1-12 狼王の遺児フー②

 視線が交わった瞬間、アンナリーゼの目の色が変わった。

「アデーラがやられた」

 そして状況を伝えた瞬間、アンナリーゼの顔から初めて微笑みが消えた。


 吹き荒ぶ風が凍りつく。硬直する赤兎旗に向かい、狼のトーテムが吼える。戦狼たちストレートエッジの戦士の一人が首級を掲げる。討ち取られたアデーラの生首から滴る流血が、狼のトーテムを赤く染める。


「お姉ちゃん? お姉ちゃん!? いやぁぁぁあ!」

 次姉アデーラの生首を目にした瞬間、アリアンナが錯乱状態に陥る。

 アンナリーゼはすぐに妹を抑えつけるよう部下に命じた。ただ、錯乱するアリアンナを真っ先に抑えたのはエミリーだった。

 泣き叫ぶアリアンナをエミリーが抱き締める。深緑の瞳には涙が滲んでいた。今までの諍いが嘘のように、その目は確かにアリアンナの思いに寄り添っていた。

 アンナリーゼは錯乱するアリアンナを馬車に押し込めると、疾駆の角笛ホーンを鳴らした。

「駆ける! イズマッシュはもうすぐだ! 敵に構わず突っ走れ!」

 疾駆の合図とともに全員が駆け出す。迫る騎馬、降り注ぐ矢雨に向かい、鞭が、拍車が、馬の足を駆り立てる。

「ミッコ、エミリー! 二人はこれより私の指揮下に入れ!」

 ミッコが承服すると、エミリーもマスケット銃に弾丸を装填し、燧石フリントを起こした。その姿を見てミッコはようやく安堵した。言葉こそなかったが、その目には戦う者の意志が燃えていた。

「マスケット銃でもクロスボウでもいい! 手が空いている者は全員射撃の準備をしろ! 狼王の遺児は必ず行く手に現れる! 私の合図とともに、ありったけの矢弾を浴びせるのだ!」

 駆けるアンナリーゼが弓に矢をつがえる。今は飛んでくる敵の矢は見ていないし、矢に当たる不運な味方も見ていない。その視線は奴隷商人を束ねる赤の親父のものではなく、獲物を探し待ち構える一人の狩人のものと化している。


 どこから来るか──ミッコも目を凝らして土煙の中を探った。今、狼王の遺児は完全に姿を消している。ミラーとイワレンコフも見当たらず、状況は風の声と血の色から想像するしかない。

 襲来する戦狼たちストレートエッジの敵影を視認するたび、ミッコは驚き、そして安堵した。みな、頭目のフーに勝るとも劣らぬ強者ばかりだったが、それでもまだ対処できる相手だった。ただし今は、打ち合うことはできても、殺し切るまでの余裕はなかった。


 はち切れんばかりの緊張が続く──それがいつまで続くのか──そんな思いが頭を過ぎったとき、あの尋常でない風が三度みたび吹いた。 


 唸る矢が風となる。真正面から飛んできた一矢が、アンナリーゼの隊商を切り崩す。射抜かれた奴隷の馬車からは、悲鳴と断末魔が漏れ聞こえてくる。

 目の前、狼王の遺児フーが猛然と突っ込んでくる。

「フーだ! 殺せ!」

 アンナリーゼの一矢を皮切りに、馬上から、馬車から、あらゆる矢弾がフーただ一人目がけ発射される。

 フーは偃月刀を手に斬り込んでくる様相だったが、しかし圧倒的な弾幕を前にして横に逸れた。

 それでも追い撃つ矢弾は止まない。エミリーもマスケット銃の引き金を引く。馬上で火花が散り、弾丸が風を切る。そして確かな血とともに硝煙が風に流れ吹く。

 隣で激発する火はミッコの心を勇気付けてくれた。ミッコは矢を引き絞り、できる限りまで獲物を引きつけた。

(敵は強い。しかし恐れるな──)

 そして放つ。刹那、フーは馬と共に跳んだ。しかし、ミッコが渾身の力を込めて放った矢は、確実にフーの兜に突き刺さった。


 血の雨が降る。あらゆる弾幕を受けながら、フーは空を飛んでいた。それも自らの馬を庇うように、自身の体を盾としていた。


 地に落ちるフーの横を、赤兎旗が駆け抜ける。アンナリーゼを先頭に、隊商が群がる戦狼たちストレートエッジの襲撃をいなしながら戦場を突き破る。


 あれは確かに死の雨だった。しかし振り向き様、ミッコはその目で見た。背後、多数の矢弾を受け、血だるまになってなお、狼王の遺児は立っていた。そしてその目は、確かに生きていた。


「みな、東に駆けるのだ! 生きてイズマッシュで再会しよう!」

 部下を鼓舞するアンナリーゼもまた、ミッコと同じくフーを見ていた。その目に浮かんでいた微笑みは、今はどす黒い炎となって燃え盛っていた。

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