恒久の絆

蜜柑桜

第一話 帰郷

 頬を打つ冬のきりりと冷たい空気が、手綱を握る指の感覚を麻痺させる。しかしそれは同時に空を澄み渡らせ、その青を常よりも深く明るく眼に映らせる。

 シレアの森を通って国境を過ぎ、平野を南へ走らせていくと、標高が低くなるにつれて雪につく馬の足跡が浅くなり、やがて土が剥き出しになっていく。隣国のテハイザ領まで下れば、刺すような風が鼻柱を凍らせることもなくなる。


 軍事強国として名高いテハイザ王都は二重の防壁で囲まれている。内側の防壁は王城の周りに広がる城下町を守り、外部者がその中へ入るには、半円形の防壁に等間隔で設けられた検問のいずれかを通らねばならない。


 テハイザ新王が新政権を組閣しなおしてから初めて年が変わり、新年の祝賀がそろそろ落ち着いた頃のことである。陽が昇って間も無く、馬を走らせてきた二人の若者が城下の真北に抜ける検問所の前で止まった。二人の出立は、このような時分に来る旅人としてはいささか奇妙だった。早朝に城下に到着する旅人の大半は商人だが、それにしては荷物が少なく、しかも二人のうち片方といえば、頭をすっぽり覆い隠す羊毛付きの頭巾のせいで面立ちはよく見えないが、紛れもなく女性である。

 女性の紅葉色の瞳に既視感を覚えながらも、衛士は他の通行者に対するのと同じく、鞘に入ったままの剣を掲げて二人を制した。


「このような朝早い時分に、城下へ何用で来た。まさか諸外国からの急使というわけでもあるまい?」


 職務柄、厳しく馬上の人物を睨み据える衛士に対し、朗らかに笑いながら口を開いたのは女性の方である。


「急使、ではないけれど、その諸外国から王へ謁見に参りましたのですけれど?」


 さらりとした水の流れを思わせる高く澄んだ声はまだ若い。

「謁見」の言葉に、衛士は今日の職務伝達を頭の中で辿ってますます二人を訝しく思った。心なしか詰問調になる。


「陛下にということであれば、御仁の主君から陛下への謁見願いの書状は。身分のわからぬものをおいそれと通すわけにはいかない」

「わたくしから陛下へお願い申し上げたお返事はもう頂戴しておりますわ。シードゥス」


 すると女性より一歩前に馬を止めた若者の方が、肩から掛けた鞄から丁寧に折り畳まれた書状を取り出した。確かに、テハイザ王家の紋章である南十字星と帆船の印がある。

 まだ訝りながら書状を開いた衛士は、その文面を見て驚愕した。


「肖像画と似ているとは思ったが……まさかご当人か」


 衛士の言葉に、若者が女性の方を振り向いて叱り付けるように言う。


「ほら、だからもうちょっと伴の者を連れてきた方が王族っぽかったでしょう」

「嫌ね、ただのご挨拶に国税を使えるわけないじゃないの」

「せめて自分で馬走らせるとかやめたらどうだったんですか。俺、お前が乗せてけってソナーレさんにすごい怒られたんですけど」

「そしたらあなたの馬が重くて可哀想でしょ。それにこのだってずっと遠駆けしたがってたのよ」


 二人の言い合いを聞きながら、帳簿と書状を照らし合わせていた衛士は、予定されている訪問者の一覧に目を通すと、姿勢を改めて礼を取った。


「大変失礼を致しました。シレア国第二子第一王女、アウロラ・ド・シレア王女殿下。ようこそテハイザ王都へ。どうぞお通りください」


 ***


「前々から検討していたことなのだが、アウロラ。即位前にお前も一度、テハイザに挨拶に行った方がいい」


 冬に入り、シレアの家の屋根を雪が覆うようになって間もなくのことだ。王城の自室で茶を喫しながら、兄王子のカエルムがそう切り出した。王女は紅葉色の瞳を丸くすると、茶器から口を離す。


「シレアは共同統治制だ。アウロラも次期為政者である女王となるのだから、隣国くらいには赴いておくのがいいだろう」


 先の秋、兄であり次期王位継承者であるカエルムは、即位前の表敬のため諸国を歴訪していた。中には挨拶は表向きで、外交交渉が目的の国もいくつかあり、テハイザもその一つだった。即位式には諸外国の重鎮を招待しているし、秋の外遊には危険が伴う可能性もあったので、アウロラは本国に残ったのだ。


「それは、是非にも行ってみたいけれど。お兄様はいらっしゃらないの?」

「いや、テハイザ王から招きの書状を頂いているし、後から追いかけるつもりだ。だが、今やっている案件をまとめてしまいたいのでな」

「では私も待ってるわ。一緒に出掛ければいいじゃない?」


 数ヶ月の外遊から漸く兄が戻ったところだったのだ。上目遣いで見るアウロラに、カエルムは微笑した。


「そう出来たら嬉しいが、今回は是が非でも連れて行かねばならない者がいるだろう? 私が一緒とあっては、安全だからとが拒む可能性があるからな」

「ああ、ね」


 納得した、と、アウロラは頷き、茶を一口飲み込む。そして穏やかに微笑んだ。


「それなら先に二人で行くしかないわね。あれもいつまでも引きずってるばかりじゃ駄目だわ。でも、早くいらしてね」


 ***


 王城に廊下を一人の青年が駆けていた。冬のシレアは極寒だ。暖炉のない廊の木製の床は冷たく、身を包む空気が四肢を緊張させる。多くの仕官が各々の持ち場に入ってしまっている今、人気のない中にもかかわらず、青年の足音はほとんど響かない。


「こら、廊下走るな」

「うわっ」


 急に目の前に出てきた人影に青年は驚き急停止しようとしたが、勢い余って前につんのめった。


「シードゥス、いい加減、城の中で足音潜めて走る癖、直せよ。僕だから気がついたようなもんだぞ」

「ロスさん……こそっ……突然やめてくださいよ、心臓に悪い。早く行かないと。殿下に呼ばれてるんですってば」


 壁に手をついて身を止めた青年は、驚愕で息も切れ切れになりながら相手に抗議した。


「ああ、例の件か」

「例の件? 何だか知ってるんですか?」


 片眉を上げて見上げる青年にロスはにやっと笑い、黒に近い青年の髪の毛を掌でくしゃりと崩した。


「喜べシードゥス、休暇だよ」

「え」

「帰省しろ」


 今にも笑い出しそうなロスとは逆に、青年は濃紺の瞳を大きく見開いた。


「はぁ?」


 あまりに間抜けな声に、ロスは今度こそ声を上げて笑った。

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