第4話

 父親が母を殴ったのは、それからさほど経たない頃だった。

俺が小学校から帰ると、翳りゆく部屋の中で丸く佇む大きな塊を見た。次に生臭い血の匂いが俺の鼻をかすめてきた。一瞬で俺は全てを悟った。口から飛び出るかと思うくらい心臓が跳ね上がった。その塊は二人の人間だった。男の顔には無数の切り傷が刻まれ、血にぬれた腕には女が抱かれていた。二人のそばには包丁が鈍い色を放って転がっていた。

 頭に響く悪魔の声に耐えられなくなった母は、俺の父を包丁で刺し殺そうとした。もはや冷静さを失った母は悪魔のささやきに従順してしまった。

「その男を殺せ。その男がお前を苦しめる」

 包丁を振りかざす自分の妻に父は説得を試みたが無駄だった。抵抗むなしく壁際に追い詰められた父は本能的に彼女を思い切り殴った。小柄な母は衝撃で吹き飛ばされて向かいの壁にその身を打ち付けた。

 しばしの静寂が流れた。


 どのくらい時間が経っただろう。

 自分の口からむせび泣く声が聞こえてきた。

「どうして。どうして」

 父は泣いた。


 うずくまる女はもはや自分がかつて愛した妻では無かった。ありもしない妄想に取りつかれ、自分を殺そうとするケモノとなり下がった。しかし彼はずっとずっと残酷な真実を信じたくなかった。信じられずにいた。四つん這いで倒れた妻のそばに行き、彼女を抱きしめながらいつまでも泣いていた。出逢った頃、自分が夢中になった可愛い女が精神の死を迎えたのだと、ようやく彼は理解した。 

 俺は男と女は自分の父と母でありながら、もはやこの世の存在ではないと感じた。二人は渾然一体となって闇と同化し、やがては消えてゆく気がした。

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