第3話 脱出

「もしもし、警察ですか。こちらは国道沿いにあるコンビニのNです。強盗に脅されて金を要求されています。すぐに助けてください!」


 店内で起こっていることを正直に話すことはできない。まさか巨大な虫に襲われているなんて誰も信じないからだ。そもそも、この荒唐無稽な話をうまく伝える自信もない。ここは一般的に通じるシチュエーションで相手を信じさせることの方が先だった。


「はい、俺ですか? 俺はアルバイト店員の西村です。バックヤードから店の電話で連絡しています。強盗は店長が対応していますが、危ない状況です。急いでください!」


 警察は信じた。すぐに駆けつけると言葉を残し通話が切れる。


 店舗の方から悲鳴があがった。矢野の声だった。自分を逃がすために盾となってくれた店長があの不気味な生物と戦っているのだ。それをこのまま見捨てていけるものか。 


「よし!」


 西村は受話器を置き、ロッカーにしまってあったダウンジャンパーとフルフェイスのヘルメットを取って外に出た。すぐに従業員用の駐輪場が見え、その一角に置かれた自分の原付バイクに駆け寄った。 


 天候はさらに悪化し、猛吹雪という状況だ。これでは警察の到着まで時間がかかるだろう。それまでに、なんとか店長を救いだす必要がある。 


 車体に降り積もった雪を払い落としてエンジンを始動させた。西村の頭の中に『奇襲』の二文字が踊る。


 スロットルを全開にしてバイクが飛び出した。雪にタイヤを取られながらも、表側に回りこみ、コンビニの玄関へとたどり着く。


 店舗の前面ガラスは砕け散っていた。かなりの力で押し破られたという状況だが、さっき聞いた轟音はこれだったのだ。 


 見るも無残に破壊された店内。そこにあの白衣の男の背中が見えた。男の向こう側には、店長の青ざめた顔がある。


「店長!」


 危機的状況に、西村の体が動いた。


 そのままフルスロットルで店内目指して突っ込むと、持ち上げた前輪で白衣の男の背中を弾き飛ばす。 


 床にめり込んだ男の喉から大量の血があふれ出た。それを自らのやりすぎた行為によるものかとすくみあがったが、すぐに身を起こした男の喉元を見て納得した。その傷口はかなり以前にできたもので、すでに腐敗が始まっていたのだ。傷口にはロケット状の物体が貫通しており、先端部が青く点滅している。どうやらこのロケットを喉元に打ち込まれたのが怪我の原因らしい。 


 立ち上がった男が、西村へ腕を伸ばしてきた。足元には無数の虫たちが集結しつつある。店内の照明によって、改めて虫たちの姿を見ることになった西村は、その異様さに絶句した。 


 大きな虫とは、大雑把な表現すぎた。ここにいるものは、脚の生えた『脳』だ。表皮に刻まれた皺や、脳幹部分に垂れ下がる神経の束まで人間の『脳』そのものなのだ。そんな不気味な生物が自分の脚を這い上がろうとしている。


 悪夢だ!


 西村はエンジンを吹かし、車体を振り回して『脳』たちをなぎ払った。バイクのタイヤに巻き込まれて体液を撒き散らす『脳』たち。最後にはバイク自体を放り出し、血まみれの白衣の男へぶつけてやった。


 充満する排気ガスで店内が白く染まる。耐え難い匂いと刺激によって『脳』たちが苦しがっているのが分かった。その混乱に乗じて西村は矢野の腕を取って逃げ出した。


 猛吹雪の中を全力で走る。荒い息が蒸気のように立ち昇った。


 あまりにも非現実的な出来事に思考力がついていかない。喉を切り裂かれても平然と動き回る男や、飛蝗のような脚を持った『脳』がわさわさと湧いて出るなんて、SFか怪奇映画の十八番だ。恐怖の夢にうなされて、手足をバタつかせているような無力感に囚われる。


 だが――と西村は自らを鼓舞した。ここで止まってはいけない。たとえ現実味がなかろうと、こんなわけの分からない状況で命を落とすなんて馬鹿げている。それに、あの化け物たちには負けたくない。


「店長、頑張りましょう! ちゃんと警察には連絡しました。国道を北に向かえば、警察と行き交うはずですから。そこまでの辛抱です」


 その言葉は、自分にも言い聞かせるような響きがあった。しかし、西村の言葉になにかしらの反応があると思いきや、矢野は無言のままだった。


「店長、大丈夫ですか?」


 いまさらだが、矢野はコンビニの仕事着のままだ。これでは寒くて反応も悪くなるだろう。


「すみません。気がつきませんでした」


 西村が自分のダウンジャンパーを脱いで矢野の体に羽織らせる。


 下を向いていた矢野に動きがあった。


 笑顔を期待したその瞬間――。


「うっ!」


 西村の表情が固まった。顔を上げた矢野の鼻の穴から粘液が滴り落ちている。その粘液と繋がるように、そう、まさに今、鼻の穴から押し出され、胸の前で受け止めたという感じで抱えられている物体があった。


 ――『脳』だ。


 しかし、それは脚の生えた『脳』とは種類が違う。表面の淡いピンク色が優美な光沢を放ち、繊細に張り巡らされた神経や血管のみごとな構造に、人体模型よりもリアルな、人間の『脳』そのものがある。


「これは……店長自身の脳じゃないのか」


 その言葉に答えるかのように、矢野の口から嗚咽が漏れた。眼球がぐりぐりと動き、表情が苦悶に歪む。


「一体、なにをされたんですか!」


 驚いて腰を引いた西村に、羽織ったダウンジャンパーの隙間から脚の生えた『脳』たちが襲いかかった。油断も隙もない。矢野の背中に何匹かの『脳』が貼りつくように隠れていたのだ。


 顔面を狙っての執拗な『脳』の攻撃は、ボクシングのグローブで殴られているような激しいコンタクトだ。西村はついにノックアウトされて仰向きに倒れた。


「こ、この!」


 われ先にと『脳』たちが西村の鼻の穴に脚を掛ける。一匹を振り払ったが、さらに別の一匹が鉤爪の脚でがっちりと肌を抱え込んだ。


「い、痛たたたたた!」


 強靭な力で鼻の穴が広げられ、『脳』の尻の部分に垂れ下がる神経の束を差し込まれた。許容量をはるかに越えた異物が侵入し、激しい痛みと呼吸困難がともなう。


「がはっ!」


 たまらず西村の口が開く。しかし、呼吸はできても異物は容赦なく奥へ奥へと侵入し、痛みは頂点に達した。まるで、鼻の穴からボウリングの玉を入れられるような激痛である。


 ――そうか! こいつらは鼻の穴から相手の『脳』を引きずり出し、空になった頭部に自らの体を入り込ませるのだ。こうして店長もやられたんだ!


 自分が他者に乗っ取られるという恐怖に体が反応した。それは生存への抵抗であり、必死の反撃であった。


 西村は『脳』を顔面から力いっぱい引き剥がした。鋭い鉤爪が頬を切り裂く。だが、それにかまわず立ち上がった彼は、思いっきり『脳』を地面に叩きつけたのだ。


 降り積もった雪が赤く染まる。それは『脳』の脚についた西村の血だった。


「この野郎!」


 怒りのキックが炸裂する。


 見事なロングシュートは、遙か闇の空へ『脳』を蹴り飛ばした。


 そして――。


 突如として上空から火球が飛来した。耳をつんざく轟音。大地に着弾する衝撃波。この世の終わりを感じさせるスケールで多数の火球が空を横切っていく。


「な、なんだ?」


 気がつくと、店長の矢野が隣にいた。苦悶に歪んでいた表情が消えている。


「店長……」


 だが、西村の言葉に応える様子もない。その視線は、ただ上空から飛来する火球の行方を追っていた。


 空が夕焼けのように燃えている。さっきまでの猛吹雪も収まり、白一色の世界が今度は朱色へと変わりつつあった。世界の終わりとは、こんな感じなのかもしれない。それは、平和な日常を打ち破りなんの準備もなく突然に迫りくる。


 ひときわ大きな衝撃が西村を襲った。百メートルほど離れた場所に火球が着弾したのだ。


 大地に、巨大なものが突き立っていた。それは人工物に違いないが、砲弾やミサイルの類でないことは明らかだった。なぜなら、顔をかばいながらも目の端で物体を捉えた西村は、そこから何者かが現れる瞬間を見たのだ。


 四メートル以上もある楕円形のカプセルが半分に割れた。焼け焦げた表面の材質は判然としないが、かなりの強度を持った物質であることは間違いない。


 西村は、ぱかっ、とカプセルの割れる音を聞いた。そして、割れ目から這い出すように『闇』が現れたのだ。


 ――ショク、ダ。


 突然、西村の頭に言葉が響いた。


「え?」


 ――『蝕』ガ、ヤッテキタ。


 それは……矢野から聞こえてくる声だった。

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