ミナミノ……」


 ミラは暫く記憶の奥底を辿る。どこかで引っ掛かりを覚えるが思い出せない。ハルの名前をルカに続いて復唱するだけに止まった。


「ハル…ミナミノか……」


 ルカは口元まで湯に浸かり、膨れた頬にためた空気をブクブクと吐いていた。


─────────────────────


~ハルが異世界召喚されてから5日目~


 陽が沈み、観光客のいなくなったクロス遺跡は、その神秘的な様相をそのままに夜の闇に溶け込んだ。


 不気味に聳える塔の前に立つランスロット──いや今はベルモンドと名乗っている──は、主人であるペシュメルガや仲間のエレイン、フェレスが4日前に起きた謎のインパクトの究明に勤しんでいる中、自分の趣味に重きを置いていた。


 おそらく、ペシュメルガも薄々わかってはいる筈だ。新たなミラ・アルヴァレスのような天界からの使いが送られて来たのだとランスロットは思っている。


 ──だから、今から潰したいのもわかるけど、その天界からの使いが戦力になるには、結局何十年も先の話になる。ミラ・アルヴァレスがそうであったように……


 そのミラ・アルヴァレスも大した戦力ではない。それにも拘わらずペシュメルガは当面ミラに対する攻撃はおろか接触すら禁じていた。


 ──天界からどのようないきさつで送られてきたのかを知りたいんだろうけど……ミラ本人は何も知らないみたいだからな……おそらく四日前に送られてきた使者も同じようなものだと思うが……ミラに対して監視までつけるとかやり過ぎな気がするけどね……


 この世界で起きた謎をペシュメルガは何としても把握しておきたいらしい。ランスロットは早々に自分の任務を放置して、着々と進めていたグレアム司祭のドッキリ作戦を実行に移す。


 塔にある地下の実験室へ到着するランスロットは、頭頂部が薄くなったグレアム司祭と相対した。


「お待ちしておりましたベルモンド様」


 かしこまるグレアムにベルモンド改めランスロットは片腕を挙げて応えた。


「やぁ、順調?」


 グレアムは笑顔で答える。


「えぇ!早速完成した魔道具を見て頂けませんか?」


 意気揚々なグレアムに案内され、頑丈にできた扉を開けると、中には魔道具を纏ったレッサーデーモンがいた。


「へぇ~」


 ランスロットは顎に手を当て、レッサーデーモンの全身を眺めた。


「レッサーデーモンよ!ベルモンド様にひれ伏すのだ」


 山羊の頭部に、黒い巻角が二本生えたレッサーデーモンは、コウモリのような翼を広げ、ひざまずき、赤一色に染まった両眼を静かに閉じてランスロットに畏まる。


「すごいね!」


 ランスロットは素直に誉めると、


「いえいえ、これもベルモンド様のお力添えによる賜物……」


 ランスロットはひれ伏すレッサーデーモンを見ながら少し考えた。


 ──これって、どのくらいのレベルの魔物に効果があるんだろうか?レガリア曰く、30前後と言っていたが、もし量産が可能なら……


「…天界戦争の時に役に立つかも……」


 ランスロットはポツリと呟いてから、グレアムに質問する。


「この魔道具の設計図ってある?」


「申し訳ありません。今その設計図を仕上げているところでして……」


「わかった。実際に妖精族に装着させるのはもう少し待とうか?できればこの魔道具を二、三個造ってからとかな?それが終われば、僕が知ってる神について教えよう」


 ひれ伏すレッサーデーモンと同じ様に畏まりながら了承の返事をするグレアム。ランスロットはそんな1人と1体に背を向けて部屋を出た。実験室を眺めながら後ろからついてくるグレアムに言う。


「妖精族はどこにいるの?」


「そのカプセルの中に……」


 ランスロットは一際大きなカプセルの中に入っているユリの母ミーナを一瞥してから言った。


「これの娘だよ」


 グレアムは、それでしたらと言って、ランスロットを案内する。


 独房のような部屋の扉を開けるグレアム。鍵はかかっていなかった。その中で虚ろに俯くユリをランスロットは視認する。


「少しだけ2人にさせてくれない?」


 ランスロットがそう言うと、グレアムは扉を閉めて、部屋の外で待機した。


 ランスロットは考える。


 ──あの魔道具はディータと戦ってる時に、もしかしたら役に立つかもしれない。それよりもこの妖精族をどうしようか……


 ランスロットは妖精族の正統な血族であるユリを眺めた。


 ──一度、立ち上がらせてから涙を流させた方が面白いかもな……


 ランスロットは俯くユリの顔を下から覗き込むようにして視線を合わせる。そして口を開いた。


「誰かの助けを待っているのか?そんな者は決して来ない」


 虚ろなユリの瞳。 


「仮に助けに来たとしてもお前はここから動けない」


 ランスロットは変わらず虚ろなユリの瞳に、僅かに燃ゆる小さな炎を見てとった。


 ──あともう少し……


「…お前は弱いから」


 弱いという部分を強調しながら言うと、ランスロットは部屋から出た。


 ユリはこの夜ここから脱走した。

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