◇人魚の涙 その1


 水音に交じって聞こえてくるのは……ごぼごぼというあぶくや魚たちが泳ぐ音。だめだ、周りの音がうるさすぎて確証が持てない。魔法使いが人間とは似て非なる存在なら、どうやって生存確認すればいいんだろうか。心臓が動いている、というのはすべての生物に共通しているはずだが……。


 とりあえずどこかへ運ばなくては。私の家族がいるグレーネへ連れて帰るわけにはいかないので、必然的にユリウスの海の住処を目指すことになる。


「あれ……? どこにあったっけ?」


 なにせ、ひと月以上も前の話なのだ。ユリウスの住処の難破船が沈んでいたのは、グレーネから三十分ほど西へ泳いだ場所。グレーネはロステレドのほど近い場所にある。そして、現在地は……ロステレドのだいぶ西。ということは、東へ向かって戻ればおのずと道もわかるだろう。


 潮の流れから方向を割り出し、ユリウスの腕を肩に回して泳ぐ。ヒレを動かすこの感覚は、なんだか久々で違和感を覚える。ずっと慣れない足で歩いていたせいか、全身がすっかりなまっているようだ。加えて、あまり眠れなかったせいか、疲労困憊した身体が重い。ユリウスの重みと、自分の重みがずしりと肩にのしかかる。そして、海中に戻ってひとまず安心したせいか、一気に頭が朦朧としてくる。

 それでも、ユリウスのことが心配なのは変わりない。早く、早く帰らなければ。


「どのあたりかしら?」


 水中なのでさほど彼の重みを感じるわけではないが、意識のない者を背負って進むのは、長時間ともなるとさすがに骨が折れる。大体、昨夜ロステレドから出発してロゼラムの船に出会うまで、数時間ほど船に乗っていたのだ。人魚のヒレと人間の船ではどっちが速いかは知らないが、同じ時間だけ進まなければ、見知ったグレーネ付近には辿り着かないかもしれない。そう考えた途端に倦怠感に襲われ、絶望にも似た焦りを覚える。


「どうしよう。早く、手当てをしなくちゃいけないのに……」


 他の人魚に見つからないようにこそこそと海底を目指す。幸い、今の明け方の時間帯に泳ぎ回っているような酔狂な輩はいないようだ。それもそのはず、夜は人間と同様、人魚も眠る時間。

 とはいえ、ゆっくりと夜が白んでくるのを感じる。だんだんと夜が更け、泳いでいるはずなのに一歩も進んでいないような錯覚を覚え始める。ヒレが重い。肩が鉛のようで、もはや満身創痍だ。東の方へと、いくつもの魚の群れをかき分け、幾度も岩にぶつかりそうになりながら、進む。


 それから一体どのくらい泳いだだろうか。ついに私は泳ぎ疲れて岩棚にへたりこんだ。全身の力が抜ける。あいにく私には薬も魔法も使えないから、もう彼を助けるすべは残されていない。ユリウスをごつごつした岩に寝かせるわけにもいかないので、仕方なく人間でいうところの私の膝辺りに頭を横たえ、おそるおそるローブの首元を広げて傷を確認してみる。


 その途端、視界に飛び込んできたのは、白い肌に滲む赤黒い血。あまりにも痛々しくて、思わず息が詰まったように直視できなくなる。弾丸が残っているのか、傷が深いのか浅いのかすらもわからない。ただ、今更ではあるがちゃんとした処置をしていないことを後悔する。


「確か、押えたら止血できるのかしら……?」


 そもそも海にいる時点で、止血できるかどうかもわからないが。もしかしたら、もはや手遅れだったりするのだろうか。そう思うと、すぐに手当てができなかった後悔にさいなまれる。


「ああ、もう……目を覚ましてよ。このまま死んだりなんかしたら……許さないから!」


 そう呟いても、彼はぴくりとも動かない。

 そういえば海でおぼれかけたセアンを助けた時は、砂浜に彼を横たえた後、誰かがやってきて助けてくれたものだが……今ここで動けない彼を放置していくのは危険極まりない。血の匂いを嗅ぎつけて、サメやシャチがやってくるかもしれないのだ。そうなったら、一巻の終わりである。

 考えろ、考えるんだ、どうすれば彼を救えるのか。


「もう……わからないわよ。」


 何もすることができずに、時間が過ぎる。彼の顔を見つめる。


 初めて会った時はあどけなさが残る少年だと思っていたのに……どこかつかみどころがなくて、私を人魚にしたいのかと思いきや、適当なことを言って惑わせてきて、かと思えば時折切なそうな表情を見せる。

 気づけば動揺してしまうから、ユリウスのことはできるだけ考えないようにしてきた。それなのに――私が幸せならそれでいい、と言ってくれたいつかの笑顔、その奥に感じた陰りが脳裏に焼き付いて離れない。ずっとずっと勘違いだと、気のせいだと思うようにしてきた。だって認めてしまったら、私が前世の記憶に惹かれて人間になったことは、何の意味もなくなってしまうから。



『でも……無理なんだよ。あんたが王子の横で笑っているのを想像すると、胸が潰れたようにぎゅうっとなって、息が苦しくなるんだ。』



 そう言って隣国の王女の姿になってまで、邪魔してきた彼。私の中では好奇心だとか、気まぐれだとか説明してきたその理由が、彼自身の言う通り嫉妬であったというなら……私はいつ、ユリウスにそんな想いを寄せられるようなことをしたのだろうか。



『――俺は、ローネ。あんたのことが、たまらなく好きだ』



 満月を背にして、そう切なげに囁いた彼の声がよみがえる。視界に広がる黒と、縋りつくようなあの目。深い闇の中へと引きずり込まれ、どこまでも溺れていくような感覚。

 もしかして、私は何か大切なことを忘れているのだろうか? ともすれば、それは前世の記憶ではなく……私自身の、記憶?


「わかんない。……もう、わからないわよ!」


 勝手に人間にして、勝手に邪魔して、勝手に好きだと言って。彼のやることなすことの意味がわからない。無視すればいいのに、このまま考えないようにしていれば良かったのに、彼と言葉を交わすたびに、顔を合わせるたびに心をかき乱されて、自分で自分がわからなくなる。だから私は前世の記憶にある通り、セアンのことが好きなのだと思い込もうとしてきた。――それなのに。


「なんで……全部全部気まぐれなら、勝手にかばって怪我なんてしないでよ。ほんと……わけわかんないわよ!」


 それでも、きっと私は心のどこかで、彼が助けに来てくれることを期待していたのかもしれない。自分では考えないようにしてきたくせに、結局ユリウスに頼るのか、と思うと、何とも自分が浅ましくもあり、それが嫌で彼の名前を呼べなかったのだ。


「もう……これ以上、私の心をかき乱さないで!」


 ずっとずっと、こらえてきた。セアンに選ばれないと分かった時も、別れが決まった時も。裁判にかけられて牢に閉じ込められた時も、レオナルドの人質になった時ですら、我慢してきたのに。その堪えてきたものが今になって溢れ出しそうになる。もはや私を止めるものは何もなかった。目頭が熱くなる。堰を切ったようにあふれ出し、視界がぼんやりと曇ったようにゆがんでいく。


「ねえ、ユリウス……」


 ぽつり、ぽつり。私の頬を滑った涙は彼の頬に着地し、滑り落ちていく。


「私も……あなたが――」

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