◇とある少年の独白 その2

 泥のように眠って目を覚ますと、少年はいつのまにか波にさらわれて水の中にいた。自らがぷかぷかと漂っていることに気付くと、彼は狼狽した。生まれてこの方泳いだこともなければ、海に入ったこともないはずなのに、と慌てる。わけもわからないまま、がむしゃらに手足を動かすと、彼はそのままぶくぶくと沈んでいった。恐ろしいはずなのに、このまま死ぬのならそれでもかまわない、とも思う。恐怖も不安もどこかに置いてきてしまったかのように、何も感じなかった。海水の冷たさも水に濡れる不快感もなければ、鼻や耳に水が押し入ってくるような息苦しさもないせいかもしれない。ただ、自分が周囲の水になって溶けていくような、何とも形容しがたい不思議な感覚があった。


 少年はいつまでも溺れていかないのをさすがに怪訝に思い、ぎゅっと固く閉じていた目を開けてみた。視界に海が広がる。水の青はどこまでも透明で、ガラスで隔てられているかのようにいまいち現実味がない。状況をいまいち呑み込めずに呆然としていると、急に足元からしわがれた声が聞こえてきた。


「おやおや、まあまあ。あんた、あの娘の子だね? 人間なんかと駆け落ちしやがって、あたしにこんな面倒ごとを押し付けるなんて……こまったもんだねえ」


 突如、黒いローブを身に纏った老婆がゆらりと目の前に現れた。その品定めするようなまなざしに射すくめられて、少年はぶるりと身を震わせながらも、唇を噛みしめて向き直った。白髪が広がるその中に同じ黒の瞳を見つけると、はたと気付く。


「もしかして……母さんの……?」


 彼はおずおずと声を出してみた。なぜか、水は口の中に入ってこず、陸にいた時と同じように呼吸ができている。あたかも、彼の周囲を空気が包んでおり、その外側に水があるかのようだ。


 老婆は少年の声を聞くと、深いしわの刻まれた眉間をさらに険しくした。鋭いまなざしは母とはまるで似ていないな、と彼はぼんやりと考える。


「あの娘は、魔女として生きることを拒んだのさ。人間と恋に落ちたからと言ってね。まったく、人間なんてろくな奴はいないよ。ただの商売相手だっていうのに、バカな娘だったよ、ほんと……」

「人間……? 俺、人間じゃなかったの?」


 心のどこかで認めることが怖かったことを口にしてみると、老婆は意外そうにわざとらしくも驚いて見せた。


「あんた、そんなことも知らないのか。……あたしたちは、魔族だよ。いわゆる魔女とか魔法使いってやつさ。ま、あんたは人間の血を引いているから半人前だけどねえ。」


 驚きはあったが、正直心のどこかではそんな気がしていた。これが幻でないのなら、水中でのんきに呼吸して喋っていられるのが何よりの証拠だろう。少年はなぜか胸に安堵が広がっていくのを感じていた。自分は、他人とは違う。その答えを見つけることができたからだ。


「半人前なら……魔法使いにはなれないの?」


 もし、魔族とか魔法使いというのが本当なのだとしたら、彼にはとうの昔に向き合う覚悟などできていたに違いない。


「そりゃ、あんた次第ってところだね。血は確かに受け継いでいるんだから、訓練次第でどうとでもなるよ。こき使ってやる。ま、ちょうど跡継ぎも欲しいと思っていたんだ。渡りに船ってやつだね」


 老婆はひっひっひ、としわがれた声でさも楽し気に笑うと、少年の手を引いて海の底へと連れ立っていった。




                 ***




 こうして、少年は海で暮らし始めた。水の魔法に素養があったおかげもあってか、海に慣れるのに時間はかからなかった。むしろ、今までどうしてあんなに息苦しい思いをしてまで、陸で暮らしていたのかと首を傾げたくなるくらいだ。ここには、何よりも煩わしい人間がいない。毎日のように老婆に魔法を習い、薬の研究をする。老婆は人間相手に商売をしているらしく、時々陸に上がっていったが、少年はあの家が焼けた日のことを思い出すと、とうてい付いていく気にはなれなかった。


 難破船を利用した住処には、ガラスでできた瓶やフラスコが並んでいた。色とりどりの薬は、どれも老婆の試作品だ。ありふれた疲労の回復薬から、傷口に垂らせば一瞬でふさがるという妙薬。役に立つものもあれば、何の用途に使えるかも不明なものもたくさんある。一瞬だけ時間を止められるもの。幻を見られるもの、はたまた惚れ薬のような眉唾物まで。魔法と向き合っている時だけ、少年は自分でいられる気がした。否、そうすることで両親のことをも忘れ去ろうとしていたのかもしれない。


 海の中にはむろん人間などいなかったが、よく人魚を見かけた。なんでも、すぐ近くにはグレーネという人魚の国があるらしかった。


 初めて少年が彼らを見た時は、思わず目を疑った。人魚など、おとぎ話の中でしか存在しないだろうと思っていたのだ。あの家で暮らしていたころ、少年の母はよくおとぎ話を読んでくれた。人魚はその美しい声で誘惑し、人間を海の中に引きずり込んで食べるという恐ろしい話を聞いて、幼かった彼はおびえた。


 だが、なんてことはなかった。薬を買いにやってくる人魚たちは礼儀正しい者、陽気な者、様々だった。彼らはどうやら人目を忍んでここに来るらしく、たいがいは一人でやってきた。なんでも、魔女は人間に媚びる商売をしており、人魚たちに涙や鱗を要求しているらしく、人魚たちにはあまりよく思われてはいないようだった。

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