理紫谷円子の望み

理紫谷円子の望み

 七月三日(月曜日)




「ババアになれそうか?」


 起動ボタンに手を置き、ずっと考え事をしていた。そんな時だ。あやうく間違って押すところだ。もちろんそんな事態に備えて、心構えはしていたが。


。そんなことのためにこんなことをするとは、ずいぶん釣り合いが取れてねえな」

 思地しじは遠くから話しかけている。とても小さい声だ。か細い。それでも私には、大きすぎる。


「物事に大きいやら小さいやら差を設けるのは、自分自身でしかないんだよ」


 声をあげて答える。自分の声が自分に響き渡る。全身が痺れるような感覚。


「……これから、どうなるんだって?」


 思地は、何度も問うてきた言葉を、もう一度紡ぐ。

 だから私は言いたいことを理解して、答えをまとめた。


「起動から約十九分でこの個体の思考能力は私を――つまり人類を超える。つまり、その時点が技術的特異点と呼ばれるものになるだろう」


「シンギュラリティか。……これくらい覚えたらどうだ?」


「不要な単語は破棄するようにしている」


 知っているだろう? 私は言った。

 じゃないと脳への負荷が、カロリーの消費が無限に増加していく。


「……起動から六十六分で地球全体の解析を完了。九十分目で現存する科学的な未解決問題をすべて解決する。このあたりで地球上の全生命は理論上不死にもなれる。時間旅行も可能だ」


「それだよ。『不死になれる』。だったらおまえも、死ななくていいんじゃないのか?」


「見解の相違だ。私は死のうなどとは思っていない。生きようとしているだけだ。九――」


「九十三歳。西暦二〇七六年。八月九日。……だっけか?」


 思地が先取りして言う。


「ああ。十六時三十一分」


「大往生なこって」


「そうだね。楽しみでならない」


 あと二十一年か……。私は呟いた。


「それから、どうなるんだっけか」


 思地が先を促す。聞きたかったのはここまでだったと思うのだが、ついでに確認しておきたいと言ったところだろう。


「……起動から二日。機械生命体の個体数は地球人口を超え、太陽系のあちこちに移住。太陽系全体の解析には起動から二十六日ほどかかるだろう。実質、機械生命体がこの太陽系に君臨する」


「人類は滅ぼされるか?」


「そうはならない。そのためにこの二十六年間、この子を造ってきたのだから」


 視線を上げる。そこにはただ俯いているだけの少女。……のような機械生命体が座っている。阿刀田あとうだかさの身体をベースに、久米方くめかたもがみのものの見方を、考え方を、しとど木児きじがプログラムして埋め込んだ。それらすべてを客観的に見て微修正したのが、いまでは名の知れた、あの男だ。




「失礼……します?」


 ドアを開けた彼女は、疑問を携えていた。それはそうだろう。面接会場がこれだけ真暗では、部屋を間違えたかと考えるのは至極まっとうな思考だ。


「悪いね。私はめっぽう人見知りでね。暗闇に紛れさせてもらっている」


 適当なことを吐く。これも妄言だ。

 理に適わなくても、そこに筋が通れば納得するだろう。彼女なら。


「暗くて解りずらいだろうが、そこに椅子がある。まあ、座って」


「はい」


 よろよろと覚束ない足取りだったが、彼女はなんとか腰を降ろしたようだ。


「じゃあまず、名前と……あともしあれば、座右の銘を教えてくれる?」


「はい。私は――」


「そうだ言い忘れていた」


 あえてそこまで言わせてから、私は遮った。この子と話すときには、先に言うべきことがあるということは、最初から解っていたのに。


「たぶんいろいろ、質疑応答について先生方からご指摘をいただいていると思うが、それはすべて忘れてくれ。……君らしく話してくれればいい」


 暗闇の先でも、彼女の顔が笑み、瞳が大きく、輝いていく様子が見てとれる。


「うん! 久米方もがみ! 十八歳! 座右の銘? ……は、『案ずるより産むが易し』!」


 私は嬉しかった。彼女の記憶を見る限り、『座右の銘』というものとはほとんど縁がなかった。だから、その問いにどう答えるかだけは私でも未知数だった。だがそれでも、彼女は私に、求めていた以上の答えをくれたのだ。


「はい。元気があって大変よろしい。……いい名前と、座右の銘だ」


 これだから自信がもてる。

 人間の心だけは、機械生命体が無限の時を用いても、解析できないと。




「よう。久米方もがみ」


「ああ!」


 部屋を出たところで、ちゃんと彼女は彼に会えたらしい。私はほくそ笑む。


「久しぶりだな。俺を覚えてんのか?」


「知らない! でも知ってる!」


「なんだそりゃ」


 それは久米方もがみと、あの男らしい会話だった。


「たぶんどっかで会った人! なにか助けてもらったかも?」


「いや、助けてもらったのは俺の方かもな。よく覚えてねえけど」


 またあの男は適当なことを言う。私のプロジェクトにおいての久米方もがみの重要性。それを知っていてなお、あの態度か。


「私、久米方もがみ! あなたもこの会社受けるの?」


「まあそんなとこだ。……これからよろしくな」


 言って、あの男は立ち去ろうと歩き出した。久米方もがみがそんなに簡単にいくはずないことくらい、知っているだろうに。


「ちょっと待ってー! あなたのお名前は?」


 大袈裟に走り追いかけて、彼女は言った。


「ひ……じゃなくて。……斑井まだらい零音れいん。こういう漢字だ――」


 わざわざ漢字まで説明し出した。たぶん照れ隠しだ。


「――変な名前だろ?」


「うん!」


 解ってはいても、この対応には思うところがあったのだろう。斑井の顔面が引き攣る音が聞こえる。


「鏡写しなんだね!」


「は?」


 私はすこし噴き出した。毎度毎度、久米方もがみにはやられる。だがだいぶ簡略化したな。そんなんじゃきっと、彼には解らない。


 だけどこのとき。私は三パーセントの誤差もなく、きっとこのプロジェクトはうまくいく。そう思ったんだ。




 思地が帰る。「この世の変貌を、特等席で見るんだ」などと言っていた。それはつまり、この世界中のどこかだ。


「さて、ちゃんと、瓢箪から駒は出るかな」




 私は、起動ボタンを押した。




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