アイガとクレアー藍き獣、紅蓮の切札ー
京京
第一章
序章 卒業からの……
「俺は守られたいんじゃない。守りたいんだ。この手で。君を……」
記憶の中で泣く幼き日の君の姿。
俺は抱きしめようとする。だが、それは近づいた瞬間、露となって消えた。まるで俺を拒絶するかのように。
世界は途端に色を失い、白黒となる。そこは濃淡すらない。
明確な白と黒の世界で倒れている俺と泣き叫ぶ君。
手を伸ばすこともできない、慰めることもできない。
あぁ、何度この場面を見ただろう。
何もできず無様に這う俺は一体何をしようとしたんだろう。
泣いたまま、君は俺の前に立つ。その背中は勇ましくそして物悲しい。
俺は……俺は……
そこで俺は瞼を開いた。
守りたい人に守られた愚かな弱者は何者にもなれない。
心に穿たれた楔が微かに震える。それは自嘲か、悔恨か。
兎にも角にも……さぁ、舞台に上がろう。
もう覚悟は決めた。代償は支払った。
あの日に置いてきたものを、あの日に失ったものを、あの日に立てた目標を、全て手に入れよう。
今日、この日、この場所、この瞬間、俺は生まれ変わった。そして俺の物語が動き出す。
歪に、ぎこちなく。
宵闇を覆う天空の雲が数秒薄れて朧月が地上を照らす。
そこに踊る二つの影。
暗き舞台に立つその二つの影はどちらも筋骨隆々でその肉体には無駄なものなど一切無かった。宛らギリシャ彫刻のように美しく逞しい。
両者から研ぎ澄まされた気と気が放たれ、中空でぶつかり合い空気を震わせている。
枯草の草原は深緑のカーペットを彷彿とさせ、風が戦ぎ微かなBGMを奏でていた。
彼ら以外に他の生物はいない。二人きりの舞台だ。
照明代わりの星々は雲に隠れ微かな光しか送らない。
そんな薄闇の中、一つは影でもわかるほどの巨大な獣だった。二足歩行だがシルエットで見る限り熊に近い。獰猛な雄叫びを上げ、その背に幾重にも折り重なる棘のようなものがある。興奮しているためか肩に近い部位の棘は逆立っていた。
もう一方の影は巨大な獣と比べると二回りほど小さい。しかしその身体に宿る筋肉はまるで超新星を引き起こす直前の惑星の如く脈動していた。
巨大な獣は雄叫びを上げながら大雑把にその巨腕を振り回す。
小さき影は容易くそれを避けた。
巨大な獣の攻撃は小さき影の後ろにあった大木をガラス細工のように粉砕する。瞬間、紙吹雪が如く木端が舞う。
一撃が大打撃。小さき影はそれをわかっているのか巨大な獣の動きを冷静に見極めていた。その証拠に全ての攻撃を寸前で躱し続けている。
それでも巨大な獣は力任せの攻撃を繰り返した。轟音が殺意を纏いて響き渡る。
小さき影は常にボクサーのようにリズムを取りつつ巨大な獣の攻撃を躱し続けた。時折挑発するかのように軽いジャブを打ち込む。
明らかに殺意も怒気もない攻撃に巨大な獣はイラつきを滲ませていた。理解しているのだろう、己が侮辱されていることに。
同じことの繰り返しと攻撃が当たらないこと、そして挑発行為に業を煮やした巨大な獣は一瞬低くしゃがんだ。巨体が圧縮される。
そのまま勢いをつけて小さき影目掛け突っ込んだ。背面の棘もそそり立つ。
串刺し、もしくは圧殺する気だ。
小さき影はその危機的状況で何故か足を止める。そして構えた。諦念ではないようだ。空手の構えにも見える姿勢で静かに呼吸を整える。
巨大な獣が間合いに入った瞬間。
小さな影は綺麗な三日月の如き軌道を描き、強烈な右廻し蹴りを獣の顔面に決めた。
隕石が落ちたのかと錯覚させるほどの爆音が暴風と共に広がる。草木は爆ぜ、その破片が軽やかに舞った。
圧倒的な突進すら真正面から殺すほどの強烈な蹴り。
背面の棘を縫うよう決まったその廻し蹴りにより獣の歯と血が飛び散り、獣は膝をつく。脳震盪が起きているのか動けないでいた。
小さな影は追撃の一打を放つ。
アッパー気味に左手で獣の顔を切り裂いたのだ。
雲の隙間から星明りが一瞬だけ望む。
その光に照らされて見えた左手はまさに獣の手だった。五指の先にはナイフのような鋭い爪があり、それが星明りを乱反射させる。
この爪で獣の顔は下から上へと切り裂かれたのだ。
顔の肉は寸断され血飛沫が噴水の如く舞い散った。
巨大な獣は断末魔を上げる。
小さき影は冷酷な眼でその様を見下ろしながら右手を固く握った。
「しゃあ!!」
気合と共に放たれた右ストレート。否、正拳突きだ。
大地を粉砕するかのように強く踏み込み、斬撃の後の左手を素早く引いて、それら全ての動きが連動し、穿たれた右拳の一撃。
その一撃は巨大な獣の顔面を骨ごと粉砕した。
同時に獣の背中が破裂する。幾重にも重なっていた棘が飛び散り背面から白い骨が剥き出しになった。
ハンマーで殴ったかのように陥没した巨大な獣の顔から拳を引き抜く小さき影。
決着の時だった。
巨大な獣はそのまま地面に臥す。そして二度と起き上がることはなかった。
同時に決着を祝うかのように雲に隠れていた星たちが漸く完全に現れた。
その光に照らされた勝者である小さき影は青い湯気を放ちながら少し小さくなる。
「はぁ……はぁ……」
そこにいたのは一人の少年だった。獣などではない。れっきとした人間の少年である。
黒い短髪、黒い瞳、幼さが残るものの端正な顔立ちだ。が、額の左側には線のような傷跡がある。
その身体は先ほどの影同様筋肉の鎧で覆われ、これまた無駄など一切無い洗練された身体だった。
一方の敗北者である巨大な獣はまさに熊だ。
だが普通の熊とは明らかに違う。
今まで薄っすらとしか見えていなかった背面の棘が星明りに鈍く輝いていた。幾重にも重なるように無数の棘が生えており、その一つ一つが鋭く一突き出ていて、他の生物を容易く殺せるだろうと思えるほど禍々しかった。
何より巨躯。ゆうに三メートルを越えるであろう体躯に顔つきも本来の熊よりかなり恐ろしい見た目をしている。宛ら肉食獣の如き顔だった。
「うみ、合格じゃ、アイガ」
少年の後ろから禿頭の男が突如として現れる。本当に突然だった。まるで最初からそこにいたかのように現れたのである。
しかし、ここは草原。男が隠れられる場所など無い。木は数本あるが人が完全に隠れられるほどの大きさではないのだから。
ただ、少年は男の出現に驚かず冷静に息を整えていた。
現れた男は道着のようなものを着ていて腰にはナイフ、背中には頭陀袋を背負っている。それは古の猟人のようだ。
「じゃあ……これで俺もアイツのいる学校にいけるんですね」
少年ことアイガは少し興奮しているようだった。それは獣を屠ったことによる昂りだけではないようだ。
「あぁ。それより、ほれ」
男は頭陀袋の中から服を取り出すとアイガに投げ渡す。
アイガは真っ裸だ。だが、恥ずかしがることもない。寧ろ堂々としているようだった。
彼は服を受け取るとササっと着替え始める。
「ふむ……単体で魔獣……それもランチャー・ベアを斃すとはな……恐れ入ったわ」
男が倒れている熊の死骸を触りながらそう言った。
「いえ、師匠には及びません。わざと怒らせて……棘のある背面を向けさせないように挑発しましたし……それにこの個体は棘を発射できないタイプだったようなので何とかなりました。作戦勝ちですね」
民族衣装のような服を着終えたアイガはそう言いながらストレッチを始める。
男は背負っていた頭陀袋をおろし紐と布を取り出して地面に置いた。そして腰からナイフを抜いて獣の首を裂き、血抜きを始める。
「バカ言え。ランチャー・ベアは棘を発射しない個体のほうが危険じゃぞ。その分腕力に特化しておるからのう。どちらにせよ素手なら儂じゃあ無理じゃ」
そう言いながら見事な手際で獣の血抜きを終えた男はさらにその死骸を解体していった。
あっという間に獣は臓器と肉と骨と皮に分解される。
「師匠、こいつ食べるんですか?」
ストレッチを終えたアイガが聞くと男はニコリと笑った。
「うん? この魔獣の肉は珍味じゃぞ。いい酒のアテになる。臓物は加工できるが保存方法がないし面倒じゃから燃やすがのう。皮と骨は高く売れる。さっさと解体せんと臭みが付くから厄介じゃが」
そう言いながら男は適当に草原の枯草を集める。そして指をパチンと鳴らした。
すると、男の人差し指から小さな火が揺らめきだす。
男はその火を枯草の中に落とした。
やがてバチバチと音を立てながら焚火が出来上がる。
男はそこへ獣の臓物を置いていった。少々鼻に突く臭いを出しながら灰色の煙が夜空へと昇っていく。
「うむ、この臭いは他の魔獣も嫌がる。これで暫くここには魔獣は来んじゃろう」
男が焚火をしている間、アイガは男が解体した肉を紐で括り持ち運べるようにしていた。骨は布で包み、皮は棘があるので裏返しにして持ち運びやすくしている。
「うむ、準備は完了しておるな」
「はい」
「まぁ、もう解体はすんだし
そして暫く二人は焚火に当ることにした。
鼻につく臭いにも慣れ、先ほどまで血で血を洗うような戦いが繰り広げられていたとは思えないほど静かで澄んだ空気が流れる。
「いやはや……まさかお前がここまで強くなるとはな」
男は懐かしむようにアイガに語りかけた。
「師匠のお陰です」
「儂が教えたのは技術だけじゃ。ここまで強くなったのは全部お前自身の努力の賜物じゃよ」
アイガは照れ臭そうに笑う。
男も顔がほころんでいた。
また静寂が流れる。
暫くして。
「まだ望みは捨てぬか?」
急に男の声のトーンが落ちた。
アイガも笑みを消す。
「はい。すみません……師匠」
「謝ることはない。そうじゃな……もう後戻りはできんからな。出過ぎたことを言ったな。すまん」
「いえ! そんなことはありません……師匠には感謝しています。俺を育ててくれたんですから……」
男はゆっくりと立ち上がった。
焚火の炎は小さくなり熊の臓物もすっかり炭化している。男はその焚火を足で踏みながら消火した。
「アイガ……お前の行く道は恐ろしいほど険しく、厳しく、そして辛い道じゃ。最早戻ることもままならん」
「はい」
「じゃが、止まることはできる。どうしても進むことができないときは止まることじゃ。止まることでしか見えぬ景色もあるからのう」
「はい」
アイガも立ち上がっていた。その顔は決意に満ちている表情だ。
そしてアイガは肉を肩に担ぎ、空いた手で皮を抱える。
そのまま残りの骨を包んだ布を持とうとしたが、横から男がひょいと担ぎ上げた。
「あ、師匠! 持ちますよ」
「たわけ、これくらい持てるわ。さて帰るぞ。今日はお前の入学祝じゃ!」
アイガは顔が満面に笑みになる。
「それに帰ったら、入学の準備もせにゃならんのう。一週間後にはお前は、晴れてディアレス学園の生徒なんじゃからのう」
「はい!」
アイガの元気な返事が闇夜の森に響き渡った。
同時に記憶に残るあの光景がまた浮かび上がる。
心の楔がまた微かに震えた。
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