第一章 東に吹く風
1-1 流れ風
地平線を吹き抜ける風が微かに軋む。
ミッコは馬首を東に向けたまま、風の声を辿った──やはり跡をついてきている──五感を刺激するそれらを改めて確認し、ミッコは心の準備を整えた。
春。うっすらと白む雪解けの街道と、傾き始めた空色を遠目に、ミッコは横で馬を並べるエミリーを見た。つば広の旅の帽子から覗く深緑の瞳、風になびく金糸の長髪は、数ヶ月の旅路を経てなお、いつも通り美しかった。
「あのさエミリー。ちょっと話したいことがあるんだけど」
「どうかしたの?」
「ちょっと面倒事なんだけど、何を言われてもキョロキョロしないで、そのまま馬を進めてくれ。あと銃や剣にも触らないように」
エミリーが身構えないよう、ミッコは努めて軽い口調を意識した。エミリーは訝しんだが、その表情はまだ笑顔だった。
「実は、前の街から誰かにつけられてる」
「それ本当……? 誰なの? まさかオジアスの奴が追手を……?」
「雇われどころか完全な素人だよ。たぶん賊ですらないから、金目当てのゴロツキかチンピラじゃねぇかな」
ミッコは現在把握している情報を淡々と伝えたが、しかしエミリーの表情は見る間に強張っていった。
どこで足が着いたのか──恐らく、先の街で香辛料を買ったときだろう。〈帝国〉では香辛料の流通量は少なく、北東部の辺境に行けばほとんど貴重品に近い。購入できる人間は必然的に金持ちに限られる。それに加えて、エミリーは〈帝国〉よりも都会的な国家である〈教会〉の貴族の令嬢である。どんなに旅装を着崩しても、育ちの良さと洗練された色気は滲み出てしまうものである。
街を出てから、ミッコは追跡者が何者なのかを調べた。相手が手練れの場合、こちらが追跡に気づいたことが発覚すれば対策を打たれるため、エミリーには今の今まで伝えなかった。
結果的には追跡者は大した連中ではなかった。数は五、六人。単独では何の行動もできないような群れで、わざと痕跡を残し誘いをかけると何の警戒もなしに乗っかってくるお粗末な連中でしかなかった。
「エミリー。俺が合図で走り出したら、真後ろについて来てくれ。周りは気にしなくていい。撒くだけなら簡単だから」
「わかった。でも、もしまた跡をつけられて、寝込みを襲われたりしたら……」
「そうならないように出鼻を挫く。軽く脅しときゃ追ってくる気も失せるだろ」
エミリーを安心させるべく、ミッコは強い口調で言い切った。騎士の家系に生まれたエミリーは女性ながら一通りの武芸に通じているが、ミッコからすればそれはいわゆる貴族の戯れでしかない。命のやり取りなくば、闘争が何たるかを真に理解はできないだろう。戦いを前に、とにかく尻込みさせてはいけない。だから戦術の意図を細かく伝えることは避けた。今は明確な指示と強い意志こそが重要なのである。
「アルバレスはいい軍馬だ。安心して身を任せろ」
ミッコは大真面目に言ったが、エミリーは臭い台詞だと笑い、アルバレスの白いたてがみを撫でた。
ミッコの愛馬である黒馬のゲーフェンバウアーと、エミリーの乗る白馬のアルバレスに一切の気負いは見られなかった。おとぎ話に登場する黒騎士と白騎士の名を冠する二頭は、共に歴戦の軍馬であり、その感覚はある意味で人間よりも優れている。
その様子を馬上で感じてか、エミリーの緊張も少しは解れているように見えた。
ミッコは馬を寄せると、エミリーの腰回りに手をやった。服の上からでも女性らしい柔らかな肌触りがわかった。「止めて」と言われたがミッコはさらに体を触った。調子に乗って「満更でもないだろう」と言うと、さすがに「場を弁えて」と嗜められた。
また風が軋む。四方から視線が近づいてくる。ただの女連れだと侮っているのか、数的優位を頼みに取り囲むだけの、何の捻りもない戦術である。
ミッコはわざと隙を見せ、襲撃の機会を与えた。そして相手が飛びかかってこようとする直前、無意識に涎が垂れるその間隙を狙い、駆け出した。
「エミリー! ついて来い!」
地平線に風が逆巻く。今まさに行く手を塞ごうとした連中の喉首に突っ込む。
黒塗りの弓を手に、馬上で矢をつがえる。狙いは馬である。移動手段を潰せば追ってはこれない。それに人を傷つければ不要な軋轢を生む。
一矢、次いで二矢。矢羽根が馬の鼻先を掠める。怯んだ馬がもんどり打ってひっくり返り、二騎が落馬する。
ミッコは周囲を睨みつけた。包囲の圧はすでに消え失せており、相手はほとんど怯えていた。それで流れは決していたが、しかし一騎だけは剣を振り上げ向かってきた。
身のほど知らずが──ミッコはゲーフェンバウアーの馬腹を蹴った。そして勢いのまま相手の顔面をぶん殴った。ゲーフェンバウアーも格の違いを見せつけるかのように相手の馬に体当たりした。鈍い流血とともに、対面した人馬は雪解けの汚泥を転がっていった。
「帝国人の恥晒しどもが! 殺す度胸もねぇくせに剣なんか抜くなボケ!」
苛立ち、感情の赴くままにミッコは吐き捨てたが、そのときにはもう群れは逃げ散っていた。
東へ──二人を遮るものはもうなかった。
道が拓かれる。遥かなる地平線を東に臨みながら、ミッコは手綱を緩め、エミリーと並走した。エミリーの頬は上気し、うっすらと汗ばんでいたが、嫌な汗ではなさそうだった。
二人は互いに顔を見合わせると、風に乗って笑い合った。二人の間を吹き抜ける風は、ほんの少しの血を帯びつつも和やかだった。
傾きへ始めた陽を背に、二つの風が地を駆ける。風は東へと流れ吹き、そして地平線のどこかへと消えていく。
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