第7話 あたたかな場所2
彼が、初めてそうしてグラウに笑いかけたのも、この食堂でだった。
だからだろう。アレシアの信頼とそれ以上に強い温かな感情の向かう先、彼女の想いの向かう先である青年を思い起こした瞬間、浮かんだのが、あの時の笑顔だったのは。
「おまえは、追い出されてここに来たわけじゃない。だから、気にするな」
あの時。
アレシアに連れられてこの城砦に来たばかりの、まだどこか気後れせずにはいられなくて小さくなっていたグラウの髪をかき混ぜ、彼はきっぱりと言ってのけたのだ。
「大丈夫だ。
おまえがクリートだって知らなかったおまえの親や友達が何を言おうと、おまえは悪くなんかない。絶対、悪くない」
おそらくは不安そうな顔をしていただろうグラウに、ディスタードは、そう言って笑ったのだ。
今にして思えば、己の義務に誇りを持っているクリートとして……アレシアの相棒であったディスタードは、同じクリートでありながら何も知らないままだった幼いグラウが受けた仕打ちに、怒りを感じずにはいられなかったのだろう。
そして同時に、小さな同族が受けた理不尽な暴力───物理的なものではないからこそ、なおさら惨いそれに、彼は心を痛めてくれたのだ。
ことさらに明るく言い放ったディスタードは、あの時から、手を差し伸べ甘やかすことこそしなかったものの、常に近くにあって彼なりのやり方でグラウを支えてくれた。
アレシアが、失われたぬくもりのような愛情をグラウに再び与えてくれたのだとしたら、ディスタードは、グラウに許しと安堵という得難い自ら立つための基盤を与えてくれた。
その温かさを、どう言い表したらいいだろう。
ふたりは、いつだって傍らで笑っていてくれた。それは穏やかな日溜まりのようで、時につむじ風のような悪戯めいた驚きさえ伴って、委縮していたグラウの心を解きほぐしてくれたのだ。
懐かしい安堵が、ゆっくりとグラウの内を満たしていったあの日々は、今でも心の奥のやわらかな部分を温め続けている。
避けられぬまま人を傷つけ、返す刀で人に傷つけられた。
再び同じことを己が繰り返すのではないかと怯えていたグラウは、誰かに……アレシアに、ディスタードに、城砦の人々に気持ちを預けることを、彼らの優しさによって許されたような気がして、やっと笑えるようになったあの日々を忘れることなどありはしない。
ひとりの男としてもクリートとしても、ディスタードは、だからグラウにとって最も信頼のおける存在だったのである。
そのディスタードがアレシアを迎えてくれるとしたら───彼らの仲の良さを思えば、彼がアレシアを拒むとは思えないが───姉は、必ず幸せになるはずだ、とグラウは思うのだ。
アレシアが幸福になること。ディスタードが幸福になること。
それより大切なことなんて、あるはずがない。
───そうだろう?
繰り返し心の中で唱えるそれは、グラウを支える刃のような呪文だった。
グラウが彼に向けるそれとは違う眼差しで、アレシアがかつての相棒である幼馴染みを見ていることに気付いた瞬間、胸の奥を刺し貫いた痛み───初めて自覚した瞬間にはすでに叶うことはないと知ってしまった想いを、有無を言わさず封印するための呪文。
グラウの心が僅かにでも揺らいだ刹那、鋭く斬りつけるようにその動きを封じてそれ以上の想いを自らに許さぬ、強力な呪文だった。
大切な彼らが幸福になること以上に、何を望むことがある?
それは、確かにグラウにとっての真実に違いないのだから。
胸を引き絞るような痛みから気を逸らすように、グラウは小さく首を振った。
「……そうだね。でもリタにまで困った顔をさせるようじゃ、まだまだ先は長そうだなあ」
「───何の先が長いんですって?」
地を這うような低い声に、シイナに向けていたグラウの苦笑が固まった。
目を上げたシイナが彼の背後を見て、盛んに目を瞬かせる。それを確かめてから、グラウは首を巡らせた。
いつの間にか、一列隣の長机の傍らにアレシアが立っていた。
白い顔が仄かに紅潮しているのは、羞恥とその反動による怒りのためだろう。眦が吊りあがっていた。
腕を組んでこちらを睨みつけている姉を一瞥し、密かに息を吸い込んでから、グラウはにっこりと笑顔を作った。
「姉さんの料理の修行が終わるのが、だよ」
むっ、と口角を下げるアレシアに、グラウは内心で安堵の溜め息を吐いた。どうやらアレシアは、彼女がお嫁さんになるために頑張っている、という彼らの話題自体は聞いていないようだ。
そこから話を聞いていたら、おそらく彼女は今頃、真っ赤になって慌てふためいているはずだからだ。
気が強いくせに……あるいは気が強いからだろうか、己の弱い部分や密やかに努力を重ねている部分に関して不意を突かれると、アレシアは常のようなきっぱりとした強気な態度が取れなくなるようなところがあった。
そうした事柄について恥じているから、というわけではなく、弱味を晒すような事態に咄嗟に怯んで、うろたえてしまう自分を隠そうと慌ててしまうのかもしれない。
弟であるグラウの前では、なおさらにしっかりとして見せようとして、反対にますます取り繕いきれなくなるようなアレシアの不器用な一面は、決してグラウには不快なものではない。
それどころか、優しい気持ちを抱かせるような……彼女の好きなところのひとつだとさえ思うのに、姉としてのアレシアにはそれは許し難いものであるらしい。
泡を食ったような姿を見せてしまった後、彼女が密かに落ち込むことを知っているグラウは、だから姉が彼らの会話の全貌に気付いていないことにほっとしたのである。
好きな男のために───それが公然の秘密であるとはいえ───料理の練習をしていることを、弟と小さな女の子が話題にしていたと気付いていたら、こんな反応ぐらいでは済まなかったところだ。
おそらくアレシアには「リタを困らせる」という言葉だけが聞こえて、それが自分の話なのではないかと察したのだろう。
グラウは穏やかに言葉を継いだ。
「大丈夫。姉さんの腕前は我慢出来ないほど酷いってわけじゃないし、俺も味にそんなにうるさい方じゃないから。
他の人に迷惑がかからないなら、誰も別に文句は言わないと思うよ?」
「何よ、それ。つまり我慢してるあんたとしては、文句が言いたいってこと?」
「違うよ。文句が言いたくなるほど、我慢してるわけじゃないし」
アレシアが手にしていた取っ手付きの器に、慌ててシイナがコンティを注ぐ。
それでもアレシアは、不機嫌そうな顔のまま座ろうとはしなかった。いつもより近い位置で目にするその表情に、グラウは眼差しを和らげた。
「きっと厨房の皆なら、最後まで姉さんにみっちり付き合ってくれるだろうから、大丈夫だねって話だよ」
「……悪かったわね。上達が遅くて」
「そうでもないと思うよ? 厨房の女の人達は皆、シイナぐらいの歳の頃から料理を始めるって言うし」
こくこく、と一生懸命頷くシイナを眺め、グラウに目を戻して、アレシアは眉根を寄せた。
「誰に聞いたの? そんな話」
「リタだよ。
自分達だって長い時間をかけて一人前になったんだから、姉さんにあっと言う間に料理が上手くなられたら立場がないでしょ、って笑ってた」
「あの子達は料理が専業で基準が違うんだから、当たり前じゃない。
……ジェンやスクリティは、すぐに皆から自炊が出来るって保証をもらってたわよ」
「彼女達には、たまたま適性があったんじゃない?
女の人なら必ず料理が出来るってもんじゃないだろう?」
「適性があるなしの問題じゃないわよ。わたしは、出来るようになりたいの」
「うん、わかってる。
だから姉さんと皆が納得いくまで、どれだけかかっても俺も最後まで付き合うよ」
「……本当に、もう嫌だって言いたいわけじゃないの?」
顎を引き上目遣いに自分を睨むアレシアに、グラウは笑った。
その言い方が、らしくもなくまるで拗ねているように聞こえたからだ。
「何で? まるで俺が、物凄く酷い目に遭ってるみたいじゃないか」
「本当に、そう思ってる?」
「え? ……もしかして姉さん、俺を酷い目に遭わせることが目的で、嫌がらせとして頑張ってたの?」
「そんなわけないでしょう。何で、そんな事をしなくちゃいけないのよ」
「だって姉さん、俺が嫌なのかどうか、妙に拘ってるから。姉さんが俺にそんな気を使うなんて、珍しいし」
「どういう意味よ、それ? まるでわたしが、あんたには好き放題に酷いことしてるみたいじゃない」
「そうは言わないけど。
弟という立場では、多少の姉の暴虐に耐えるのが当たり前だぞって皆言うから、そんなものなんだって思ってたし」
「……やっぱり、文句が言いたいんじゃない」
「そこまで酷い目には遭っていないって。せいぜい当たり前の我慢をする程度だよ」
「可愛くない。いつ、そんな言い方を覚えたのよ? わたしは、そんな風にあんたを育てた覚えはないわよ」
小さな子供のように唇を尖らせるアレシアに、グラウはきょとん、と首を傾げた。
「……そうだっけ?」
むしろ昔から彼の傍で、遠慮なくディスタードや若いクリート達と共に毒舌の応酬を繰り広げて、幼かったグラウをどきどきさせていたような覚えがあるのだが。
多少グラウの言い方に毒があったとしても、その生成に彼女自身が関与していないとは、とても言えるものではないはずだった。
口角を引き下げたアレシアの目が据わった。弟を睨みつけながらも、どこか窺うような……グラウを付き合わせている自らの所業に負い目を感じていたような表情が、かき消える。
「じゃあ、あんたはどんな風に育てられたって言いたいわけ?」
「ええ? 普通にだよ? ……普通、だよね?」
「なんで、そこで疑問形なのよ。
変なところですっとぼけるその性格、どうにかしなさいよ!」
「どうにかって……」
とぼけているわけではないのだが、過去の彼女の所業を思い起こして反応が曖昧になるグラウに……あるいは、己の内でも思い当たる節があって気まずくなったのだろうか。
むっとした表情で、まるで気持ちを振り切ろうとするような勢いで一歩踏み込むと、アレシアは弟の頭に拳を振り下ろした。
すかさず上体を逸らしてそれを避けたグラウは、目を瞬かせた。
いくら苛立ったとはいえ、姉が手を上げることなど滅多にない。そんなに気に障るような話だったかな、と内心で首を傾げる彼を正面から睨みつけて、アレシアは唸った。
「こういう時ぐらい大人しく殴られなさいよ。
あんたってば背ばっかり大きくなって、普段は手が届かないんだから!」
「ええ!? 何でそんな話になるのさ!? そんなに怒るような事だった?」
「あんたが悪いの! いいから、殴らせなさい!」
もはや傍らにシイナがいることさえ忘れてしまったのか、噛みつくように言い募るアレシアに、グラウは目を丸くするしかなかった。気が強いとはいえ、アレシアは誰彼構わずむきになるようなことはない。
弟に対する気安さ、遠慮の無さが、彼女の箍を呆気なく外してしまうのだろうか。
とはいえ今回はその理由がよくわからないままなのだから、グラウとしては、困惑するしかない。
いつもなら彼を見上げて投げつけられる悪意だけはない不満の気持ちの奔流を、間近で受け止めるという珍しい状況に加え、いつアレシアの手が出てくるかわからない状態に、グラウはあたふたと姉を宥める。すでに、傍らの小さな女の子に目を配る余裕さえなくなっていた。
だから、とうとうふたりとも最後まで、最初は目を丸くしていたシイナがいつの間にか笑っていたことに気付くことはなかったのである。
背ばかりが先行して伸びているようなグラウの体躯は、けれどもちろんクリート特有のしなやかな筋肉に覆われていて、痩せて見えていても実際はしっかりとした体幹をしている。
しかし小麦色の髪に縁取られた優しい造作の面立ちのせいか、どことなく幼い、大人しやかな印象を見る者に与えることがあるのは否めなかった。
そんなグラウが、見るからに勝ち気そうな小柄なアレシアにずけずけと言われて困ったように笑っているのは、クリートのみならず城砦の人々にももはや見慣れた光景と化していることに気付いていないのは、当の本人達ばかりだったのだ。
平和な日常の一幕であるそれを指して「あれは、アレシアがグラウに甘えているんだろう」と言う声を、シイナが聞いていたことも。
さすがにシイナも、それを『お兄ちゃん』や『お姉ちゃん』に言うつもりはないようだった。
にこにこと楽しそうに笑う小さな女の子の前で、本人達ばかりが真面目な、若いクリートのじゃれあいは、そして続いていったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます