◇悪夢
***
泣いていた。
涙を流していた。
金髪の王子が眠っている枕元に立って、短刀を見つめている。
『王子を殺せば、泡にならずに済む。あなたは人魚に戻れるのよ』
誰かの台詞が脳裏をかすめる。
「私」は短刀を振り上げる。王子の胸めがけて、突き刺そうとするが……彼の顔を見ると、優しく微笑みかけられるような気がして手に力が入らない。短刀は指の間をすり抜けると、カランと乾いた音を立てて床に落ちた。
王子の伏せられた金の睫毛がぴくりと動く。そうだ。この後どうなるかで、エンディングが変わるのだ。
「私」は再び短刀を手にした。でも、彼は別の人と婚約してしまった。もう、「私」と結ばれる可能性は微塵も残っていないのだ。他の人のものになるくらいなら、いっそのこと、この手で――。
そのまま目を瞑ると、次の瞬間「私」は王子の胸に勢いをつけて短刀を突き立てていた。肉を貫く鈍い感触、噴き出すあたたかい鮮血。王子の苦悶の表情と、悲痛な呻き声。てのひらに生ぬるい血がべったりとまとわりつく。一度刺さってしまえばあとはためらいなどなかった。そのまま柄が抜けなくなるまで深く押し込む。頬が濡れる。それが彼の血なのか、自分の涙なのかもわからなかった。
『どう……して?』
深く深く胸を貫かれながら、王子が喘ぐように呟く。その声ではっとした。
「私」はどうして愛する人の息の根を今まさに止めようとしているのだろうか。短刀の柄を握り締めていた指の力が抜ける。
『わ……私は! 他の人の物になるあなたなんか……見たくなくて……』
彼が王女と婚約して「私」は泡になるのを待つだけになってしまった。「私」はまだ生きたい。だからあなたを殺すのだ。再び柄を握り締めると、王子の心臓がドクドクと脈打つ音が伝わってきた。だんだん、人の道を外れたことをしているという感覚が麻痺してくる。
『そう……か。……それ……なら』
苦痛のあまり眉間に皺を寄せ、額に脂汗を浮かべた王子が唇を歪めた。
『しかた……な……い、な』
そのまま彼は目を閉じた。気を失った……いや、死んでしまったのだろうか? 「私」は今更ながら恐ろしくなり、ぱっと短刀から手を離した。すでにベッドも床も赤く染まり、一面には血だまりができていた。
『……? セアン? セアン?』
「私」は彼の名前を呼ぶが、彼が目を開けることは無い。彼の顔がどんどん青白くなっていく。肌に触れると驚くほど冷たいのに、手のひらに残った彼の血だけはやけに生あたたかった。
どこかで、0時を告げる鐘が鳴っている。早くこの場を去らなければならないのに、「私」にはそうすることができなかった。立っていられなくなり、ふらふらと床の上に崩れ落ちる。足に力が入らない。気付けば「私」は人魚の姿に戻っていた。ああ、そうか。彼は死んでしまったのだ、という事実だけがすとんと心に降りてきて、重くのしかかった。これで泡にならずにすんだのだ、という感想は不思議なほど皆無だった。
そして、はっと我に返る。
「私」は自らの手で王子の命を絶ってしまった。誰よりも愛していたはずなのに。自分のものにならないくらいなら、死んでしまえと願い、殺めてしまった。自らの両手を見つめる。むせかえるような血の匂い。ぬめる指先にこびりつく朱色。彼の呼吸はもうない。同時に私に向って微笑みかける優し気な眼差しを思い出す。「私」は、いったいなんていうことを……。
『あ……ああ……』
生きたいという執着がこれほど醜かったのか。いっそのこと、泡になって消えてしまえばよかった。それなのに、彼が自分以外の女性と幸せになるのがどうしても許せなかったのだ。消えたい、消えたい、消えてしまいたい。こんな「私」などいらない。この世で一番大事な人を殺してしまった「私」など、いなくなってしまえ。
『うっ……うわああああああああ!!!!!』
夢であってほしかった。彼の胸に刺さった短刀を力を込めて引き抜く。再び血がどくどくと溢れる。同じ短刀を、今度は自らの喉に勢いよく突き立てる。身を裂かれるような痛みなど、彼を殺めてしまった罪に比べればどうでもよかった。覆いかぶさるようにして彼の傍らに倒れ伏す。最期の瞬間まで彼の顔を見たいと思うのに、目を開けていることができない。そのまま、記憶が薄れていく――。
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