第5話

「お先に失礼します」

 後ろから響く声に俺は我に返った。時計を見ると既に五時だった。どのくらい物想いにふけっていたのだろう。パソコンのモニターにはうっすらと三十代半ばの皮膚がくすみ髪の毛もくたびれた男が映っていた。一目で覇気の無い表情をしているな、と思った。

「先輩、お疲れ様です」

 声の主が俺に帰宅の挨拶をした。ゆっくりと俺は振り返る。デーモンが怪訝そうな顔をしてデスクの横に立っていた。俺よりずっと若く、数ヶ月前に業務経験者として採用された男だった。デーモンは右手に仕事用バッグを抱え、左手にピンク色のリボンでラッピングされたプレゼントを持って今にも走り出したい様子でいた。

 俺が振り向いたのを確認すると、デーモンは口の端だけを上へ吊りあげた。愛想笑いのつもりだろうが、いつも目だけは笑っていない、この中途半端な表情が俺を不快にさせた。 

 デーモンは昼休みに女子社員が噂するくらい端正な顔立ちをした男だった。バラ色の頬にすべすべした肌と薄い金髪は陶器で造られた人形を連想させ、神秘的ですらあった。社内での評判とは裏腹に、俺は以前からこの男の狡猾な笑みが嫌いだった。この男はいつもそうだ。皆まで言わせるな。俺は大事な約束があるから急いでいるんだ。こいつの考えはさしずめこんなところだ。自分から事情は話さず、いつも周りが察することを求めている。

 後から入ってきたくせに、すこし仕事が出来るくらいで調子に乗るな。

「おい、デーモン」

 小走りでオフィスを去ろうとするデーモンを俺は立ちあがって呼びとめた。奴は制止されるのがさも意外であるという風にドアの前で止まった。

「お前、たまにはもう少し遅く退社したらどうなんだ。ここにいる連中は皆お前より入社が早い先輩だぞ。彼らを差し置いて下っ端のお前が定時上がりで女とデートか。職場をなめんじゃねぇぞ」

 俺は努めて冷静に話したつもりだが予想外に声が大きく、同僚や上司たちの動きが止まってしまった程だった。突如として始まったきな臭い説教ムードにオフィスはしーんと静まりかえった。その場の全員が息をひそめ、好奇心に目を丸くして俺とデーモンの様子をうかがっている。

 予期せぬ展開にデーモンは一瞬だけ顔がこわばったように見えた。が、しかし、この小癪な後輩は余裕の笑みを浮かべ、ゆったりとした動作で身体を俺の方に向けた。そして口を開いた。

「僕は本日の業務を就業時間内に全て終わらせたため定時に退社しているだけです」

「そういうことを言ってるんじゃない。気持ちの問題だ。一番後輩なんだから、予定より早く仕事が終わったら他の人間の仕事を手伝ったりしたらどうなんだ。そういう気遣いも出来ないのか」

「それも、終わりました」

 デーモンはそう言って、奥のデスクに座る人物に目くばせした。俺の同期のアレックスだった。アレックスは俺と目が合うとバツが悪そうにファイルで顔を隠した。

「あいつ……」

 俺はひそかに舌打ちをした。デーモンは勝ち誇った様子でふふんと笑うとこう続けた。

「僕の退社がいつも早いのは、僕の仕事が正確で早いからです。ご自分のお仕事のペースがゆったりされているからといって、僕に当たるのは勘弁して下さい」

 デーモンが言い終わるや否や、あちこちからどっと笑いが起こった。アレックスの頭上に乗せたファイルが小刻みに揺れている。上司の咳払いでようやく笑い声は収まった。

 憎たらしい後輩は意気揚々とドアを開けて帰って行った。去り際に奴の目が俺をとらえた。スカイブルーの瞳に嘲笑と軽蔑の色が浮かんでいた。

小賢しい、減らず口野郎め。

 屈辱感が全身を駆け巡り、俺の身体をわなわなと震わせた。一部始終を楽しんだヤジ馬どもは何事もなかったように業務を再開し始めた。

「あのやろう……」

 俺はそばにあったゴミ箱をおもむろに蹴飛ばした。あたりに紙くずが散乱したが、構わずに俺は休憩室へのドアノブを掴んで壊れるくらい強く閉めた。俺を採用した上司が禿げあがった頭を抱えてうなだれる様子が背後から伝わってきた。


 

 東京の夏は思っていたより雨が多い。


 中野のアパートに帰宅した俺は電気を点けながらそう思った。しとしとと降る雨の音が聴こえる。そろそろ本格的なレインブーツを用意するべきだ。気づけば真夏の気配がすぐそばまで来ていた。



 デーモンとの一件があった後、俺はシステムエンジニアの仕事を辞めた。俺を採用した上司に退職の旨を伝えに行くと、拍子抜けするほどすんなりとそれを受け入れてくれた。

「短い間でしたが、お世話になりました」

 俺はそう言って頭を下げた。そうか。今までごくろうさん。当たり障りの無い言葉のあと、上司は目を伏せてしばらく沈黙したのち、こう言った。

「お父さんはその後、ご健在かい?」

 途切れ途切れにゆっくりと発せられた言葉に驚いて俺は頭を上げた。

「私から君のお父さんによろしくと、一度でいいから伝えておいてくれ」

 禿げあがった上司の頭部をしばらく眺めた。

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