第2話 生い立ち

 古代史の著名人 聖徳太子は 生まれた時から喋ることが出来たとの伝説を持ち、聖人の知恵があったとされている。彼は 仏教を高句麗の僧に習い、また、それ以外の教えも博士に学んで その全てを達成したという。

 "聖徳太子"という名称自体は 現存する最古の日本漢詩集『懐風藻かいふうそう』(751年)が初出と言われているが、太子が亡くなって約1世紀後に完成した正史『日本書紀』(720年)には、既に 彼を聖人化した記述が存在していた。


 用明天皇(第31代)の第2皇子 厩戸皇子が生まれた時代、仏教がこの国に入ってきて、国内で対立が生じていた。仏教を受け入れんとする崇仏派すうぶつはの代表が蘇我氏であり、仏教を排斥しようとする排仏派はいぶつはの代表が物部氏だ。

 まぁ 実際は、仏教とは関係のない政争だった可能性も全く考えられないわけではない。大和朝廷の有力豪族 "大臣おおおみ"蘇我氏と "大連おおむらじ"物部氏は、宿敵ライバル関係にあったとされていた。

 仏教が6世紀半ば 日本に公伝した背景として、朝鮮半島の動乱がある。この時期、半島の南東に位置する新羅しらぎが攻勢を仕掛け、同じく半島の南西に位置する百済くだらの領土を侵食。それを受け、百済の聖明王せいめいおうが新羅を牽制するため、その後背に位置する倭国に使節を派遣したのだった。

 こうして 仏教が公式に この国に伝わったわけだが、その後 ほどなくして、この国で疫病が発生。疫病を鎮めるために信仰の力を借りようという勢力と、原因を異教に求め それを排斥しようとする勢力に分かれて対立が顕在化した。

 なお、このときの疫病の流行を海外からの移動に求める見解がある。それまで朝鮮半島と倭国との間に全く交流がなかったわけではないが、恐らく免疫の関係や新たな因子の出現により 爆発的に感染が広まったのだろう。現代のみならず(2020年 新型コロナ流行)、過去においても かような事例は存在していた。歴史に学ぶことは、形は違えど これから起こり得る混乱を未然に回避する上でも意味がある。願わくば、不当な差別や不寛容な態度は 控えて欲しいものだ。括りを少し変えれば、自らもそちら側に入ってしまうかもしれないのだから。綺麗事は言わない。結局は、人が他人ひとを大切に想うことが回り回ってになるのだ。甘いことは重々承知しているが、少なくとも対立を煽るような言動は避けたいものである。


 それはさておき、厩戸皇子の父 用明天皇の崩御後、崇仏派と排仏派の争いが勃発した(丁未の乱)。これにより排仏派の筆頭 物部守屋もののべのもりやが敗死。以降、物部氏は衰退していくこととなる。

 この争いに、皇族 厩戸皇子は崇仏派として武器をとって参加していた。父親である用明天皇が崇仏派であるにも関わらず 疫病で亡くなったことは皮肉としか言いようがないが、その志を受け継いだ厩戸皇子が仏教を守護する四天王に願を掛けて戦いに臨み 見事勝利。その後、大阪の地に四天王寺が建立された。かの寺院は、聖徳太子信仰の中心地の一つである。

 乱の結果、崇仏派の雄 蘇我馬子そがのうまこに推薦された崇峻すしゅん天皇(第32代)が即位したが、2人は間もなく対立し、馬子の命令によって崇峻天皇は暗殺。次いで、日本史上初の女帝 推古天皇が即位した。

 そして、ここから更に 聖徳太子の華々しい活躍が描かれることになる。

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