レイン・デイ マザー・グース

晴羽照尊

PROLOGUE‐B.S.

PROLOGUE‐B.S.

 七月二日(火曜日)




 夏だというのに蝉が鳴かないことを嬉しく思う。しかし、梅雨だというのに雨が降らないことが許せない。歩道の狭い交差点で信号待ちをしていたら、横から自転車が颯爽と交通違反をなびかせた。ルールを守れない人間はそのルール上に立つべきではない。ため息とともに反対側を見遣ると、せせこましい庭先に見事な紫陽花が咲いていた。年齢を考慮してもやや小さめの俺の背丈をすこし越える高さまで犇めく球体は、虹のかけらのように青と紫にグラデーションを描いていた。そのすべてで一個であるかのような生命体は、やや慌てていたのか、降水確率〇パーセントの太陽に焼かれ、かたすみが焦げているようだった。


 肩を竦めるような動作で右手の鞄を持ち直す。始業まであと二時間。すでに視界に見据えているどこにでもありそうな建造物を見上げ、改めて意識的に肩を竦めた。「暇だな」呟く。なにもしなくていい時間が好きで、自ら早く自宅を出たというのに、その解り切っていた結果に文句を垂れる。毎日のように考えてしまう。俺はいったい、なにをやっているのだろう?


「おおぅい、少年」


 どこか気だるげな声が聞こえた。よもや自分にかけられている言葉だとは思いもしなかったが、その声の方を向いてみる。するとそこには初夏にもかかわらずスーツの上から白衣を纏った暑苦しいおっさんが立っていた。ご丁寧にネクタイまで締めてやがる。おっさんはすらりと背の高い体に、無表情をぶら下げて、身体機能を確認するように意図の読めない動きで中空に手を振っていた。


「おおぅい、少年。君だよ」


 ちらりと横目で見ただけのつもりだったが、目が合ってしまった。それを確認したおっさんは、大義名分を得たとばかりに俺に拳を向けた。今度は意味が解るが、わけが解らない行動だった。おそらく指をさしたかったのだろう。親や教師から「人に指をさすのはやめましょう」と言われ、それを律儀に守っているのかとも思われたが、どことなく雰囲気から、人差し指一本を伸ばすのが面倒だったのだな、と、感じた。まあ、真実はどちらでもいい。ただもしもこのとき、やつが俺に指をさしていたなら、俺は変わった信号に背中を押され、その後おっさんを無視し続けただろう。俺は律儀なのだ。


 おっさんがいたのは反対車線にあるコンビニの駐車場だったので、俺は変わったばかりの信号を再度待つことになった。おっさんは自身の所有物であるらしいダンボール箱のひとつに腰掛け、どこか遠い空を眺めていた。


「で、なんか用?」


 俺はおっさんの傍らにまで到達し、言った。


「おう……」


 おっさんは言う。一度こちらを見はしたが、すぐに視線を空に戻し、心ここにあらずといった様相だ。


「で、なんなんだよ」


 こちとら暇じゃねえんだよ。という言葉を飲み込んだ。俺は暇なのだ。


「いやよ……途方に暮れてたんだ」


 おっさんは演技のように空を眺め続け、言った。空には鳥が二羽飛んでいた。互いに互いを追いかけるように、激しく戦闘しているように、数多の弧を描いて飛んでいた。


 俺がこのよく解らない生命体をどう処理すべきかを思案していると「これを運ぶのを手伝ってほしい」とおっさんの方から言葉を発した。やや鈍い音重でダンボール箱が鳴る。中身にもよるが、大きさが一般的な引っ越し用のダンボール箱と同じくらいだと思われるので、それなりに重そうだった。それが三箱もある。


「どう考えても人ひとりで運ぶ荷物じゃねえだろ。中身はなんだ? どこまで運ぶ?」


「おお、思っていたよりは好感触だ。いやあ、さすがは少年。手伝ってくれるのか」


「いや、まだ了解してねえ」


 ただ暇ではあるのだし、たいした手間でないなら手伝うつもりだ。俺はいいやつではないが、困っている人間を無視するほど情が薄いつもりでもない。


「中身は白い粉だ」


「小麦粉と砂糖か?」


「まあそんなもんだ」


 おっさんは悪びれもせず言う。そのわざとらしい胡散臭さが逆に安心感を与えてくれた。


「違法ドラッグじゃねえんだよな?」


「ああ、合法ドラッグだ」


「じゃあいいよ。どこまで運ぶんだ?」


 俺が言うとおっさんはようやく見上げていた顔を降ろした。奇矯なやつを見るような目つきで俺の視線と被せる。おっさんと男子中学生が見つめ合うというときめきのかけらもない時間が流れた。


 やがておっさんは視線を微動だにしないまま腕を伸ばした。今度は指先まで億劫に伸ばし、俺の後ろを指差す。振り返ると、コンビニの駐車場を出てすぐの道路を渡った先を指しているふうで、そこには白い建物があった。なんらかの店舗である風の両開きの自動ドアらしき入り口を構えているが、いかなる看板も見当たらなかった。開業準備中と言われれば納得しそうな装いである。

 ともあれ、距離としてはたいしたものではない。


「解った。さっさと運ぶぞ」


「おお、頼んでおいてあれだが、引き受けてくれるとは思わなかった。あとでアメちゃんをやろう」


 おっさんはさほど嬉しくもなさそうに言った。単純に無表情なやつなのだろうか? 俺は「いらねえよ」と言って、率先して箱をひとつ持ち上げた。




 白い建物に入ると、不必要なほどに清潔な、真っ白い部屋だった。塵ひとつ落ちていなければ窓すらない。見上げると均整のとれた配置で蛍光灯が三つ並んでいた。殺風景な景色は約十二畳ほど続き、その果てには二つのドアノブが見える。『ドアノブが見える』で正しい。すくなくとも部屋に入った段階ではそのドアノブは飾りであるのではないかというほどにドア自体の存在を感じさせなかった。


 俺がこの後、この荷物をどうしていいか思案していると「右のドアだ」おっさんが後ろで言った。振り返るまでもなくおっさんはふらふらしている風であった。子どもと大人で体力が違うとはいえ、俺が余裕なくなんとかひとつ運んでいる荷物をふたつ抱えているのだ、華奢なおっさんには辛いだろう。


 ともあれ、指示通り俺は右のドアへ向かう。近づいてみるに、たしかにそこにはドアノブだけでなく、ドアがあることが確認できた。これを確認するまで押し戸か引き戸か、右開きか左開きかも解らなかったが、どうやら引き戸で右開きらしい。俺はうまく荷物の重心を左手に集中して、余裕のできた右手でなんとかドアを開いた。「悪いな、少年」と、後ろからついてきていたおっさんが先に入室する。おまえのために開けたんじゃねえ。


 その部屋もまた白かった。だからというわけでもないが俺はこの建物が店舗として使われるのだろうという考えを改めた。白い空間はその場所の清潔さや高級感をも演出するのだとは思うけれど、これはいささか、やりすぎている。威圧的と言っても過言ではない。だからここは、すくなくとも客を招くタイプの空間ではなく、どちらかというと潔癖症の人間が住まう住居のようだ。なにより、新たに入った六畳ほどの部屋にはいくつかのダンボール箱とともに、真白な冷蔵庫が置いてあったのだ。見るからに業務用とは言えない。ワンルームマンションに置かれていそうなサイズである。


「このへんに置いてくれるか?」


 おっさんは言った。危なげに乱雑に重ねたダンボールを置いたおっさんは、足のつま先で位置を指定した。俺は極めて慎重に、中身に衝撃が加わらないように配慮してダンボール箱を置いた。


「じゃあ俺は――」


 帰るぞ。と言いかけて、噤む。見るとなんの挨拶もなしに、おっさんはさらに奥の部屋に消え入る瞬間だった。自動式らしいスライドドアが、無慈悲に閉まる。近寄って見てみるにそこはただの壁のようであった。いや『ただの』という表現は適切でない。その壁だけ、この建物に入ってからいやというほど見てきたただの白い壁ではなく、硬いクッションのような素材で作られていた。おそらく防音として優れている素材なのだろう。だが問題は、その十分に厚い壁が、スライド式で開閉したにも関わらず、継ぎ目が確認できないということだ。たしかに、一枚の板で作られているかのような他の壁と違い、防音壁には凹凸がある。三十センチ四方ごとに区切りがあって、正方形のクッションが敷き詰められている。そのどれかの接線が継ぎ目をうまく隠しているのだろうが、とはいえ一目見ただけではこの壁にはドアなどないように見えてしまう。


 戦慄した。俺はまずいところに連れ込まれているのではないだろうか?


「おお、少年」


 俺が戦慄に一歩後ずさると、またもその壁には空間ができた。おっさんの後ろに見える部屋には、やはり白い世界が広がっていた。


「もう用は済んだろ? 俺は帰るよ」


 動揺を隠しながら言う。変になにかを勘繰られても面倒だ。


「ん、そうか? 茶でも飲んでけよ」


「いや、結構」


 俺は振り返る。おっさんの言葉や態度に悪意は感じられなかったが、自身に危険があるかどうかはともかく、この場所はおかしい。すくなくとも一般的な構造をしていない。触らぬ神に崇りはねえ。深入りすべきではない。

 俺は自分に言い聞かせ、立ち止まる。


「あんた、ここでなにやってんだ?」


 言い聞かされた言葉とは裏腹に、俺は藪をつつく。


「ああ、ここはただの部屋だ。別になにもしてねえ。人間がひとり住んでるだけで、俺はその世話役だ」


 言って、続けて「あ?」とおっさんは声を発した。振り返って確認してみると、おっさんも振り返っているところだった。奥の部屋に『住んでいる』らしい誰かに応答したようである。その会話はよく聞き取れなかったが思ったより長引いてしまっていたので「解った」と関係のない俺が制止してやった。


「茶。ご馳走になるよ」




 部屋はエントランスと同じほどの大きさで、見る限りもう奥に部屋はない様子であった。とはいえ、この建物に入ってからドアの有無に関しては自分の視覚が信用できなくなっているので、もしかしたらあるのかもしれない。


 俺は渡されたミネラルウォーターを開ける。未開封だからと安心はできないが、まあたぶん大丈夫だろう。


「で、君は誰だ」


 この建物の住人らしき少女は言う。一般的体格の成人した女性が、へんちくりんな薬でいきなり子どもになってしまったような服装の少女だった。その少女が俺を――白衣越しに――指差し、どこか達観した、見下すような態度で問うのだった。


「俺はこのおっさんに頼まれてダンボールを運んできた中学生だ」


 おっさんを見遣り、少女に向けて言った。


「そうか。それは面倒をかけた。あとでアメちゃんをやろう」


「いや、べつにアメちゃんはいらねえ。これで十分だ」


 俺は一口だけつけたペットボトルを掲げる。それにしても不遜な女児だ。


「私は理紫谷りしたに円子えんこという。座右の銘は『瓢箪から駒』」


 腕を組み(というより袖口を縛ったような不格好だ)、どこか誇らしげに少女は名乗った。……どうして座右の銘を言ったのだろう? その諺を座右の銘にする意味も解らねえし。


「俺は平内ひらうちまこと。座右の銘は……『過ぎたるは猶及ばざるが如し』」


 念のため偽名を名乗っておいた。座右の銘は口から出任せだったが、割としっくりきた。


「ふうん。いい名前と座右の銘だ。『瓢箪から駒』!」


「なぜ最後に座右の銘を叫んだんだ?」


「だって座右の銘だから」


 大真面目な顔でそう言うと、円子は「ん」とだけ唸り、おっさんに向かって両手を差し出した。おっさんはそれだけで理解したようで、自身の白衣のポケットから個包装の粉薬(らしきもの)を出し、手渡した。円子はその後、開封に手間取りつつもなんとかその粉を飲み込んだ。もしかしてあれが件の合法ドラッグだろうか?


「それで、円子はここでなにやってんだ?」


 合法ドラッグらしきものを飲み終えるのを待ってから、俺は聞いてみた。


「べつに、なにもしてないよ。ただ住んでるだけ」


 円子は言った。だがその言葉はにわかに信じがたかった。


 改めて部屋を見渡すに、これまで見てきた部屋とは幾分様相が違っていた。部屋は白い。ゴミなどもひとつも落ちていないであろう清潔さだ。だがその清潔さは、潔癖では説明できない。なぜなら、たしかにゴミは落ちていないが、この部屋だけはなぜか、そこかしこに紙とペンが転がっているのだ。それは小さい女の子が遊んでいるというには色彩が欠けていた。白い紙と黒いマジックペン。それしかない。机や椅子はおろか、あらゆる電化製品も置いていない。かろうじて前の部屋に冷蔵庫は確認しているが、その他のどこにも生活感が感じられないのだ。もちろん、まだ見ていない部屋もある。別の部屋には普通に生活できるだけの設備が整っているかもしれない。あるいは、この建物自体がただの『遊び部屋』あるいは『作業場』なのだという可能性もあるが。

 それでも、俺がこの建物内で見てきた光景は異常だった。白すぎる部屋。生活感のない空間。金のかかっていそうな構造。散らばる無機質な紙とペン。傲岸不遜な少女。


「さて、じゃあそろそろ、アメちゃんを用意しよう」


 円子は言った。おっさんと顔を見合わせ、目配せ、頷く。


 おっさんはなにも言わず了解し、どこかの壁に向かった。適当な位置に右手を押し付ける。するとその壁は、ドアになり、まじまじと見つめてもどういう構造か予想もできない動きで、スライドした。おそらく、エントランスで見た左のドアから進んだ先の部屋と繋がっているのだろう。そこから、ひとりの女性が姿を現す。その女性は、少女というほど幼くはないが、成人はしていないであろう外見をしていた。


「紹介しよう」


 円子が言う。


「人工生命体。試作Aタイプ。通称あめちゃんだ。……『瓢箪から駒』!」


 ……座右の銘うるせえ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る