第5話 蝕む者

 ――『蝕』ガ、ヤッテキタ。


 その声は、矢野とは別人だった。


 声が頭に直接響いてくるという状況にも戸惑いを覚えたが、怪物の登場を前にして躊躇している暇はなかった。


「蝕って、あの怪物のことですか?」


 しかし、西村の疑問は無視された。


 カプセルから怪物の全身が露になったのを確認した矢野が、西村を追い越して『蝕』の前に立ったのだ。


 ――『蝕』ガ、ヤッテキタ。


 矢野の背中越しに『蝕』の姿がある。


 それは、深い深い暗黒の色。


 光さえ届かない、闇が立ちふさがった。


 身の丈は四メートル近い。


 全身が暗黒に覆われ、頭部にある双眸だけが赤く光っている。


 怪物は、怒りのエネルギーを放出するかの如く、肉体のあらゆる場所から皮膚を鋭角に突き立たせた。大小さまざまな黒く鋭い突起が出たり入ったりするさまは、威嚇として絶大な効果を発揮した。


 西村は失禁した。このまま怪物の餌となり果てて自分の人生は終わるのだ。


 しかし――。


 突然の旋律が、西村の絶望に待ったをかける。


 それは優しい風に吹かれるような、心地よい歌声だ。


 歌声の主は――矢野だった。


「て、店長?」


 矢野は、怪物に背をむけて西村を振り返った。


 心が自然にその旋律に引き込まれていた。


「うっ」


 歌声に頭部が疼き始めた。両手で頭を抱えた西村は、自分の『脳』に電撃が走る感覚を味わった。


「こ、これは……」


 ぐりっ。と『脳』が揺れる。


「ああっ!」


 脳内を疾風が駆け抜け、快楽の波動が押し寄せた。


 だが、次の瞬間――西村の意識は現実に引き戻される。


 ぼろきれのように、矢野の体が宙を舞っていた。振り払われた『蝕』の長い腕に、弾き飛ばされたのだ。


 途切れた歌声に、西村の『脳』の疼きもやんだ。快楽の波動が消え、我に返った途端、怪物と目が合った。


『蝕』の次なる標的は、西村だった。


「よせ! やめてくれ!」


 命乞いをして通じる相手とも思えないが、半ば本能でそう叫んでいたのだ。


 赤い双眸はあくまでも無慈悲だ。人間には耐え切れない瘴気を発散して、巨大な口が暗黒の洞窟となって西村を襲う。


 く、喰われる!


 西村が覚悟した瞬間。


 複数の人間が、超人的な素早い動きで、西村の体を『蝕』から遠ざけたのだ。


 突然の邪魔者に『蝕』が怒りの咆哮をあげる。


 ――おい、しっかりしろ!


 これも同じくテレパシーというやつだ。しかし男の声は、はっきりとした意志をもっていた。確実にさっきの矢野とは状態が違う。


「あ、あなたは……」


 黒いラバー製の胸当てや、ショルダーパットを装着した姿は、テレビや映画などで活躍する特殊部隊のタクティカルスーツのようだった。


「あ……あなたたちは、誰ですか?」


 ――俺たちは特務機関に属するものだ。だが、現在この体は侵略されて自分たちの思うように動かせない。ここへ来たのも侵略者の思惑によるもので、われわれに選択権はない。


 侵略。その言葉に、これまでの状況が納得できた。


 首を切り裂かれた男や、脚のある『脳』たちは人間の体を奪おうとする侵略者だったのだ。そのために、店長の矢野は、自分の『脳』を引きずる出されて別人となった。俺も例外なくそうなる運命だったのだ。


 では、この『蝕』と呼ばれた怪物はなんだ? 同類であるなら、仲間である矢野を攻撃する必要はないはずだ。


『蝕』が怒っていた。全身を黒い針山にして、襲って来る。


 タクティカルスーツの男が、西村の体を抱えて飛んだ。


 信じられない脚力で五メートルほどの距離をジャンプすると、また別の場所に着地した。


「す、すみません。ありがとう」


 ――礼をいわれても困る。体が勝手に動くんだ。


「侵略されたのに、冷静ですね」


 ――俺もそう思うよ。


 地響きをたてて『蝕』がやって来る。


 聞きたいことが山ほどあるというのに、『蝕』の攻撃から逃れるため、またもや男に抱きかかえられて西村は飛んだ。


 攻撃をかわされた『蝕』の巨体が地団駄を踏む。赤い双眸をさらに赤くして、飛び退る西村と男の姿を求めて疾走した。


『蝕』がタール状の液体を吐き出す。


 見事な直撃を受けて、西村たちは墜落した。


 抱えてくれる男のなせる業か、地面に激突する衝撃は緩和されて、痛みや苦痛は全く感じなかった。その代わり、とりもちのような液体に全身の動きを封じられて、西村と男は逃げる手段を失ってしまったのだ。


「くそ!」


 獲物に止めを刺すべく迫った『蝕』に、異変が起こったのはその時である。


 激しい音と共に、『蝕』の胸が破裂したのだ。


 体に空いた大きな穴から、大量の黒い体液が噴出する。


 絶叫。 


 怪物の体を粉砕し、『蝕』に悲鳴をあげさせたのは、たったひとりの少女だった。


 セーラー服の少女。黒く汚れているが、元は白い夏用の制服にちがいない。彼女は『蝕』と西村たちの間に割って入る形で、大地に仁王立ちした。


 西村はこの世のものでない戦いを目にしていた。一瞬にして変わり果てた世界に、さっきまで確かにあった日常を探して、その視線が周囲を彷徨った。


 弾き飛ばされ、雪掻きの山に激突した矢野の姿を捉える。


「……店長」


 ぐったりした矢野の足元に転がるのは、『脳』だ。『蝕』に弾かれたときに、矢野の手からこぼれ落ちたのだ。その一部が破損していることに、ひどく衝撃を受けた。


 ……なんで、こんな目に合わなきゃならない。


『限界』という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、西村の頭上から巨大なものが落ちてきた。スローモーションで迫ってくるそれは……『蝕』の頭部だった。


 全身に衝撃が走った。


 西村の意識は――暗転した。

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