蠢く脳~ローレライの歌
関谷光太郎
第1話 雪の中のコンビニ
真夜中のコンビニ。
夕方から降り始めた雪が、お客さま駐車場を白一色に染めていた。
その駐車場の四隅に高くそびえる白い山は、来店されるお客さまのために何度も雪掻きをした結果だ。
しかし、奮闘虚しく雪はすぐに降り積もった。天候は益々悪くなるばかりで、明日は交通網にも影響がでるだろう。
N県の国道沿い。天候が良ければ、南アルプスの山並みが見える。普段は観光客で賑わう地域で、マイカーや観光バスのお客たちが多く来店するのだ。この店舗は観光地ということもあり、特別に大きめの駐車場を備えていた。
店長の矢野光彦は、一台も停まっていない駐車場を眺めて――明日は客足が落ちるな。とため息をついた。
「おお、寒っ!」
矢野が店に戻ると、アルバイトの西村がバックヤードから出てきたところだった。
「西村くん、雪掻きご苦労さん」
西村恭平は二十歳。N県の大学に通う二年生だ。
「いえ、実家ではよくやっていましたので、慣れっこです」
「北海道だったよね。手際がよくて助かるよ」
「でもこの雪じゃ、いくらやっても同じですかね」
西村は店の外を眺めた。
この春からアルバイトとして働きはじめた彼は、とにかくよく動いた。お客からの受けも良いし、他のバイト仲間からも信頼されている。昼間は講義。夜はコンビニで夜勤のバイトと、いつ寝ているのかと心配するほど頑張ってくれている。
「また様子を見て、明け方にでも雪掻きしますよ」
「悪いね。最近、腰痛めて雪掻きが辛くって。ほんと三十路はつらいよなぁ」
「ご心配なく。任せてください」
なんて、気持ちの良い奴なんだ。
思わずにんまりした矢野の目に、店の外に立つ人影が映った。
「店長、あれって、お客さんですかね?」
西村も見つけたようだ。不審げな視線を店外に向けている。
強まる雪の中で、人影は亡霊のように浮かんでいた。ワイシャツにスラックス。そこへ、白衣一枚を羽織っただけの格好があまりにも寒々しい。まるで天候を無視したその姿に、緊急性を感じずにはいられなかった。
「なんか、変ですよね」
「そうだね。事故でも起こしたかな……」
この時期、雪道でスリップして事故を起こすのはよくあることだ。店舗前の国道でも度々起こる。もしやと思い、矢野は店を出て人影に声をかけた。
「あの、どうかされましたか? この寒さです。よければ中へどうぞ!」
店舗から漏れる光は男の姿に陰影をもたらしていた。それは生ある者の表情とはいえず、肌は土色に沈み、視線は虚空を掴もうとするかのようにウロウロと落ち着きがなかった。そして首筋に、なにやら青い光が点滅しているのを目の当たりにして、男の置かれた状況が尋常でないことを知った。
これは、変だ。
視線は自然と店舗へと向けられた。
西村が心配そうに店の入り口に立っている。矢野は警察を呼んだ方がいいと判断し、彼に合図を送った。
――その時。
矢野の足元にまとわりつくものがあった。
白い雪の上をモゾモゾと蠢くその姿は、全身に紋様のある巨大な虫だった。飛蝗のような大きな後ろ足を持ち、素早い動きで足元から昇ってこようとする。
「うわぁ!」
拳二つ分の大きさがある虫を振り払った。しかし、一匹を払っても次から次へ別の虫が這い上がってくるのだ。気がつけば、無数の虫に囲まれていた。圧倒的な数に抗い切れなくなった全身を虫たちが占拠していく。もうお終いか、と思ったその瞬間。
「店長!」
衝撃とともに体に張りついた虫たちが弾かれた。モップを振り回して西村が助けにきてくれたのだ。
「今です、店長。中へ!」
西村が矢野の腕を引きながら、店内へと逃げこんだ。
「あ、ありがとう! おかげで助かった」
われながら情けない声だった。奇妙な虫に這いずり回られた恐怖に、体がまだ震えている。その横で、モップの柄を握りなおした西村が身構えるのが分かった。白衣の男が店内へと向かってくるのだ。
彼の責任感はとてもありがたいが、これ以上、バイトの彼を危険にさらすわけにはいかない。
「西村くん。ここはもういいから、きみは裏から逃げろ」
「店長こそ、ここは俺が時間を稼ぎますから、警察に連絡をしてください!」
「駄目だ。早くバックヤードへ行ってくれ! 警察への連絡はきみに頼むから!」
矢野は西村からモップを奪った。
「店長!」
「大丈夫。さあ、行って!」
しばらく抵抗の意志を示したが、西村は申しわけなさそうな表情を残してバックヤードに消えた。矢野は心細さに耐えながら、モップの先を突き出して構えた。
店内に足を踏み入れた白衣の男は、無表情のまま入り口で止まった。さっきは気づかなかったが、白衣の胸元が赤黒く汚れている。そして、喉の部分に青い点滅を見つけて、矢野は「ひっ!」と息をのんだ。
男の首の後ろから喉へと、ロケット状の物体が貫通していた。首にはかなり大きな裂傷が生じ、絶えず大量の血が流れ出ているのだ。青く点滅しているのは、ロケットの先端だ。男の喉は完全に破壊されていたのだ。
突然、店内に轟音が響いた。
思わずのけぞった矢野の体が、陳列されたカップめんの棚を押し倒す。
目の前をキラキラと弾けるのは、砕け散ったガラスの破片だった。目をかばい慌てて体勢を立て直すと、全面ガラス張りのウインドウを破壊して大量の虫たちが押し入ってくるのを確認した。その衝撃は、さながら外から突っ込んできた車と同じであった。
店内に吹き込む冷気。大きく開いたウインドウからは雪が舞い込んだ。
寒さに身を縮めながら、矢野は戦闘態勢を維持した。そして、ガラス片をかぶった虫たちの視線が一斉にこちらを向く。彼らの獲物の対象として、自分が選ばれたという事実に身の毛もよだつ瞬間だ。
虫たちが、もぞもぞと動き出した。矢野はモップの柄を握り、相手との間合いを計る。これもまた、照明の下で見る虫たちの姿はさっきの認識とは違っていた。紋様と見えたのは、体全体に刻まれた皺であり、飛蝗のような固い皮膚ではなく、グミのような弾力をもった体なのだ。しかも、薄いピンク色をしており、その脚を除けば虫という姿には程遠いものだった。
矢野はこの生物の姿を知っている。学校の理科教室で人体模型のひとつとして展示されていたものだ。
それは――人間の『脳』だった。
プシュー!
無数の歩く脳たちが、音を発した。
矢野は、胃液が喉元まで上がってくるのを感じた。
――誰だ、こんな気持ち悪い連中を野放しにしているのは!
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