1-13 夜明けの色

 どれほどのときを駆けたのか。追われるがまま、赤兎旗は東へと走り続けた。長く短い一瞬の春の果て、そして旅は終わった。


 赤いウサギの紋章が地平線に姿を現す──ミッコとエミリーにとっての中継地、そしてアンナリーゼら奴隷商人たちにとっての目的地──ミッコたちは、とうとうイズマッシュに辿り着いた。


 重厚な木造の砦に赤兎旗がはためく。砦に近づくにつれ、風がその騒めきを増していく。

 汚泥に塗れた赤兎旗が門をくぐる。イズマッシュに暮らすあらゆる視線がアンナリーゼの隊商に注がれる。そして惨状は伝播し、瞬く間にイズマッシュの街は大混乱に陥った。


 目的地に到着してもアンナリーゼはサーベルを抜いたままだった。隊商の兵の多くは休む間もなく、次なる戦闘の準備を始めている。

「アリアンナ! すぐに地域社会コミュニティの長老たちに伝令を出して! 今こそあのイカレた狂人ども、フーと戦狼たちストレートエッジを根絶やしにしてやるのよ!」

「でもお姉様……。お姉ちゃんが……」

「いつまでも泣いてないで立ちなさい! 〈嵐の旅団コサック〉の赤の親父に喧嘩を売ったらどうなるか、私たちで思い知らせてやるのよ!」

 赤の親父の次女アデーラの死を受け狼狽するアリアンナを尻目に、アンナリーゼは独り気を吐いていた。しかし胸倉を掴まれても、罵声を浴びせられても、アリアンナはただ泣いているだけだった。

 かつての物腰柔らかな姿と比べれば、激情に駆られるアンナリーゼは明らかに冷静さを欠いているように見えた。しかしミッコはその本質が理解できるほどアンナリーゼのことを知らなかった。

「野戦で片を付ける! 打って出る準備をしろ! 狼王の遺児の名を恐れるな! 騎馬民の末裔としての気概なくば、籠城しても嬲り殺しにされるだけだと思え!」

 あの男に、戦狼たちストレートエッジ相手に野戦で勝てるのだろうか──狂猛なる偃月刀の切れ味を思い出すたび、ミッコは震えた。

「ミッコ、エミリー。給金を受け取ったらすぐに街を出なさい。フーの主力が来たら逃げられないと思った方がいいわよ」

「……いいのか?」

「これは私たち〈嵐の旅団コサック〉の戦いよ。もし残って戦ってくれるならありがたいけど、でも契約はここまで。あなたたちにその義務はない」

 アンナリーゼの言葉にミッコは安堵し、そして迷った。ここでイズマッシュの街を出るということは、一時だが旅の連れ合いだった彼女らを見捨てることになる。単なる巡り合わせとはいえ、共に戦い、共に命を懸けた。その繋がりは短くも厳然としていた。

 奴隷商人たちにあれだけ反発していたエミリーも今は困惑しているようだった。しかしミッコは提言に従った。

「アンナリーゼ。俺たちは行く」

「わかったわ。それじゃあ最後に一つお礼を言わせて」

 アンナリーゼは畏まって姿勢を正すと、最初に出会ったときと同じように一礼した。

「私の目は確かだった。あなたたち二人は強く、背中を預けるに足る人物だった。それを確認させてくれてありがとう」

 間近に危機が迫っているというのに、アンナリーゼの表情はどこか晴れ晴れとしていた。

「じゃあね二人とも。旅の幸運を祈っているわ」


『共に歩む二人の旅路に、繋がれた絆に、大いなる未来がありますように──偉大なる〈東の覇王プレスター・ジョン〉の導きの許、遥かなる地平線に血の雨を』


 赤の親父アンナリーゼは祈りの言葉を添えて胸で十字を切ると、別れの返事を待たず陣中へと走っていった。


「これでよかったの? 一緒に戦ってあげなくても……」

「わからん。でも俺たちにできることは限られてる」

 エミリーの問いに意味はなかった。お互い、答えなどないことは理解していた。

「それに、ここは俺たちの目的地じゃない。遥かなる地平線の果てはまだ先だろ?」

 自らに言い聞かせるように、ミッコはエミリーに微笑んだ。エミリーは微笑んでくれたが、しかしその瞳の奥を見ることはできなかった。


 やがて、無言のうちに二人は出立の準備を始めた。


 彼女らのためにできることは確かにある。しかしミッコはもう考えることを止めていた。


 ……どんなに強い力で道を切り拓こうとしても、どんなに強い意志で逆境に立ち向かおうとしても、抗えない流れというのは確実に存在する。それが一個人で変えられるものでないことを、ミッコは戦争で思い知った。父や兄たち、部族の同胞に騎兵隊の仲間たち、そして最後の戦いを共に駆けた黒騎士……。帝国軍で寝食をともにした多くは、そんな愚かな意志によって死んでいったのだから……。


 契約給金の支給には、四人組の隊長格だったミラーが立ち会った。同じく四人組で一緒だったイワレンコフはいなかった。イワレンコフは死んだ。その首はアデーラのように狼のトーテムに掲げられていた。

 ミラーの顔色は悪かった。フーとの戦いで右足の肉は削げ、今は松葉杖をついて歩いている。

「じゃあな。短い間だったが世話になった」

 その言葉はいつも通り簡潔だった。

「これからどこへ行くんだ?」

 去り際、珍しくミラーが訊ねてきた。

「東へ……。東へ進む」

 答えたのはエミリーだった。その言葉に迷いはなく、しかしその視線はどこか遠くを見ていた。


 砦にはためく赤兎旗を背に、ミッコとエミリーは多くの避難民たちとともにイズマッシュの街を出た。避難民の群れからはすぐに離れた。そしてまた二人で東への旅を始めた。


 一日、風に身を任せ進んだ。夜は二人とも眠れなかった。


 一夜が明けた。西の地平線は燃えていた。


 しばらくの間、ミッコとエミリーは何をするでもなくそれを眺めていた。流れ吹く風の哭き声は虚ろなものだったが、しかし夜明けの色は確かな血に染まっていた。

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