小野さんの傘

伴美砂都

小野さんの傘

 小野さんの傘は安っぽいプラスチックの黄緑色で、柄の先がカエルの顔になっている。小野さんは三十八歳独身で、だから同じキャラクターものでも同僚の花岡さんみたいに、子どもがまえ使っていた折り畳み傘をときどき持っているとか、そういうのじゃない。

 会社のエレベーターは湿った臭いがする。乗り合わせた小野さんがいつも通勤に使っている黒いトートバッグには、犬のぬいぐるみのキーホルダーが揺れている。不意にカエルがひょいっと動いた。かわいいっしょ、これ、と言う小野さんに、わたしは曖昧に笑って頷いた。見ないようにしていたつもりだったのに。チンと音が鳴ってドアが開いた。

 小野さんのことをわたしは嫌いだった。昼休みに休憩スペースでお弁当を食べながら、子どものいる人たちが保育園や学校の話をして、子どものいない人たちが笑ってそれを聞いているとき、そうですよね、わたしも二年生のころ、と突然、つい昨日のことかのように自分の子どものころの話を始めるところ。契約社員のなかで一人だけ、このエクセルの表、ここに関数入れたほうがいいと思うんですが、と係長に意見を言うところ。少し太っているのに、私、ふだんあんまりお肉とか食べないんで、と言うところ。これまで勤めてきた職場や、そこで成し遂げてきた仕事のことを何度も話すところ、そのくせ、電話に出るときかならずどもるところ。

 でも、だれもそう言わない。小野さんがいないところでも、だれも彼女の悪口を言わない。だからわたしはこのことを、だれにも言ったことがなかった。


 二階にある休憩スペースは同じ建物にあるほかの会社やほかの部署の人たちも使うから、混んでいると分かれて座らなければならない。そういうときはいつも小野さんと別のグループになるように気を付けていたのに、ちょうど昼前に書類を印刷しようとしたときプリンターのインクがなくなってしまって、取り替えていて少しだけ遅れてしまったせいで、四人掛けのテーブルの、小野さんの前の席しか空いていなかった。だれもわたしが小野さんのことを嫌いだと知らない。お弁当の包みを解きながら、窓のほうを見る。雨は降りそうで、まだ降っていないようだった。向こうのほうの空だけ、予兆のように黒い。

 小野さんのお弁当は、大ぶりのタッパーに入ったパスタと、もう一つ小さな容器に入ったいくつかの野菜だった。


 「おいしそうね、小野さんのそれ」


 言ったのは花岡さんだった。その向かいに座る井上さんも、ほんと、色がきれいね、と頷く。これ自家製のピクルスなんですよ、と小野さんは、容器の中身を見せながらピクルスの作り方を細かく説明し始めた。簡単ですよ、お酢とお塩と砂糖少しと、黒コショウと。山本さんに、あ、アパートの近所のおばあちゃんなんですけど、仲良くなって、分けてもらったんですよ、りんご酢。

 ああ、また始まった、と思う。小野さんのいちばん嫌いなところは、会話している相手となんの面識もない人の名前を、当然のように出してくるところだ。自分がいかに好かれていて、よくしてもらっているということの、自慢みたいに。

 花岡さんは中学生の娘さんがふたりいて、井上さんも、上の息子さんはもう高校生になったと言っていた。だからなのか、延々と小野さんの話が続いても、嫌な顔ひとつせずにこにこと聞いている。年上の人が多いからか、小野さんは職場の中でどちらかといえばかわいがられていて、そのこともわたしは嫌で仕方がなかった。

 別に、自分がかわいがってほしいと思っているわけじゃない。分け隔てされているとか、そういうこともない。ただ、ただ、自慢話のように自分の話ばかりをする小野さんが、そして、そんなふうにしている小野さんが皆に好かれているということが、それが嫌なのだ。

 思えば小野さんといちばん年が近いのはわたしで、でも小野さんはわたしより四つも上だ。年のわりに若く見えるとか、結婚するとかしないとか、そういうことをあえて言う人はたとえばありがちなパターンでいえば管理職の男性とかの中にも、わたしの知る範囲ではだれもいない。そういう意味ではきっと常識的な職場だ。


 「さわちゃんもひとつどう?」


 目の前に差し出された、パプリカの赤と黄色。緑の丸いのは、熟していないミニトマトだろうか。それを尋ねたらまた、このトマトの出どころを、小野さんは嬉々として喋るんだろう。ありがとうございますー、と笑顔を作って、いちばん小さいのをひとつ、お箸の後ろ側でそっとつまんだ。年下だからなのか、小野さんは勝手にわたしのことを仲がいい人と思っているみたいで、苗字にちゃん付けで呼ぶ。年上なのをいいことに、わたしは小野さんのことをずっと、小野さんとしか呼ばない。


 「おいしいです」


 やったー、と小野さんはわざとらしくガッツポーズをしてみせる。最近フェイスブックで知り合った人にお誘いいただいて、お茶の講座に通い始めたんだけど、その方に教えてもらったんですよ、レシピ。パプリカをまだ噛んでいるふりをして、口もとを手で隠したまま黙って頷いた。

 ちょっとコーヒー買ってきますね、と小野さんは立ち上がる。隅に並ぶ自販機のほうへ行くのを見送ってから、わたしはそっと、花岡さんと井上さんのほうを見、そして言った。


 「なんか、すごいですね、小野さん」


 笑い混じりに、でも、ふたりが小野さんのことをよく思っていなかったとしたら、絶対にそうわかるように。でも、花岡さんも井上さんも、そうよねえ、すごいアクティブよね、なんかお花も習うって言ってたし、あら陶芸じゃなかった?、となんということもないように言うだけで、決して、小野さんのことを悪くは言わなかった。



 会社では昼休みのほかに、午後三時から四時の間に十五分間の休憩を取っていいことになっている。忙しくなければだいたい三時半からでそろえるから、今日はわざと早めに席を立ったのに、給湯室で小野さんと二人っきりになってしまった。

 小野さんは給湯室の流しの横の狭いスペースで、備え付けの包丁を使って大きなチョコレートケーキのようなものを切り分けているところだった。


 「あ、よかったらおひとつどうですか?」


 ケーキは、小野さんが作ったのだろうと思った。表面はつやつやしていて、たとえば形が崩れているとか、指紋がついているとか、そういう悪い意味の手作り感はひとつもなかった。きれいな、お店で売っているようなケーキだった。でも、そう思った。案の定、料理教室で作ったんですよ、と小野さんは嬉しそうに言った。

 わたしは潔癖ではないと思う。よその家のお母さんがにぎったおにぎりを食べられないとか、だれかの手作りの料理を食べられないとか、そういうことはない。だから小野さんが作ったということを除けば、それはきれいで美味しそうな、手作りにしてはおそらく相当クオリティの高い、ただのチョコレートケーキだった。ひとつ取って、ありがとうございますと言って食べて、美味しかったですと言えばいいはずだった。あるいは、チョコレートが苦手だとか今ちょっとおなかの調子が悪いとか、なにか言って断ればいい。わたしは小野さんのことを嫌いだけど、少なくとも小野さんはそういうことで怒ったりする人ではないはずだった。


 「どうぞどうぞ、久しぶりに作ったから、おいしいかわかんないけど」


 そして小野さんは料理教室のことを話し始めた。前勤めてた会社、医療系だったんですけど、そこの統括部長に紹介してもらった先生なんです、私、そのころ直属の上司と折り合いが悪くて、すごく嫌われちゃってて毎日怒鳴られたり嫌がらせされちゃってたりしたんですけど、なぜか統括部長にはすごくかわいがってもらってて。鈴木統括部長が、何かあると気にかけてくださったり話聞いてくださったりしてて、気分転換に料理習えばいいよって、紹介で割引みたいな感じで。

 ああ、やっぱり小野さんは嫌われていたんだ、とわたしは思った。小野さんのことを嫌いな人がやっと、わたしのほかにやっと見つかったのに、わたしは全然嬉しくなかった。


 「……、澤ちゃん、大丈夫?もしかして、具合悪い?」


 目の前でぱたぱたと手が振られて、わたしは小野さんのケーキ、切り分けるときにも便利なしっかりとした箱に入れられてここまで運ばれてきたのだろうつやつやのチョコケーキを、じっと見つめた姿勢のまま固まってしまっていたことに気がついた。朝、エレベーターで、小野さんはこんな箱を持っていただろうか。

 ちょっと貧血っぽい顔色してるもん、と小野さんは言う。小野さんが医療系の会社で働いていたときのことは、まえにも少しだけ聞いたことがあった。小野さんは看護師でもお医者さんでもないただの事務職だったのに、だれかが具合が悪いと、すぐ病名を当てようとしてくる。

 そうなんです実はちょっと体調悪くて、すみません、と、わたしは早口で言って給湯室を出た。



 「澤さん、なんか具合悪いって聞いたけど、大丈夫か?」


 席に戻ってしばらくして部長直々にそう言われ、なりゆきでわたしは早退することになってしまった。どこからどう聞いたのか、というか、まず間違いなく小野さんが部長に言ったのだと思うと胃の内側に黒い雲が渦巻くような気持ちになったけれど、そうこうしているうちに周りの人たちにも心配され始めたから、それ以上、大丈夫なんですと言うのはやめた。

 すみませんと言いながら、データを入力していたエクセルのファイルを閉じる。小野さんが係長に、関数について言ったエクセル。係長が怒ることも、嫌な顔すらすることもなく、おお、たしかにそうだな、さすが小野さんはパソコンにも詳しいね、と言ったエクセル。



 傘立てはロッカールームではなく、エレベーターのすぐ横にある。エレベーターを待ちながら、わたしは傘がぎゅうぎゅうに詰まった金属の傘立てを見るともなく見ていた。小野さんの黄緑色のカエルの傘は、たくさんの傘たちの中でも明らかに浮いていた。

 そっと周りを見回した。エレベーターホールにはだれもいない。ドアが開いた瞬間、わたしは小野さんの傘をさっと抜き取り、エレベーターに乗り込んだ。


 外は大雨だった。わたしはかばんの中から自分の折り畳み傘を出して開き、小野さんの傘は身体の前で抱くようにして持ったまま、早足で会社を出た。大粒の雨が跳ねてパンプスの足もとを濡らした。会社は住宅街から少し外れた田んぼの真ん中にあり、この天気と中途半端な時間のためか歩いている人はほとんどいない。それでも抱えた鮮やかな黄緑色がぽっかりと浮き上がるように思えて、わたしはますます足を速めた。傘の柄のカエルには目と口がプリントされていて、右目だけ少し剥げていた。

 バス通りに出る前には、川幅の狭い用水のような川の上にかかる橋を通る。川には、茶色い水が勢いよく流れていた。ざぶざぶと雨の降る中、わたしは立ち止まり、折り畳み傘の下から周囲を伺った。去年買った折り畳み傘は留め具が少しゆるくてすぐ閉じそうになる。クリーム色と薄いグレーのストライプ。国道を行き交う車以外だれの姿もないことを確認して、わたしは小野さんのカエルの傘を、川べりから下に投げ落とした。

 傘は川に流れていくのだと思った。なのに、土手に生えているのか枯れているのかわからないガチャガチャした固そうな草に引っかかって止まった。茶色い川と茶色い草と茶色い土の中で傘の黄緑はとてつもなく鮮やかだった。どうすることもできなかった。わたしはしばらく眼下のそれを眺めていて、そして、全速力で走り去った。



 次の日わたしは会社を休んだ。だから昨日あのあと小野さんの傘が川を流れて行ったのか、それとも、土手に引っかかって止まったままになっているのか、それを確認することはできなかった。

 金曜日だった。雨は断続的に降っていた。ベランダを打つ水の音は、それでも昨日よりは弱まっているように思えた。皆が帰る時間にも、雨はひどく降っていたと思う。帰ろうとして傘がないのを見つけたとき、小野さんはどうしただろうか。もし、万が一傘が川に落ちず、濁流の流れるすぐ横に落ちているところを橋の上から見つけてしまっていたとしたら、小野さんはどうしただろうか。直属の上司にはすごく嫌われていて、と、いそいそとケーキを切りながら言った小野さんの顔を思い出そうとしたけど、漠然としてうまく思い浮かべられなかった。あんなふうにして、会社の傘立てに置いてたんですけど盗まれちゃって、と、いつかだれかに話すのだろうか。そんなような気も、違うような気もした。

 熱はなかったけれどだるくて起きていられなかった。まどろむと、小野さんが小野さんの傘を持っている夢を見た。小野さんは、橋のずっとずっと下、濁流の流れる川のすぐ横で、あざやかな黄緑色のカエルの傘を片手に持ち、もう片方の手に、ふかふかした犬のぬいぐるみのキーホルダーがついたトートバッグを持ってまっすぐ立ち、こちらをじっと見ていた。小野さんのいる下は遥か、遥か彼方で、しかし小野さんの顔ははっきりと見え、ぬいぐるみの犬は大きくきらきらした黒い目で、傘の柄のカエルは丸い左目と少し欠けた右目で、小野さんと一緒に、はっきりとこちらを見ていた。


 高校時代の同級生で仲が良かった四人グループは、わたし以外、皆結婚して子どもを産んだ。年に一度集まっていたけど、ここ二年ほどはない。むかしは夜に居酒屋で集まっていたけど、ミユちゃんが一人目の子どもを産んでからは、いつもファミリー向けのレストランで、昼間に集まるようになった。さまざまな家族の声が行き交う、けれど酔っぱらった人はひとりもいない、健全にざわついた空間。子どもが人見知りしちゃって困るんだ、うちの子もだよ、という会話に、だいじょうぶだよ、わたしも保育園のときめちゃめちゃ人見知りだったし、と言ったときの、一瞬だけ固まったような空気を思い出した。ここに来るまえ新卒で勤めた会社は、同期は皆同い年だった。わたしが持っていた赤い傘、ドット柄の、レースのついた傘、学生時代から使っていたお気に入りの傘を見て、さわちゃんはかわいいねえ、と言った同期の女の子たちの、目くばせをして笑うような顔を思い出した。

 小野さんを嫌うわたしの目は、これまでわたしがしたことや言ったことに周りの人が向けた目だった。わたしの嫌いな小野さんは、小野さんの嫌いなところは、三十四歳になるまでにわたしが必死で切り捨ててきた幼さだった。わたしは仰向けに寝ながら泣いた。鼻が詰まって、涙はこめかみから耳のほうへ不快な温さを残しながら流れて、耳の穴に入った。



 月曜は晴れた。バス停から会社までの道を歩く。同じ方向へ歩く人はほかにも何人もいたが、知っている人の顔はなかった。契約社員はほかの会社の人はもとより、同じ会社のほかの部署の人とも、ほとんど接することはない。

 橋の上にさしかかるとき、わたしは立ち止まってしまわないように気を付けながら下のほうへ目を凝らした。

 川の水は茶色かったが水量はだいぶ減っていた。小野さんの傘は、なかった。


 ふいに、少し前を小野さんが歩いていることに気付いた。厚手のパーカーのような上着、よく着ている、お尻が少しもたっと皺になった黒いスカート、歩きやすそうな青色のスニーカー。黒に白いロゴの入ったトートバッグには、犬のキーホルダー。傘は持っていない。カエルの傘も、ほかの傘も。

 わたしは俯いて歩くスピードをゆるめ、小野さんに追いついてしまわないように、小さな歩幅でゆっくりと、ゆっくりと、会社までの道を歩いた。

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