2-5 繋がれた手

 夜明け。闇が薄れると同時にミッコは目覚め、そして追跡を再開した。


 再び痕跡を辿る。焦りはない。緊張感は一定に保たれているし、集中力も切れていない。独りの夜を過ごし、覚悟は決まった。今はどれだけ地平線が広くても、迷いはない。


 夜の闇が溶けていく。雨雲は消え、夏晴れが色褪せた原野に照りつける。


 なぜエミリーは離れていってしまったのか──道中、考えることといえばそれだった。

 と呼ばれる存在との接触を境に、その精神は明らかに異常をきたしていた。

 異変の全てをそののせいにしてしまえば気持ちは楽になった。しかしそれでは何の解決にもならないことは、ミッコ自身が痛切に理解していた。

 と呼ばれる存在はただのきっかけに過ぎない。旅の始まり、いやそれ以前から続く目まぐるしい環境の変化──オジアスとの政略結婚、ミッコとの駆け落ち、戦狼たちストレートエッジとの殺し合い、酒場の親父との口喧嘩、赤の親父アンナリーゼの存在、奴隷商人たちとの旅路、狼王の遺児フーの疾駆……──それら積もりに積もったものが爆発した結果が、この現状であろう。

 これまで、ミッコは真にエミリーの心に寄り添ってこなかった。上辺だけは甘い言葉を囁き、自己の優位と正統性をあげつらい、不都合には目を瞑ってきた。彼女の感情の発露に、うんざりさえしていた。そして愛想を尽かされた。


 情けない話だった。鼻で笑うような痴情の縺れに、ミッコは今陥っていた。


 エミリーと再び巡り逢えたとしても、きっと、何の屈託もなく笑い合っていたあの頃には戻れない。それでも許されるのであれば、再び手を繋ぎたかった。抱き締めたかった。独り善がりな思いだとしても、今は彼女と再び歩みたかった。


 たった一日、しかしそれはあまりにも大きな別離だった。そしてそれを埋めるべく、ミッコは後を追った。


 水の音。川の音が夏風に流れてくる。

 川の手前ほどから、痕跡は右往左往を繰り返していた。そしてそれは川岸で途切れていた。

 川は増水し、荒れていた。対岸には、白馬が倒れ込んでいた。すぐそばの木陰には、人影が蹲っていた。

 見間違うはずもなかった。白馬はアルバレスであり、人影はエミリーだった。

「エミリー! エミリー!! 俺だ! ミッコだ!!」

 ミッコは声を上げた。まず、アルバレスが顔を上げ反応した。しばらくして、エミリーもピクリと動いた。

 木陰に蹲っていたエミリーが立ち上がろうとする。しかし体は動かないのか、辛うじて這うことしかできていない。

「動くなエミリー! そこで待ってろ!」

 見ていられず、ミッコは制止した。

「アルバレス! 俺たちが行くまで、エミリーのそばにいてやってくれ!」

 エミリーは泳げない。にも関わらず荒れた川に突っ込むなど、やはりその精神はおかしくなっているとしか思えなかった。

 一刻も早く合流しなければならない。ミッコは左右を見渡し、渡河できる場所がないか確認した。しかし渡れそうな場所は近くにはなかった。アルバレスが踏み込んだ川岸が、最も川幅が狭い場所ではあった。

 エミリー同様、ミッコも泳げない。しかし戦場では必要とあれば川を渡った。追い詰められれば、命懸けで泳ぎもした。

 ミッコとゲーフェンバウアーの意志が一つとなる──今がそのときだ──ミッコは川岸から離れ、助走距離を取った。


 迷えば敗れる──共に駆け抜けた幾多の戦場に思いを重ね、ミッコはゲーフェンバウアーの馬腹を蹴った。


 人馬の呼吸を合わせ、駆ける。風を読み、アルバレスの馬蹄を辿り、そして勢いのままに川岸で踏み切る。


 風に乗り、ミッコは跳んだ。


 濡れることはなかった。体は川を跳び越え、馬蹄はしっかりと地を踏みしめていた。


 ミッコは馬から飛び降りると、エミリーに駆け寄った。

「エミリー……!」

 倒れている体を起こし、震える手を取る。濡れた金糸の髪をかきあげ、その顔を窺う。

 目蓋の奥に、弱々しい深緑の瞳が覗く。

 ミッコはエミリーの体を抱き締めた。服は濡れ、体は震えていた。夏だというのに、その体は凍りのように冷たかった。たった一日の別離なのに、その体は老人のように瘦せ細っていた。


 か細い声が、ミッコの名を呼ぶ。


 もう二度とこの手を離さない──ミッコはエミリーの手を握り、そして自らの思いの全てを打ち明けた。

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