4-10 なぜ戦うのか
血に染まっていく冬の地平線はさながら地獄絵図であった。しかしこんなものは見慣れていた。
ミッコとフーの打ち合いの背後で、フーたちの騎馬突撃をまともに喰らった難民たちの阿鼻叫喚がこだまする。女子供の悲鳴が、男たちの断末魔が、肉が潰れ骨が砕ける音が響く。しかしまだ剣戟は続いている。一緒に斬り込んだヤリたちもフーの手勢に囲まれているが、しかし矢風、銃声、雄叫びが鳴り止む気配はない。
唯一、エミリーのことだけは気掛かりだった。しかしエミリーはミッコのことを信じた。信じて送り出してくれた。だからミッコもエミリーの無事を信じた。今はそれしかなかった。
ミッコの中にわずかに生じた一瞬の不安──それをフーは見逃さなかった。今、エミリーを助けに行く余裕はなかった。打ち合うたび、フーの偃月刀は疲弊するどころかその圧を増していった。そしてその攻撃は徹底してミッコの弱点を狙っていた。
かつてフーに食い潰された左目は見えない。その左目の死角を狙うフーの攻撃は、ほぼ感覚だけで防いでいると言ってもいい。状況はまだ互角ではあるが、しかしこんな綱渡りがいつまでも保てるわけがない。
退けば死ぬ。ならば活路は前にしかない──数多の死線を共に戦ってきたゲーフェンバウアーもそれは理解していた。だからミッコは前に踏み込んだ。
ミッコはフーの懐に潜り込むと、組み付き、フーの顔面を殴った。しかし渾身の力を込めた右の拳は砕けてしまった。辛うじてウォーピックは握れているが、感覚を失った指はあらぬ方向に曲がり、手袋からはむき出しになった骨が突き出していた。対して、フーは口元にほんの少し血を滲ませるだけだった。
一瞬の硬直のあと、ミッコはフーに馬ごと投げ飛ばされた。
投げ飛ばされ、馬ごと倒れた。ミッコは何とか体勢を立て直したが、ゲーフェンバウアーは起き上がれないでいる。
ミッコは左手でサーベルを抜き、構えた。対峙する馬上のフーは、その偃月刀は、完全にミッコを捉えていた。
風が吹く。どこからか、殺せと叫ぶ声が聞こえてくる──いや、正確には言葉はわからないが、しかし恐らくはそんな言葉だろう。
殺せと叫ぶ喊声に合わせ、勝負を決めるその一撃が、命を刈り取るその殺意が、来る──。
しかしそのとき、矢がフーの頬を掠めた。ほのかに香る血と毒の臭い。間髪入れず、ヤリが罵詈雑言を吐きながら詰め寄り、口から毒霧を吹いた。しかし顔面に毒霧を喰らってもたじろぐことなく、フーはヤリを馬ごと切り飛ばした。
血飛沫を上げ宙を舞うヤリに続き、フーの背後からウィルバート・ソドーが剣を振り下ろす。しかしやはりというべきか、フーは難なくそれを受けると、返す刃でウィルバート・ソドーの胴鎧を切り飛ばした。
板金甲冑が大きくへこみ、ウィルバート・ソドーは落馬した。板金甲冑のおかげで胴体は一刀両断されずに済んだが、しかしすぐには立ち上がれそうになかった。
難なく二騎を退けたフーが再びミッコを見る。フーは笑っていた。それは勝者の笑みだった。
しかし、まだ波状攻撃は終わっていなかった。
一騎、ミッコの背後に馬蹄が近づいてくる。かすかな火薬の臭い。そして火打石が甲高い音を立て、銃声が響いた。
フーを眼前に振り向くことはしなかった。その一発がエミリーの放ったものであることに疑いはなかった。
弾丸が
組み付き、地面に体を押し倒し、そしてウォーピックを打った。ピックの先端は寸分違わずフーの心臓を打った。しかし手応えはなかった。ピックは
なぜエミリーが持っていた本をフーが胸元にしまっていたのか──そんな疑問とともにフーが起き上がり、再び襲い掛かってきた。
凄まじい膂力がミッコの肉体を握り潰そうとする。ミッコは抗い、押し返した。そうして二人は地面を転がり、またお互いの武器と拳をぶつけ合った。
馬から引きずり倒してなお、その巨体は分厚い壁のように見えた。しかしその姿はミッコと同じくボロボロだった。兜はなく、結った長い黒髪はほつれ、
これで何度目だろうか、また踏み込み、互いの得物をぶつけ合った。お互いにボロボロではあるが、しかし真っ向からぶつかり合う殺意に一切の揺るぎはなかった。
生きるか死ぬか、打ち合うたびに感情が迸った。
俺たちはなぜ戦っているのか? こんな東の地の果てで。誰からも見捨てられた滅びゆく地平線の片隅で。誰からも受け入れられず、どうあがいても滅び去るしかない運命の中で。
なぜ戦うのか──〈
帝国軍にはいろんな連中がいた。誇り高き騎士、金のために戦う傭兵、社会の鼻つまみ者……。そして、誰もが戦いに理由を求めた──金のため、名誉のため、未来のため……。家族のため、仲間のため、国家のため、王のため、神のため……──誰もが何かを信じ、信じた何かに殉じた。
しかし、ミッコには戦う理由がなかった。ミッコは戦えれば何でもよかった。ミッコにとっては戦うことこそが目的であった。フーと打ち合う中で、ミッコは改めてそれを自覚した。
俺は、俺たちは、戦いたいから戦った。誰のためでもない。正真正銘、自分のための戦い。これまでも、そして今も──……。
俺たちは同じだ──少なくともミッコはそう感じた。
たぶん、この思いは誰からも理解されないだろうし、受け入れてももらえないだろう。現に、ミッコは平和を目指した戦後社会への疎外感から逃避し、フーは王として新たな破壊と混沌を打ち立てようとし敗れた。そしてその過程で二人は一人の女に依存した。しかしこの思いは、愛した人にさえ受け入れられず、拒絶されるのはわかりきっていた。それでも今は、自分自身と、愛した女のために二人は戦っていた。
風が咆哮する──遥かなる地平線に血の雨を──と。
傷付き、敗北を知ってなお抗い、ボロボロになりながらも命を削り合うこの瞬間は楽しかった。愛おしいとさえ思えた。
生きるか死ぬかの戦いである。負けた方は死ぬ。しかし今、二人はこの巡り合わせに没頭した。
凍てつく冬の風は熱く、心地よかった。
そうして、ミッコはフーの偃月刀を打ち砕き、再びウォーピックをフーの胸に打ちつけた。
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