◇絶望の淵

 正直に話したところで、ろくなことにならないのは初めから目に見えている。人魚の国グレーネのことが明るみに出れば、未知の物へ征服欲を抱くレオナルドが、あの手この手を使って侵略しようとするのはわかりきっているのだ。

 かと言って、これ以上しらを切ろうにも、まるで聞く耳を持たないようでは、もはや認めるしかない状況である。


 私はどうすべきか途方に暮れながら、ただ茫然と目前の男を見つめた。翡翠の瞳はもはや凍てついた冷酷さを隠そうともしていない。癖のかかったダークブロンドに海風が吹き付けられるのを払おうともせず、私を見下ろす。彼との距離はほんの数メートルと言ったところだろうか。逃げ場はどこにもない。波に合わせて船が揺れると、それに合わせるかのように私もふらふらと船の縁に寄りかかった。


「君が仮に人魚だったとしたら……不思議だよねえ。一体どうやって人間になったんだい?」

「……っ」


 何か言おうとして、迷う。口を開くと墓穴を掘ってしまいそうで、何も言えなくなりうつむく。


(どうしよう。……どうすればいいの?)


 ふと、あの海の魔法使いのことが脳裏をよぎる。今、思い切って彼の名前を呼んでしまおうか。セアンという味方もいない今、もう私自身の力ではどうしようもない局面に来ているのだ。


「……ユ……」


 息を吸い込む。たった四文字、唇に乗せて声に出すだけでいい。それなのに、レオナルドに射抜かれるように見られているのを意識してしまうと、緊張で咽喉がカラカラに渇いた。目を閉じると瞼に焼き付いているのは、満月の夜の切なげな黒の双眸と、囁くような愛の言葉。途端に息が詰まったように、それ以上の言葉が続かなくなる。


「沈黙……か。それは是とみなすけれど、いいのかな?」


 レオナルドの追い打ちに焦燥がつのる。こんな窮地に陥っているというのに、何をためらっている必要があるのだろう。あの言葉が本当でも嘘でも、今はただ生き延びることを優先するべきだ。それなのに、自分の力で何とかしないといけない、という妙な焦りが背中を押すようで、二の足を踏む。いまさらユリウスにどんな顔をして会えばいいのだろう。否、あの告白の真意を問える勇気が、今の私にないだけなのかもしれなかった。


 私の足の裏は目前の危険と共鳴するかのように、ズキズキとより一層痛みを増していく。まるで初めて人間になった頃のようだ。もう、逃げたい。この船の上から逃げ出したい。だがもし海に飛び込んだところで、どうなるのだろう。人魚ではない今、きっと溺死するのが目に見えている。どこにも逃げ場がないと悟ると、浮かんでくるのは「絶望」の二文字。


 レオナルドはそんな私を見てわざとらしくため息をつくと、黒いフロックコートの懐から何かを取り出した。


「やれやれ、君も強情だねえ。」


 その手元でカチャリ、と鳴る金属音。それを耳にして本能的に悟る。私は、あれを知っている。実物を目にしたことはないが、知識として覚えている。異変を知らせるように、心臓がバクバクと早鐘を打つ。


「待って。何を……」

「もしかして、かけられた魔法でも解けちゃっているのかな? すごく辛そうだ。人間になりたいと願ったはずなのに、ひょっとして……もう人間でいたくないと思ってたりするのかな?」


 彼によって何気なく投げかけられたその一言は、鋭い刃のようにぐさりと私の心に突き刺さった。


 私が人間になりたいと思ったのはセアンに会いたかったから。そして願わくば彼と結ばれたかったからだ。でも結果としてそれは叶わず、どういうわけかユリウスの愛の告白で泡にならずに済み、こうして人間の形を保っている。そんな人間でいたいと願った過去と、もう海に帰りたいという矛盾した願い。この足に表れているのは、ひょっとするとそんな撞着なのではないだろうか。

 揺れる船と痛む足にたまらず、ふらふらと船の縁に手をかける。もう支えなしでは立っていることが難しいほどだ。


 ロゼラムの王子はそんな私の様子には構わず、懐から取り出したものを私の眼前に構えた。金属で出来た小型の筒がこちらに突きつけられている。思わずはっとなった。


「……どういうつもり?」

「ああ、動かない方がいいよ。これはロゼラムの最新式の武器だ。まぁ、言うなれば小さい大砲のようなものかな?」


 ……つまり、「銃」だ。彼は銃口をこちらに向けたまま、微動だにしない。いよいよ命の危険が迫っている。目的のためには手段を選ばないその姿に吐き気がした。


「剣では飽き足らず、そんなもので女を脅すなんて、恥ずかしいと思わないの?」

「ああ、思わないね。それに実のところ、剣はまどろっこしくてあんまり好きじゃないんだよ。あっちの船では向こうのレベルに合わせてあげたけど……そんなことより君さ、この至近距離で撃たれたら死ぬだろうね。僕はあんまり気が長い方じゃないんだ。だから、これで最後の質問にするよ。」


 まるで先程までの脅しですら茶番であったとでも言いたげに、レオナルドの纏う空気がいよいよぴりついたものに変わる。


「――君は、何者なんだ?」


 しばし迷う。絶対に認めるわけにはいかない。もはやここまでかと観念し、私は息を吐いた。それからごくりと唾を呑むと、渇いて張り付きそうになっている喉を震わせる。


「そんなの、決まってるじゃない。私は……人間よ。」


 レオナルドはそれを聞くと、まるでその答えの予想はしていたとでも言いたげに肩をすくめた。


「ふふっ……そうか。あくまで、しらを切るつもりなんだね。……本当に、残念だよ。」


 そのまま一切の躊躇なく、引き金にかけた指が金属の感触を確かめるように動く。

彼の一言と共に耳をつんざくような轟音が響くのが同時だった。瞬間、時が止まったように目の前が真っ暗になる。私は目を閉じて、来るべき痛みと衝撃に耐えようと歯を食いしばった。

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