◇イベント? 魔法使いからのお知らせ




                 ***



 人間になってから初めて海に入るというのに、不思議と水が身体を侵食してくるような感覚がない。目を開けていられるし、息も苦しくなければ、鼻の奥をツンとつくような海水の匂いも、耳の中をごぼごぼと暴れる水も襲ってこなかった。それどころか、水面に叩きつけられたような感覚すらなかった。文字通り波にさらわれて、気づいたらここにいた、という感じだ。


 そのまま深く深く沈んでいく。海に落ちたのはそこまでの衝撃だったのだろうか? 人魚だった頃に感じていた、肌に触れる水の冷たさすらないまま、水中にいる。暗い海の中は、魚が泳ぐ音すら聞こえない。驚くほどの静寂に包まれていた。

 気づけば、先日窓辺に出現したはずの黒髪の少年が、目の前に佇んでいる。


「やあ、姫さん」

「――?! あ、あなたどうして……?」


 少なくとも先ほどは彼の名前を呼んでもいないし、呼ぶような状況でもなかった。


「たまたま近くにいたからさ、挨拶も兼ねて。だめ?」

「だめよ!! セアン――いえ、王子が、きっと心配して――」


 セアンの名を口にした瞬間、大きな黒い瞳がすっと細められた。心なしか、何を考えているかわからない闇色が冷えたような気がした。


「ふーん……」


 だが、それも気のせいだったらしい。また元の悪戯を思いついたようなにやけた表情に戻ると、はやし立てるように言う。


「随分と仲良しになったんだね? 手なんか握っちゃってさ」

「う……」


 どうやら、見られていたらしい。


「俺に頼ろうとしていたのがウソみたい。あーあ、つまんなーい」


 あの弱音を吐いていたころとは、まるで違ったのが面白くなかったのだろうか。この魔法使いは何がしたいのか、まったくわからない。早く戻らないと、セアンが不審に思ってしまうだろう。


「ま、まあおかげさまで、なんとか。このままうまくいけば、泡にならなくても済む……かも?」

「ふーん……」


 気のなさそうな返事にこちらの気が抜ける。それより、どうしてこんなタイミングで呼び出すのか、頭の中に疑問符が埋め尽くされた。


「ていうか、いいところだったのに! どうして今、無理やり引きずり込んできたのよ」


 海中で呼吸ができるのは、私が人魚だったからというわけではなく、彼の魔法のおかげだということは一目瞭然だ。


「うーん。まあ、中間報告みたいなものかな? 今日は新月だ。ちょうど、折り返し地点になる」

「新月……折り返し地点……」


 私は呆けたように彼の言葉を繰り返した。ということは、あと15日前後しか残されていないということだ。


「五日後が舞踏会……よね。その前に人魚の絵のイベントもあるし……。ああ、もう! セアンが無事に来てくれるといいんだけど……」


 私がぶつぶつ呟いていると、ユリウスは突然、前触れもなく私の目前に迫った。


「……ユリウス?」


 丸い瞳の中には不安げな顔をした私が映っていた。


「姫さんは、王子と結ばれたら幸せなんだよね?」


 まるで、確認するかのような口ぶりだ。


「え、ええ……」


 それは、そうだ。セアンは今まで会った誰よりも安心できる、優しい人物だ。そして、私が一番よく知っている攻略対象でもある。加えて、「前世の私」の憧れの人でもあったのだ。生き残るため、という理由がなかったとしても、私は彼を選んだだろう。


「幸せ、ねえ……」


 ユリウスの指先が私の手に触れた。ひんやりとした手のひらが、ちょうど先ほどセアンが触れていたように、私の手を包む。彼の手は華奢なように見えて指先が長かった。


「な……どうして?」


 突然のことに驚いて私は硬直した。この魔法使いは何を考えているのか、表情からも読み取れない。距離を詰められると、不安になるばかりだ。私とセアンをくっつけたいのか、それとも私を泡にしたいのか……彼は何がしたいのだろうか? 

 身構えている私を見越したのか、彼はすぐに手を離した。


「俺は、あんたが幸せならそれでいいよ」


 ユリウスは長いまつげを伏せた。なぜだか、それは自分に言い聞かせているかような気がした。


「そ、そう?」


 私は首をかしげた。


「うん、うん。俺は姫さんには幸せになってほしいからね」


 また元のように悪戯っぽく笑って見せる。その笑顔に隠れてしまうと、何を考えているのかわからなくなる。


「ねえ、あなたの目的は何なの?」


 なぜだか、私には彼の様子がいつもと違うように見受けられた。彼は、純粋に私の応援をしたいわけではないのだと、勘が告げている。明確な証拠はないが、そんな気がした。


「目的……ね。俺、あんたにとってそんなに悪いことはしてないはずなのに、何か企んでいるように見えるの?」

「……え、ええ」


 神妙な面持ちで頷くと、ユリウスは心外だと言わんばかりに大げさに肩をすくめてみせた。


「ひどいなあ。こんなに尽くしてやってるのに」

「それは、まあ感謝しているけど……それはそれ。これはこれよ! 今日のあなた、なんだか変よ」

「変……俺が、変だって? 面白いことを言うね」


 彼はなぜだか、無理をしているような。そんな気がするのだ。

 ユリウスのルートは知らないし入るつもりもないから、何を言えば地雷になるのか好感度が上がるかも知らないし、そんなことなど今はどうでもいい。ただ、純粋に気になるだけだ。


「私の邪魔をしたいのかと問えば、そうではないという割に……」


 何と言えば答えてくれるのか、見当もつかないので思ったままを口に出す。


「なんだか辛そうに見えるわ。」


 そう言うと、なぜか次の瞬間、私は魔法使いの至近距離にいた。私の視界一杯に黒が広がる。何が起こっているのかもわからず目を見張った。瞬きの音が聞こえるのかと思うほど近い。彼は私の顎に手をかけた。細い指先が力を籠めると私は顔を動かせない。彼から、目が離せない。どうして、こんなことを……?


「違うよ。俺は、ただ――」


 何か言いたげだ。切なげな黒が揺れる。闇の中に浮かぶ私はあっけにとられた顔をしていた。彼のこんな表情は初めてだ。いつも悪戯を思いついた猫のようににやけていて、とらえどころがなくて、決して内側を見せないというのに。彼もまた、ひょっとすると何かに悩んでいるのだろうか?


 私が思い切って問いかけようとしたとき、先ほどまでのことはまるで幻だったかのように元の間合いに戻っていた。


「ユリウス……?」


 それなのに、どうしてだろう。触れていた指の熱が消えない。


「何でもないよ。じゃあね、姫さん。頑張ってね」


 それから、水の中を押し上げられる感覚。急に暗い海中から出たかのように真っ白な光に包まれる。そのまばゆさに私が目を瞑ると、気付けば先刻までの船の上に立っていた。







「ローネ!! 」


 目の前には、セアンが珍しく焦った面持ちで立っていた。案の定、心配をかけてしまったようだ。


「……よかった。急に君が海の中に落ちたように見えたんだが……私の見間違いだったようだな。突然船が揺れるから、あわててしまった。すまない」

「いえ、私は大丈夫です。さっきのは、少し揺れましたよね」


 私は何とかごまかした。

 そのまま何事もなかったかのようにセアンと何か話していたはずなのだが、海の中での出来事が頭を離れず、私はどこか上の空だった。


 心の中には、セアンのルートがうまく進んでいる喜びと、一抹の不安があった。


 なぜ、ユリウスはあんなことをしたのだろうか? 彼に接近したことは、おそらく私の気のせいではないはずだ。

 だが、もし万が一にもユリウスのルートに入っていたとしたら……面倒なことにならないだろうか?


 いいえ、ない! ない! 絶対にないわ!!

 彼とイベントらしきことなどなかったのだ。仮にさっきのがそうだったとしても、セアンのルートが進んでいるという自信がある。だから、きっと、大丈夫なはずだ。


 今さらながら、ユリウスのルートがあるとしたら攻略していないのが悔やまれる。

 いや、きっとない。彼はきっとわき役キャラだろう。私はそう思うことにした。

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