イチゴとモモと図書館の教授

橘 志依

教授の図書館

 世界一綺麗な景色を見たとき、人はどんな反応をするのだろうか。


 絵描きはその風景をキャンバスに描こうとするだろう。

 写真家は、一番美しく見える瞬間を写真に撮すだろう。


 私は物書きなので、きっとその情景を文章に表そうとする。

 私がまだ書けないのは、ただ、私がまだ世界一の美しい景色を見たことがないだけ。


 そう思っていたが、世界一美しい情景とはなんなのか。それすらもまだわかっていない。


 私はしがない大学教授で、片手間に小説を執筆しているだけのつまらない人間だ。

だから、つまらない文章しか書けないのかと思いつつも、頭の中にはいくつもの情景が浮かんでくる。


 そんな私が、いつか、文章として残すことが出来ると良いなと思った出会いがある。


 その女性と出会ったのは、大学内の図書館だった。

いつも通り、本棚に近い椅子に座って、ひたすらに文字を追いかけていた時のこと。


 ふと、人の気配を感じて本棚の方に目を向けると、女性が本棚の前で立ち読みをしているのが見えた。


 長い黒髪を後ろで一つに結んで本を見つめる姿は、“立てば芍薬”とはこんな女性を指すのだろうかと思わせる。


 静かに本を読む女性を少し眺めていると、耳に掛かっていた髪の毛が、はらりと落ちた。

女性はしばらくそのまま本を読み続けていたけれど、流石に邪魔になったのか、もう一度耳に掛けようとする。


 その仕草が妙に魅力的で、もう一度見たいなと思っていたら、上手く耳にかからなかったようで、すぐにまた髪の毛がはらりと落ちた。


 もう一度、女性は耳に掛けようとするが、それも失敗に終わったらしい。

顔をしかめて、もう一度、耳にかける。


 その動作はだんだんと粗っぽくなっていき、最初に感じた美しさはどこかへ行ってしまった。


 女性は諦めたようで、一度顔を上げる。


 その瞬間、目があった。


 ずっと見ていたことがバレて気恥ずかしさを感じながらも、目を逸らすことが出来ずに私はずっと女性を見ている。


 女性も、目を逸らすことはない。


 そのまま、一体何秒が過ぎ去ったのだろうか。


 女性が私に笑顔を向けて、持っていた本を閉じ、本棚に戻すと近づいてきた。


 女性が歩く姿を見て、“立てば芍薬”であっても、“歩く姿は百合の花”とは限らないのだと悟った。


 女性は私に近づくと、図書館ということを気にしてか、小声で話しかけてきた。


「あの、少し話をしませんか?」


 ずっと見ていたことに対する苦情だろうか。小声のせいで、感情が上手くつかめない。


 私は頷いて、立ち上がった。

 そのまま外へ出ようとすると、女性が半歩後ろをついてくるのがわかった。


 図書館の外へ出ると、夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。


 比較的に緑が多い立地の図書館だが、夏の暑さを和らげる効果はまるで無い。


 図書館の前にはいくつかベンチがあり、そこへ女性と一緒に向かうと、座る前に女性は一度伸びをして、勢いよく座る。


 “座れば牡丹”という幻想も、打ち砕かれた。


 姿勢は良いのに、足を投げ出して座る姿は牡丹に例えることは出来ないな。


 そんなことを考えていると、女性は私を見上げて話しかけてくる。


「ねぇ、噂の教授ですよね? 図書館の教授」


 ここにいるということは、この大学の生徒だということは分かっていたけれど、突然不本意な渾名で呼ばれて思わず顔をしかめる。


「そんな顔、しないでくださいよ。文学部の青木先生ですよね。有名ですよ」


「研究室は、教授棟にあるから、図書館の教授というのは不本意なんだよ」


 図書館の教授。それは不本意につけられた私の渾名だ。講義の無い時間はいつも図書館にいることから付けられた渾名らしいけれど、学部生が試験勉強に勤しんでいる期間などは、きちんと教授用の部屋にいる。仕事はきちんとこなしているはずだ。


「君は、学部の生徒さんかな? うちのゼミ生ではないよね」


 見たことがない顔だったから、ゼミ生ではないはずだ。生徒数の多いこの大学は、学部生の顔を覚えきることなど、不可能に近い。けれど、顔を合わせる回数の多いゼミ生くらいなら覚えていられる。


「ゼミ生ではないですけど、文学部の生徒ですよ。先生の講義を受けたこともあります」


「そうだったのか。生徒が多いと、なかなか講義を受ける生徒の顔と名前を覚えることは出来ないからね。まずは自己紹介からお願いしてもいいかな」


 自分の受け持つ講義をとっている生徒ならば、覚えておく良いきっかけになる。


「あ、はい。わたしは文学部2年の一ヶ谷 恵いちがや めぐみです」


 そう言って笑顔を向ける一ヶ谷さんは2年生らしい、大人と子供の境界線上に立っているような、大人っぽさと、子供っぽさを兼ね備えたような女性だった。


「一ヶ谷さんね。覚えておこう」

「是非、覚えておいてください」

「覚えた生徒でも、採点は甘くしないよ」


 先生のなかには、仲が良い生徒の採点を甘くする者もいるらしいけれど、私としてはきちんと講義を受けて、理解を示した生徒を評価したいと思っている。


 その事で釘を差すと、一ヶ谷さんは苦笑した。


「別に、採点を甘くしてほしいっていうお願いじゃないから良いです」



 一ヶ谷さんとは、ちょうど1コマ分くらいの会話をした。


 それでわかったことは、彼女の成績は1年終了時には「優」と「良」しかなかったこと。


 彼女の興味は、私個人としてではなく、図書館の教授と言われる私に対してのものであること。


 そして、彼女のお願いは、私の研究室に来てみたいということだった。


 「研究室に来るのは良いけれど、来週からは試験期間が始まるから終わってからか、今日しかないよ」


 金曜日の午後である本日は、試験期間前で教授の研究室へ入室できる最後の日だ。


 私の講義の試験はレポートの提出なので、とくに問題用紙があるというわけではないが、規則は守らなければならない。


 「じゃあ、今からお伺いしても良いですか?」


 彼女は、午後の講義が休講になったので時間があると言った。


 とくに断る理由もないので、私と一ヶ谷さんは教授棟の私の部屋へ向かった。

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