◇黒に滲む赤 その1
そのまま、一瞬とも永遠とも思われる時が流れる。一秒、二秒……。待てど暮らせど衝撃が訪れないことへさすがに違和感を覚えて薄目を開けると、私の視界はなぜか真っ黒だった。が、それも瞬刻のことで、暗幕が引きずりおろされるように再び視界が開ける。
「……え?」
次に足元で聞こえたのはどさり、と何かが落ちるような音。レオナルドの方を確かめる余裕もなく、私は呆然としたまま足元を見下ろした。目に飛び込んできたのは、見覚えのある黒いローブ。甲板には染み出すようにだんだんと赤色が広がっている。その中で苦悶の表情を浮かべ倒れているのは、あろうことかあの海の魔法使い――ユリウスだった。
「ユリウス?!」
もだえ苦しみながら荒い呼吸を繰り返す黒髪の少年は、それでも甲板に爪を立てるようにして身を起こした。肩からは思わず目をそむけたくなるほどのおびただしい量の血が次から次へと流れ、赤い染みを作る。その傷口を片方の手で押さえても、止まることを知らない鮮血は、ぽたり、ぽたりと彼の指の間から滴り、滑り落ちていく。
「ほ……んと、姫さんはバカだな」
彼はうめきながら、唇を歪めて笑った。その笑みがあまりにも痛々しくて、胸が締め付けられる。苦悶のあまりその額には脂汗が浮かんでいた。
「な……なんで?!」
「そりゃ、あんたがいつまで経っても俺を呼んでくれないからだろ。……くそっ、思ってたよりも……ってえ……」
わからない。どうして、ここまでするんだろうか。あの言葉の真意を問うのを恐れてから、あんなに顔を合わせるのを躊躇していたはずだったのに、いざ目の前にすると、今までどうしてためらっていたのだろう、と思うほど私は不思議にも落ち着いていた。しかしながら、今はそれどころではない。
「だからって、こんな……。早く手当てをしなきゃ!」
「そんなの、自分でできるよ。あ~あ、服汚れちゃったんだけど。」
のんきそうな言葉とは裏腹に、相変わらず肩で息をしているのがちぐはぐで、もどかしくなる。ユリウスが手を上げると、その指には弱々しく揺らぐ水泡が纏わりついた。その傷口を覆うように水泡が埋め尽くすと、流れていた血の動きがだんだんと鈍くなり、徐々に止まっていく。心なしか、彼の呼吸も少し整って楽になってきたようだ。それを見て少しだけ胸をなでおろしたものの、私自身は彼の何の役にも立てない事に、どうしようもない不甲斐なさを覚える。
「はあ……はあ……」
傷がふさがったとはいえ、完全に癒えたわけではなさそうだ。これ以上の無理はさせたくないと、私はユリウスをかばうように前に出ようとしたが、もはや私の足は言うことを聞かなくなっていた。ついに、情けなくもそのまま膝から崩れ落ちる。
「ふうん。……自分で治せるのか。これじゃあ、いくら風穴を開けてもらちがあかないなあ」
私たちの様子を怪訝に見守っていたレオナルドは、目前の魔法使いを見ても驚かない。むしろ最初から知っていた、とでも言いたげな訳知り顔である。
「初めまして、魔法使い君。君が、彼女を人間に変えたのかな?」
にこりと笑みを含んだ問いも、ユリウスはつっけんどんに突っぱねた。
「さあ、どうだろうね。俺がその質問に答えたところで、何が良いことある?」
血が付いたままの出で立ちが何とも不似合いではあるが、彼はいつもの調子を取り戻したかのように、またあの悪戯っぽい笑みを向けた。
だが、一度は撃たれているのだ。平気なはずはない。現に、ユリウスの顔色はいつにもまして青白い。彼は小刻みに震える指を鳴らすと、レオナルドがまた銃を向けようとするよりも早く、手元の獲物が消えた。そのかわりにユリウスが銃を自らの手中に収め、興味深そうにしげしげと眺めている。
「へえ。今の人間はこういう武器を使うのかあ。やるね。」
そしてどこか楽しそうに引き金の部分を指に引っ掛けると、くるくるともてあそぶ。見るからに危なっかしい。
「で、どう? 自分の獲物を取り上げられた気分は」
それを見てもレオナルドはすべて慌てる様子すらなく、むしろ面白いものを見付けたとでも言わんばかりに口角を上げた。
「おお、すごいねえ。まるで手品みたいだ。しかし、脅しが通用しない、となると真っ向勝負か。あいにく僕は魔法は使えないんだ。さて、どうするかな?」
「だってさ。どうする? 姫さん。こいつ、やっちゃう?」
彼は私をちらりと一瞥すると、物騒なことをさらりと口にした。
「え? そんなこと、できるわけ……」
「本当、あんたはお人よしだよね、自分は殺そうとした相手だよ? 憎いとか殺してやりたいとか思わないの?」
そう思っても、おいそれとじゃあ殺してください、なんて言えるほど割り切れるわけがない。
「姫さんは優しいね。でも……俺はこんなんじゃ気が済まないよ。」
その目がすっと細められるのと、船の上空に暗雲が立ち込められるのが同時だった。風が覆うように船が揺れ出す。異変を察したのか、ようやくレオナルドも焦ったように空を見上げて周囲を見回した。
「――っ?!」
たらいをひっくり返したような土砂降りに瞠目する間もなく、あっというまにずぶぬれになるが、それだけでは終わるはずもなかった。
ユリウスが手を上げると、辺りがぴかりと光って耳をつんざくような轟音がとどろいた。空気を切り裂き振動させるようなその勢いと耳鳴りは、先ほどの銃声なんかとは比べ物にならないほどだ。
再びちかちかと点滅するような稲光の後、バリバリバリ、というすさまじい音が辺りを直撃した。焼けた様な焦げ臭いにおい。それと同時にぐらりと中央のマストが傾く。視線を上げると、揺らいだマストの影が近づいてきている。ゆっくりとスローモーションのように倒れてくるそれを視界にとらえても、私は足がすくんだようにその場から動くことができなかった。
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