久米方もがみの瞳
久米方もがみの瞳 1
七月二日(火曜日)。
世界を震わす鐘鳴とともに、私は飛び起きた。祭囃子みたいに奇矯な声をあげて、今日も今日とて、新しい朝を迎える。見ると、ベッドの上は散々たるありさまだった。敷布団にかかっていたシーツは半分はがれているし、掛布団なんて表裏が反転している、枕に至っては部屋の隅にまで追いやられていた。いつも通り、私が投げたんだろうなあ。
「まあいいか! おはよう、世界!」
私はとっ散らかったベッドに仁王立ちし、枕元のカーテンを勢いよく開いた。空は快晴、空気はおいしい。私は今日も今日とて、生きています。
私の挨拶に世界がざわめきだしたのか、足元よりもっと低いところで蠢くような音が聞こえた。から、そちらを向いてみると「おはよう、もがみちゃん。今日も元気ね」と、お隣のおばさんが苦笑いしていた。
「おばさん、おはよう!
空を指差すとおばさんも眩しそうに見上げていた。片手は眉のあたりで傘を作り、片手は口元をおさえ「ふふふ」と笑っている。その仕草は田舎のおばあちゃんみたいな優しさを孕んでいたので「おばあちゃんみたい」と呟く。眼下の笑顔は般若に変わりなにごとかを叫ぶ。うん! 今日も町は、元気いっぱいだ!
適当に着替えを済ませ、階段を駆け下りる。ドタバタと、あえて音をたてて降る。お父さんとお母さんに、私が今日も生きていることを伝えるためだ。それだけで、ちゃんときっかり、お母さんは朝食を出してくれる。とはいえ、リビングに直行するだけでは早すぎる。だから私は洗面所へ向かう。家族の間柄であろうとも身だしなみは大切だ。お父さんがそういうところ厳格だから、私は朝食の準備をしてもらっている(であろう)間、身だしなみを整える。顔を洗って、髪の毛を後ろで一括り。よし。完璧!
私は走る。洗面所からリビングまでの距離はわずか数メートルだ。我が家は一般的なサイズの一軒家であるので、普通廊下は走らないらしい。というか走れるほど広くはない。それでも私は走る。時間は有限。人生なんて生き急いだって短すぎる。私は世界が広いことを知っているのだ。
「お父さんお母さんおっは――」
世界が転回した。お? おおおお? と慣れ親しんだ視界と戯れる。無意識で動く関節。理解より速い正答。頭を守らなきゃ。なりふり構わず両手でクッションに。制服のスカートも守らなきゃ。学校指定のソックスも滑りやすい。今日も今日とて廊下の掃除は万端だ。舌を噛まないように注意。重力の感覚で上下は解る。女の子らしく可愛く転ばなきゃ。
「――よおおおおおぉぉぉぉおお!?」
歌舞伎役者みたいだった。私ってそっちの才能、あるかも!
瞬間に永遠を感じる。冷や汗をかき始めたころ、理解が追いついてくる。その一瞬に感じたことは、はるかに時間を超越していた。心の中には言葉ではないものがたくさん詰まっている。その胸に手を当てて、心音を聞く。まだ私は生きていた。
「あらあら、今日も元気ねえ」
神様の言葉を代弁するような優しい声が、あさっての方向から聞こえた。……あさっての方向ってどっちだ?
視線を向けると、いつもの優しい表情。目尻にやや皺ができ始めた、笑顔を絶やさず生きてきた表情だ。私もきっといつか、あんな表情になるのだろう。そのために、今日もひとつの笑顔で応える。
「うん、お母さん! 久米方もがみは今日も元気! おはようございます!」
「大変よろしい。ハナマルあげちゃう! じゃあもがみ、これ持ってって」
言うと、キッチンから三枚のプレートが手渡される。私はそれを受け取り、毎日の指定席へ腰をおろした。
「お父さん。おはようございます!」
すでに着席しているお父さんに挨拶。お父さんは読んでいた新聞を畳み、脇に置いてからしっかと私と向き合い「おはよう、もがみ」と言った。寡黙で無表情だけど、いつもどんなときでもしっかりとした挨拶を返してくれる。その決まりきったルーティンは、ただなおざりにこなしているのではなく、いつも深い愛情を感じさせた。もっとも正しい表現をいつも選択している。お父さんは最初から知っていたから、私にいつも最上の言葉をくれるのだ。
「さあ、みんな揃ったし、いただきましょうか」
お母さんが自分の朝食を持ってきて言う。お父さんの分はすでに卓上に並んでいた。しかし、お父さんはコーヒー以外には手をつけていない。久米方家の朝食は、いつもみんなでって決まっているのだ!
両手を合わせて、今日も思う。あらゆる生命をいただいて、私たちは生きている。それだけじゃない。いま私が座っている椅子も、朝食をとるための机も、この世界の誰かが作ったものだ。仮に全自動で機械が製造しているとしても、そのおおもとの設計をした人や、もしくは材料を用意する人、運ぶ人、売る人。いろんな人がどこかでなにかに携わって、いまの私の世界がある。こうして手を合わせて、目を閉じると、そのすべてに思いを馳せてしまう。やはり、心は時間を超越している。その中には、この世のすべてがあった。
一秒にも満たない瞑想の中で、あらゆるものに感謝して、今日も今日とて、私は言う。
いただきます。
いつも朝食は私が一番に食べ終わる。食べ終わるまで基本的に会話はない。特に明言されているわけではないけれど、いつからか我が家ではそういうルールになっていた。そして、家族みんなが食べ終わって、ごちそうさまを言うまでは朝食は終わらない。具体的に言うなら、食卓から離れるのはあまりよろしくない。
「お父さん。新聞とって」
こんな環境だからか、私は毎朝、新聞を読む日課があった。お父さんは間違えないようにゆっくりと、サラダを食べていた手を止め、フォークを置く。それから口を拭い、新聞をとってくれる。お父さんの動作は緩慢だけれど、ちっとも待った気がしない。
私は「ありがとー」と言って、受け取る。新聞は大きい。開くにはスペースが必要だ。私はすこし椅子を引き、食卓との間にスペースを作る。新聞は大きい。なんでこんなに読みにくいのだろう。
我が家でとっているのは地域新聞だ。ゆえに、テレビでよく見るニュースとは少々趣を異にしている。もちろん全国的に有名な事件には追及しているけれど、それでも二面三面以降に書かれていることが多い。やっぱり一面は、地域に関連ある出来事が載ることがほとんどだ。
本日の記事は、来る梅雨に向けての災害予想マップのようなものだった。この町は土地の緩急が大きい。どこへ出掛けるにもたいてい、坂を登ったり降りたりしながら向かう。ゆえに、大雨が降ったとき、海抜の低い地域では水害が多い……らしい。我が家は比較的高地にあるので水害らしい水害にあった覚えはないけれど、ああ、そういえば
「大変じゃん!」
つい立ち上がってしまう。お父さんとお母さんの視線が、私を見上げている。お母さんと目が合う。お母さんは変わらず、目尻に皺ができている。お父さんと目が合う。いつも通りの無表情だが、私にはお父さんが驚いているように見えた。
「お父さん! 傘ちゃんがね! 水害なんだよ!」
私は言った。自分でもなに言ってるか解らない。言いたいことは理解しているつもりだけれど、うまく言葉が選べない。狼狽しているつもりもないのだけれど。でも、私は言葉でなにかを表現することが苦手なのだ。
お父さんは朝食をいつのまにか済ませていたようで、すでにフォークは机に置かれている。それでも一度、間を挟むように口を拭い、すこしだけ身を乗り出してくる。
「
極めて優しく、お父さんは言った。それだけで私は安心する。そうか、大丈夫なんだ。なんでか解らないけれど、大丈夫みたい! うん、よかったよかった。
私は椅子に座り直し、コーヒーに口をつける。お父さんのとは違う、甘い苦みが鼻孔をくすぐる。いまさら段々と、頭が冴えてくるようだった。
「なんでっ!?」
私は再度立ち上がった。お父さんのテノールボイスに騙された! 私は納得できるだけの理由を聞いていないのだ!
「はいはい。とにかくごちそうさまよ、もがみ」
お父さんが答えるより先に、お母さんが口を開く。どうやらお母さんも朝食を食べ終えたらしい。ゆえに、私は腰を降ろした。世界への感謝はなににも優先する。あるいは、現実の時間にもだ。
ごちそうさま。
朝食を終え、私は歯を磨く。さきほど顔を洗ったときにはほとんど鏡を見なかったけれど、こうして歯を磨き、他にやることがないと鏡でも見るしかない。歯ブラシを咥えるマヌケな女子中学生が映っている。どことなく左右でバランスが悪い顔つきだ。全体的には丸顔。瞳も大きいと思うけれど、よく見ると右目の方が少々大きく見える。右耳が左耳より外側に反ってる気がするし、口のすぐ右下に小さな黒子がある。全体的に右側が重そうだ。ひとつひとつ顔のパーツを確認すべく目を動かすと、それに合わせて右手が揺れた。手元が狂って頬の内側をノックする。すると口元が緩んで白いよだれが垂れた。なにこの女子、おもろい。
太ったかなあ。と、心配しつつ、贅肉を吐き出すように強く口をゆすいだ。制服のスカートのウエストをひとつ折る。腹部への締め付けを確認して、変な声が漏れた。
「あら、もがみちゃん、ちょっと太った?」
タイミングよく洗濯をしに来たお母さんと鉢合わせた。
「やっぱりお母さんだったんだね! ごはんにカロリーを仕込むなんてひどいよ!」
「もがみがやたら走って消費するからでしょ?」
「だからってこんな陰険な! お料理をおいしくしたでしょ!」
「隠し味に愛を入れてみました」
うふ。と年齢を考慮しない可愛げを振り撒いた。私のお母さんは世界一可愛いというのか!?
「もう! お母さんなんて大好き!」
私は捨て台詞を吐いて駆け出す。時間も時間だ、そろそろ学校へ行かなければならない。
カロリーは素敵だ。私はこんなに走れる。体がかっと熱くなる。お母さんの愛情が私を駆け巡る。久米方もがみのこの元気は、久米方はるかの愛のおかげだったんだ!
私ははやる気持ちを抑え、スニーカーの靴ひもを入念に結んだ。靴ひもは大切だ。これが解けると、なんと走れなくなる。どころか自分で靴ひもを踏んで転んだりするのだ。しかし、この紐の締め付けがあるからこそ、私の足は靴と一体化し、安全に走ることができる。靴ひもは人類が発明した素晴らしい道具だ。もちろん靴自体も、制服も、ヘアゴムも、通学バッグも。私は靴を履き終え、玄関に用意してあったそれを手に取り、立ち上がる。よし! 行こう!
「もがみ」
私が走り出そうとすると、後ろから控えめなテノールボイスが聞こえた。振り返ると、予想通りお父さんが立っていた。
「お父さん! 久米方もがみ、学校へ行ってきます!」
私は言って、走り出そうとした。
「うん。ちょっと待って」
お父さんはやはり緩慢に寄ってきて、前かがみになる。私の瞳を見つめてくるので、私もやや瞼を開いて、見つめ返す。
「リボンが曲がっている。直してあげよう」
言うが早いか、お父さんは私の制服のリボンを整える。それはもう入念に。私は燃え上がる体を抑えるように、小さく足踏みをしながら待った。
「……よし、完璧だ」
お父さんが言う。よし! 完璧!
私は嬉しくなってくるりと回転する。リボン以外も大丈夫か、お父さんに確認してもらうために。
「どう? 可愛い?」
言って、数秒待つ。お父さんはゆっくりと私を見分し、やがてその目を真白にした。ややあって、後ろに倒れ込む。さきほどの私と同じように、口から白いよだれを流しながら。
「あらもがみ、いってらっしゃい」
洗濯機を回し始めてから、お母さんが出てきて送り出してくれる。
「お母さん! お父さんがまた倒れた!」
「大丈夫よ。いってらっしゃい」
お母さんは変わらず笑顔で、言った。
そっか。大丈夫なんだ!
「いってきます!」
私は元気よく言った。言って、走り出す。
時間は有限。世界は広い。
私は今日も今日とて、はてなき世界を学びに行く。
玄関のドアが閉まる直前、我が家の中から「うちの娘は世界一可愛い」というテノールボイスが聞こえた。
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