◇人魚の涙 その2
今までずっと考えることを避けてきた感情。それがどんなものなのか、いまだに私自身も理解できていない。
甘いような、それでいて苦いような。切ないのに、どこかあたたかいような。その気持ちを言葉にしたら、楽になれるのだろうか、と考えてみる。まだ心のどこかで理性のようなものが残っていて、言語化することを拒んでいるようで、唇が震えている。
そこで、はっと我に返った。私は……ユリウスのことを? 今、なんて言おうとしていたのだろう。
私が躊躇している間に、頬を伝った透明な雫は彼の肌を滑り、口の方へと伝っていた。彼の少し空いた唇の隙間を割り込むように入り、溶けるように消えていく。
「……ん」
気のせいだろうか。ユリウスの睫毛がピクリと動いたような。私が驚きのあまり目を離せずにいると、彼の長い睫毛は小刻みに二回、三回と動き、氷が解けたように身体に動きが戻った。
「ユリウス?」
もっとよく観察しなければと私が顔を近づけると、彼は軽く身じろぎした。さらさらとした黒髪が頬をくすぐる。ほどなくして、ユリウスはゆっくりと薄目を開けた。
「……俺は?」
「――ユリウス!」
目を開けたばかりの彼はどこかぼうっとしたように瞬きを繰り返している。
「もう、心配したんだから! よかった……本当に、よかった……」
「……へえ。珍しいじゃん。姫さんからそんな大胆なことしてくれるなんて」
どうやら知らず知らずのうちに、首に縋りついていたようだ。耳元でおかしそうに笑う声が思いのほか近くて、私はばっと身を起こした。弾みでユリウスを膝から落としそうになるが、けが人であることを思い出してぐっと踏みとどまる。
「急にあんなことになるんだもの。どれだけ心配したと思ってるのよ! ……大丈夫なの?」
「ああ、こんなの寝てれば治るよ」
「そういうわけにもいかないでしょ? だって、撃たれたのよ。傷の手当とか、薬とか……」
私の心配などどこ吹く風な様子の彼は、ふと良いことを思いついたように、にやりと唇の端を持ち上げてみせた。
「そうだなあ。あんたがうちで看病してくれるなら、すぐにでも治ると思うけど?」
「なっ……!?」
何をバカなことを言っているのだろう、と思ったが、よくよく考えてみれば私は人魚の時も人間の時も、誰かの治療などしたことがない。薬のことならおそらくユリウスの方が詳しいはずだし、何よりこのまま一人で放置して帰るわけにはいかないだろう。
「とりあえず、そうね……あなたの住処に行きましょうか。このまま連れていくわ。身体、起こせる?」
「いいって。自分で……」
「いいから、私に掴まって。どこをどう行けばいいの?」
***
それから、ややあってユリウスの住処が見えてきた。あれほど迷っていたのが嘘のようだが、これはまぎれもなくユリウスの案内のおかげだろう。自分でわからなかったのは少々悔しい気もするが、仕方ない。
難破船を改造したこの隠れ家は、一か月前に訪れたはずなのに、もう何年も前のことのように懐かしく感じる。あの時はこんなことになるとは思ってもみなかったが、今は感慨にふけっている場合ではない、と思い直し入口へと急いだ。
住処の主が扉の前に立つと、音もなく扉が開いた。室内は、あの時招かれた時とまるで変わっていない。行儀よく整頓されているかのように漂う薬の瓶に、大きな水晶のような水泡。火の消えたかまど。そして以前はまるで気づかなかったが、部屋の奥にこじんまりとした扉があるのが目に入った。
「もしかして、ここが寝室なの?」
「ああ、そうだよ」
おもむろに扉を開けると、がらんとした中にはベッドがあるだけだった。ユリウスが身を横たえるのを見届けてから、私もやれることをしなければと扉に手をかける。
「どの薬を使えばいいの? なにか包帯みたいなものもあるといいんだけれど。教えてもらえれば取ってくるわ」
そう言って出ていこうとしたが、動けない。どうやら、私はいつのまにかもう片方の手を掴まれていたようだ。それほど強い力ではないはずなのに、縋りつかれているようで振りほどくことができなくなる。
「……どうしたのよ?」
「姫さんもあんまり寝ていないんだろ。ここで休んでいくといい。」
そうは言ってもけが人と同じベッドで休むわけにはいかないので、私は困ったままベッドの端に腰掛けた。
「でも、あなたの手当は?」
「傷はもうふさがったよ。本当だ」
そう言って彼はわざわざローブの胸元をずり下げて見せる。目のやり場に困るが、痛々しい傷口の血は確かに止まっているようだった。それでも、きちんと手当てしなければ心配ではある。
「そういう問題じゃないでしょうに……。だいたい、ここで休むって何よ。他に部屋でもあるの?」
見たところ他に別室はなさそうだったが。案の定、ユリウスはあっけらかんと言ってのけた。
「え? ないけど。」
「じょ、冗談じゃないわよ! ここで同衾しろって言うの?!」
「まあ、そうなるね」
「バカじゃないの?!」
私が慌てるのを見て、彼はさもおかしそうに吹き出した。羞恥のあまり闇雲に手を振りほどいて逃げ出そうにも、がっちりと掴まれていては離すことができない。
「そっか。なら、無理にとは言わないよ。姫さんのことを家族が心配しているだろうから、早くグレーネに帰ると良い。」
「…………」
そう言われてしまうとなんだか名残惜しいような、放っておけないような気がして、私はユリウスの方をもう一度振り返った。目が合う。微笑んでいるのに、どこか寂しそうな顔をしているような気がして、私はそのまま吸い寄せられたように動けなくなった。
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