花綴り
柊木紫織
01.スイセン
ざぁざぁと、波が鳴いている。
それはスイセンの咲いている岸辺で、寄せては引いてを繰り返していた。
咲き誇る花々は、波と同じくざぁざぁと風にあおられて、揺れて乱れて白を散らす。揺れる度に、甘い香りが
湖の水面は周囲の溢れんばかりの緑の山々や空の雲を映しこんでは溶けるように輪郭をぼかす。
スイセンは白いガクが三枚、花びらが三枚。それの中央にある雌蕊と雄蕊を囲うように包むのは、花冠と呼ばれる花弁の集合体だと聞き及んでいる。この花は、一つの花で二種類の花弁を持っているのだ。
花冠に顔を近づければ、より香りは強まった。
花の芳香に酔ってしまえば、私の脚は自然に湖へと向かう。
進めば人がいた。否、正確には人のようで、人ではない存在が波打ち際と花畑の境目で佇んでいる。
上が金色、下が真白という二色の髪は、風に弄ばれてはためいていた。
目が奪われる。風に流される髪、深緑の葉を紡ぎ合わせた衣服から伸びる細い腕の白い肌。こちらをちらりとも向かぬ端正な輪郭は、陽の光にあたってなおも霞むことがなく眩い。
スイセンの花人。
私が遣えるべきその存在は、ここしばらく自分を見ようとはしない。
花々に足を絡めとられそうになりながら、花人によたよたと近付く。
スイセン様は湖の水面に視線を落とし、自分を見ようとはしてくれない。きっと見ていることにも近づこうとしていることにも、気付いているだろうに。
そのことが悲しくて腹立たしくて、更に近付いてはためく長い髪に指を絡めた。
するりと指に絡まる絹のような手触りに、無性に高揚した。身体の芯から熱いものがこみ上げ、冷たい湖畔の風がその温度差を際立たせる。
いつもであれば触れるのも憚られるお方だ。それでも恐れずに触れてしまったのは、芳香に酔っただけではない。今触れなければ、未来永劫叶わぬ夢になると思ったからだ。
そして水面を眺め続けるあのお方は、髪に触れられてやっと私に振り向き、口を開くのだ。
――醜くなってしまったね。
風に乗って耳に届いた穏やかな声には、失意と嘲りが孕まれている。
その通りだ。その輝く黄玉の瞳に映る資格もないほどに、自分は醜くなってしまった。無垢な頃を過ぎ、時と共に
今すぐにでも指に絡まる髪を手繰り寄せ、神に愛された花の身体に触れたくてたまらないのだ。
その劣情を穢れと呼ばずしてなんと言おう!
昂った熱が叫ぶ。積もり積もった思慕が懇願する。
止め方など分からぬし、止めたいとも思わなかった。
湧き上がる衝動のままに髪を掴んだ。けれど手繰り寄せようとする前に、髪はするりと指の合間から逃げてしまった。
代わりにひんやりとした手が、みっともないほどに熱くなった頬に触れる。痛いほどの温度差が、この想いが決して届くことがないのだと完膚なきまでに私の神経に叩きこむのだ。
私の肌がこの人の肌に熱を宿すことはなく、その瞳に感情を灯すことはない。
絶望する私の醜い顏を双眸に映しながら、貴方は端正な顔を近づける。
鮮やかな緑の爪先が唇を撫でた。ピリッと香辛料を舐めたかのような痺れ。どくりと心臓が大きく脈打つ。
それは歓喜の脈動か、はたまた花の毒のせいか。
唇から伝わる痺れは全身に巡り、片膝が折れてたたらを踏む。
花は私を受け止めることなく、軽く背中を押して湖に進ませた。
あぁ、なんて意地悪なお方だ。
顔から水に突っ込んでしまっては、貴方の顔を見て逝くことができない。
貴方の腕でなくても、せめて貴方の一部である花々の中で息絶えたかった。
そんな矮小な欲望を叶えてくださる義理などないことは分かっていても、懇願が止めどなく溢れる。
振り返ろうとして、止まろうとして、脚に力を入れようとしても叶わない。
水面が視界いっぱいに広がる。
絶望している私の肩越しに、貴方は哀れな物を見るように微笑んでいた。
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