◇回想 人魚の過去 その2

 私は海の底から一気に水面まで泳ぎ切ると、水しぶきと共に顔を出した。空は暗い灰色の雲が、たらいをひっくり返したように土砂降りの雨を降り注ぎ、暴風がびゅうびゅうと乱暴に吹き付けてくる。そして、時折ぴかぴかと辺りが明るくなり、轟音と共に遠くの空を閃光が走っていた。


「これが……嵐……」


 次々と押し寄せてくる灰色の波濤にひれを取られながら、私は押し流されないようになんとかバランスを保ちつつ、その場に留まった。


「すごい! 雷ってこんなにうるさいのね」


 耳をつんざくような雷鳴が空気をびりびりと引き裂くと、その迫力に思わず身がすくんだ。それでも、私の好奇心は止まることを知らない。激浪にもまれながら漂っていると、遠くに一隻の船を見付けた。幼いころに海の底で見つけた、難破船にそっくりだ。きっと、人間が乗っているのだろう。軽い見物のつもりで私は近づいて行った。どうせ雨と嵐で視界が悪いのだから、向こうも自分に気づくはずがないと思ったのだ。


「積み荷を降ろせ! 早く!! 甲板の水をすくい出すんだ!!」


 揃いの服を着た人間たちが大声をあげながら、海に何か捨てている。あとで役に立つものだといいけど……と荒波の中で私はのんきに考えていた。船は大げさなくらい上下左右に揺れて、バランスが崩れたらいつ転覆してもおかしくなさそうだ。


「こんな不安定な乗り物に乗ってわざわざ海に来るなんて。……どうしてなのかしら?」


 心底不思議だった。海は生き物だ。私たち人魚や海の魚たちはそれを知り尽くしたうえで共存しているからいいものの、陸で生活できるはずの人間が、どうしてそこまでして海に出ようとするかがわからなかった。 

 けれども、同じことは私にも言えるのだ、とふと思い至る。


 ――私は海だけで安全に暮らせるはずなのに、どうしてここまで人間や、陸に憧憬にも似た感情を抱くのだろうか?

 今思えば、それもゲームの強制力ゆえだったのかもしれない。


 私が波に浮かんだ船を見上げると、金髪の若い男がふらふらとマストにもたれかかっているのが見えた。揺れる船に気分が悪くなったのだろうか。それでも周囲にあれこれと指示を出して、なんとかその場をしのごうとしているように見受けられる。


 ふと、船の向こうからひときわ大きな波が迫ってくるのが見えた。私もあの衝撃に耐えることは不可能だと判断して、一度海の中に潜った。水面を隔てた船上で、人間の悲鳴と積み荷がバシャバシャと落ちてくる音が聞こえる。それから――。


 次の瞬間、一人の人間が落ちてくる影が、水面の向こう側にスローモーションで映った。だんだんとこちらに迫ってくるそれは、どうやら先ほどの金髪の青年らしい。水しぶきととともに、海中に彼の身体が沈んでいく。青年はもがく様に手足を動かした。はっとする。人間は泳げない。このままでは、死んでしまう。


 水中の中で、私は彼の顔を確認した。目は閉じている。口から海水が入ったのか苦しそうだ。こちらを見ていないことを確かめると、私は彼の頭だけでも水面に出させようと押し上げた。が、青年はだらりとしたまま呼吸をし返す気配がない。


 そうだ、陸! 人間は、陸で生きる生き物だ。とりあえず、早く陸へ運ばなければ。

 私は彼の腕を自分の肩に回すと、必死に尾ひれを動かした。波の水圧で幾度も押し戻されそうになりながら、それでも流れに逆らって進む。急ぐなら水中を潜った方が早いが、人間は水中で呼吸ができないことを思い出す。魚は陸に上げたら窒息して死んでしまう。人間にとって海に潜るということは、それと同じことなのだ、と父から教えてもらっていた。


 まもなく、浜辺についた。嵐はあっというまに通り過ぎたのか、そこは波の音のほかは静寂に包まれていた。砂浜に青年を下ろす。彼の身体は水に濡れてひんやりと冷え切り、氷のように冷たくなっていた。おそるおそる鼻に手を当てみると、息をしていない。死んでしまった……のだろうか。


 突然、罪悪感に襲われた。海に落ちてしまったとはいえ、助けるどころか殺してしまうなんて、とどうすればいいのかわからなくなる。もっとも、海に落ちた人間はどうすれば息を吹き返すのかなんて、人魚の私には知る由もなかった。私が一人であたふたしていると、誰かが砂浜を踏む音が近づいてくる。他の人間に見つかるのはまずい、とあわてて私は岩陰に隠れた。


 倒れている青年の元に近づいてきた、その人間の姿は覚えていない。濡れたような黒髪だったことだけが印象に残っておる。その人が青年を見つめた後、何か言った。一瞬とも思える時間が過ぎ去った後、彼が急に咳き込んで息を吹き返した。


「ああ……よかった」


 なぜか寂しさを感じながら、彼が目を開けたのを見届けると、私は砂浜を後にした。

 それで、よかったのだ。


 それなのに、その日から彼の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 なぜだろう? どうして?

 何度自問してみても答えは出なかった。海の中のどこを泳いでいても、あの嵐の日のことや、助けた青年のことが思い浮かんでくる。


 考えあぐねたまま何か月か過ぎた。いつものように水面から顔を出してみると、満月だった。水面に映った月は不格好に波立ちゆらゆらと揺らめいている。この心の正体がわかるまでは、私はすっきりしないと考えた。再び深みへと潜っていく。どんどん視界が暗くなっていく。私は急に泳ぐのをやめて、ただ水に身を任せてぷかぷかと漂った。なぜこんな思いになるのかもわからない。わからないのに、なぜか逆らうような気も起きてこないのだ。


 そして、目前にあの難破船の魔法使いの住処を見付けて、私は思い出した。

 これはゲームなのだ――と。

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