2-4 孤影
雨の止んだ空に、夏の風が吹き抜ける。
ミッコは
原野に続く痕跡を見つけたときは、正直ホッとした。同じ無人の地でも、あんな
獲物を追うとき、部族の戦士たちは決まって「臭いを嗅げ」と言った。騎馬民の血の教えに従い、ミッコはエミリーの匂いを辿った。
風雨に晒されるままの痕跡は、フラフラと揺れ動きながら東へと進んでいる。足跡、食まれた草、糞尿……。そして自然には残りえぬ人の痕跡……。どんな僅かな痕跡も見逃すまいとミッコは目を凝らし、そしてそれを追った。
獲物の追い方は身についている。しかしミッコは焦っていた。確かに人の痕跡はあるが、しかし今のところ食事の形跡も火を焚いた形跡もない。つまり、エミリー自身は雨に濡れた状態でほとんど休んでいない可能性がある。
暑さのせいか、焦燥感に汗が滲んだ。エミリーがいなくなってまだ半日ほどだが、この地では何が起こっても不思議ではない。エミリーの身の安全を考えれば、全速力で追い駆けていきたかった。一方で、予断を許さぬからこそ、どんな痕跡の機微も見逃すわけにはいかなかった。無人の野とはいえ、生命は息づいている。野生生物の痕跡も散見され、道中、熊のような捕食者とも目が合った。それらは全て判断の材料となる。だから、いくら気が逸っても、足歩はできるだけ慎重を心掛けた。
しかし、結果的にはそれが裏目に出た。
どこまでも続く地平線に、色のない陽が沈んでいく。
雲に覆われた空から、夜の闇が這い寄る。陽が落ちる前に追いつければと思ったが、しかし追いつけぬまま陽は落ちた。
松明を焚いてみたが、月明かりどころか星明かりさえない夜は思った以上に暗く、捜索は困難を極めた。
諦めはつかなかったが、ミッコは野営を始めた。
岩陰を背に、火を焚き、腰を下ろす。慣れたものだった。独りだけの野営は何度も経験してきた。訓練のとき、敵地に潜り込んだとき、原隊から逸れたとき……。どんな苦しい状況下でも、ミッコは生き抜いてきた。
しかし今は、夜明けが全く想像できなかった。夜は暗く、這い寄る闇はほとんどミッコを呑み込んでいた。
風の声が聞こえてくる──人か、獣か、あるいは……。
流れる汗が止まらなかった。夏だというのに、ミッコは震えていた。
ミッコは今、真の孤独を知った──今までは、例え夜に独りでも、帰る場所があった。しかし今、ミッコに帰る場所はない。
〈教会〉を発ち、〈帝国〉の国境を越え、冬と春が過ぎた。故郷の人々は遥か遠く、道中の出会いと別れも絶えて久しい。エミリーと共に語った東の果て、誰もいない場所を目指すその旅路は、あまりにも遠いところまで来てしまっていた。
遥かなる地平線──全ての騎馬民族の始祖たる覇王が生まれ、駆け巡り、そして滅ぼしたとされる見ず知らずの故郷──それはあまりにも広すぎた。
黒く塗り潰された地平線が視界を覆う。
陰りゆく火を前にしても、体は動かなかった。ミッコは今、火を見つめることしかできなかった。そんなとき、ゲーフェンバウアーの静かな鼻息がミッコの頬を撫でた。
愛馬の体温が、ミッコを冷静にさせてくれた。〈帝国〉と〈教会〉の最後の戦いが終わったときも、彼はこうして一緒にいてくれた。共に戦い続けた確かな絆が、ミッコの背を支えてくれた。
ゲーフェンバウアーがいなければ、きっと発狂していただろう。それほどまでにミッコは闇に恐怖していた。同時に、エミリーも同じ気持ちなのかもしれないと感じた。それを思うたび、自分が情けなくなった。手を繋ぎ、共に歩むと決めた人が過酷な環境に苦しんでいるときに、突き放してしまった。ギリギリで踏み止まっているときに、闇の向こうへと追い込んでしまった。
ミッコは枯れ枝を火にくべた。消えかけていた火は僅かだが燃え上がり、うっすらと夜を照らした。
ミッコは火の色を見つめた──深緑の瞳が振り返り、金糸の髪が地平線になびいた。そんなエミリーの姿が見えた気がした。
そして思い出す──確かに歩んできた旅路。それはエミリーと一緒だったからこそ歩むことができた道だった。それはエミリーと一緒でなければ、決して進むことのできなかった未来だった。
(共に進むのだ。たとえこの地に未来がなくとも……)
ミッコは必ずエミリーを見つけ出すと誓った。そして見つけたら、今までは照れ隠しにしていた、偽らざる思いを素直に伝えようと誓った。そして許されるのならば、心の底から彼女を抱き締めようと誓った。
食欲はなかったが、ミッコは干し肉と酒をかき込み、腹を満たした。
ミッコは目を閉じ、闇を見つめた──明けぬ夜はない──そして闇に体を沈め、心を火の灯りに休めた。
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